第五章 妖精騎士の鏡

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 レイシーがアリスの異変に気づいたとき、彼女を閉じ込めていた鏡に亀裂がはしった。やがて鏡は悲鳴のような甲高い音で割れて、レイシーは鏡の拘束から開放された。 「あなた、何をしたの!?」  かつての反転世界の王、そして新たな妖精王は長いマントをひきずりながら膝をつくレイシーの傍らでかがみ、彼女のミルクをとかした紅茶色の髪をすくった。 「何をした? 私は妖精王として当然のことをしたまでだ。彼は私の器となった。これでこの丘も、いずれ地上の国も私と……そうだな、お前だけのものになる」  レイシーは妖精王の手を払いのける。 「お前は望んでいただろう? 地上の国へ戻りたいと。だから私がお前に、地上の国を与えてやろうと思ってな。お前が望んでいた国は、もうすぐお前と私だけのものになる」 「私はそんなこと望んでない! それに望んでいることなんて、あなたに叶えてもらいたいなんて思わない」  冷たいな。妖精王はレイシーの鋭い言葉を気にすることも無く、深紅が混じった瞳をした器に目を細めた。 「妖精騎士アリス。お前は我ら妖精たちが集めた数多の心をその身に携えた。さあ、私のために力を使え……」  玉座に座っていたアリスが、覚醒したようにゆっくりと立ち上がる。かつて柔らかだった表情は氷のように冷たく鋭くなり、その穢れた妖精騎士の冷たい視線と交わった時、レイシーは絶望したように目を見開いたままだった。  妖精王は完璧なまでに穢れに染まった器へと、両腕を大きく開いた。これから全ての世界をひれ伏せさせることが出来る力を得ることを心待ちにして。器は微笑む妖精王をじっと見つめて黙ったままだったが、王の両手に応えるように右の掌をゆっくりと伸ばした。 「があぁっ!?」  突如吹いた冷気の風に妖精王のマントが抗うように激しくなびく。足元から上へ上へとのぼる氷の波が、酷く歪んだ妖精王の表情を、そのまま彫刻としてのこすかのように凍らしていく。 「反転世界(まがいもの)の貴様はもう用済みだ。さっさと真実(ほんとう)の妖精王を出せ」 「何……を言……っ、お前は私の器……」 「反転世界(きさま)は俺が完璧な器になるために生んだただの駒にすぎないのを忘れたのか? 穢れた心を集めたこと、ご苦労だったな」  王の間にかすれた断末魔が響く。妖精王の体から黒い球状の光がいくつも抜けていき、その身を凍らせていた氷が溶けて、やがて気を失った妖精王の身体がその場にゆっくりと崩れていく。レイシーは咄嗟にその身体を支えて、その穢れを感じない妖精王の端正な顔が歪むさまに心を痛めた。 「アリス……」  深紅混じりの灰色と視線が絡んで、レイシーの妖精王の身体を支える手に自然と力が篭もる。 「レイシー! 無事か」  冷たい眼差しがこちらにも氷結の術を施すのではないかと身構えていたが、アリスの表情がぱっと柔らかくなり、レイシーは力が入っていた肩をなだらかにさせて目を見開いた。 「アリス、アリスなの?」 「何だよ、驚いたのか? ルシフェルを助けるって言っただろ」  にこやかな笑顔で、アリスはしゃがんでレイシーと視線を合わせる。レイシーはほっと息をつこうとしたが、アリスのその貼り付けたような笑顔に違和感を感じてすぐに表情を強ばらせた。 「ん? どうした、レイシー。……もう、そんな怖い顔しなくていいんだよ。俺が今から、世界中の全部を、君とルシフェルだけの物にしてあげるからさ」  囁かれた言葉にレイシーは冷たい気配を感じて、身体を震わせた。 「あなた、誰なの。アリスはどこ!」  語気鋭く言い放つレイシーに、アリスは貼り付けていた笑顔を消して首を傾げた。 「何、言ってんだ? レイシー、怖がらなくていいよ。君が住みやすい世界を作るから。だから、もう少し待っていて」 「やめて、アリス! どうしたの……何で」 「レイシー……何も言うな」  そばで聞こえた小さな声に、レイシーは支えていた手から体温を感じて開いた黄金の瞳を見つめる。先程とは違う、真実の妖精王の瞳がアリスの深紅を貫いた。 「ルシフェル! 目が覚めたのか、よかった……」 「アリス、お前はまだ目が覚めぬようだな」  ルシフェルはレイシーの支えをなしに立ち上がる。アリスは無垢な表情で困惑したように妖精王を見上げる。 「ただの器に成り果てたか」 「ん? 俺は妖精王(おまえ)の器だよ。何当たり前なこと言ってるんだ」  笑顔のアリスの、その空虚な心にルシフェルは唇を噛んだ。 「ルシフェルさん、どういうこと」  レイシーの疑問に、ルシフェルはアリスにきこえぬように、独り言つように答えた。 「器は我ら妖精たちにとって必要な存在。だが、あれはなんだ? 私にも分からない……器が反転世界、私の穢れを利用して、誰にも縛られぬ自らの居場所を手にしようとしたとでもいうのか」 「難しいこと話してる? 俺には理解できないよ」  アリスはきらきらとした氷の粒を纏って、瞬時に黒い妖精騎士の装いに身を包む。右肩にかけられたアイスブルーのグラデーションが広がる黒いマントがアリスの動きに合わせて踊っていた。  ルシフェルは過去の妖精の丘でアリスが身にまとっていたものと同じそれに、本来のアリスと重ね合わせて深紅のその瞳を憎んだ。 「見てて。今から楽しいことするからさ。二人のためだけに」
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