第二章 誘いの鏡

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「フィーネはずっとこの町に住んでるのか?」  素朴なアリスの問に、フィーネはさらりと答えてのける。 「いいえ、以前はこの町の近くの湖に住んでいたのだけれど、この潮の香り漂う美しい町を好きになってしまったのよ」  この近くに湖などあっただろうか。アリスはこの町に来るまでの間のことを思い返していたが、すぐ近くは広い海ばかりで湖があったことは記憶になかった。 「そういうアリスは旅をする前は、どこで暮らしていたの」 「俺は……森の中にある小さい村に住んでたよ」  アリスは少し迷ってから正直に答える。懐かしみ、灰の瞳をせつなさに歪ませた。思い出してしまうとかつて愛した人々の優しい匂いが漂う。それだけではなくて、心をぎゅっと握り潰される痛みに耐える。村を出てから五年の月日が流れたが、アリスは自分自身が、身体以外にあの頃から成長したようには思えなかった。未だ人間として暮らしていた時の思い出を引きずり続けている己に嫌気がさすほどだ。  妖精として生きていくことを決めたのは、自分だ。取り換え子により妖精に連れ去られたあの二人の本当の子供を見つけなければ。自分が奪ってしまった幸せを返さなければ。  フィーネは町の一番の高台、崖の町の頂上にアリスの手を引いて行く。建物も何もない、開けたそこには、妖精の恋人が甘く芳しい香りを放ち咲き乱れていた。それはすぐ真下に広がる海から運ばれてくる潮風を惑わせかき消すほどだ。アリスは頭がくらりとする感覚を、花畑の中を舞踊って喜ぶフィーネに悟られないように必死だった。 「素敵でしょう? ここは私のお気に入りなの。なんていい香りなのかしら」 「そ、そうだな。すごい綺麗、だし」  アリスはさり気なく右手を鼻によせて香りを防いだ。だが、正直どちらかと言えばとても良い香りなのだ。惹き付けられる。ただ、リラックスできるというよりも、それは植物の発する甘い香りに侵されて己の意識がぐちゃぐちゃになってしまうのではないかという危機感を抱くものだった。  この場所は特に妖精の恋人が群生しており、町中では特に感じなかった気だるさに襲われていた。早くこの場所から立ち去るべきなのに、身体が言うことをきかない。 (おかしい……ここに来た途端。やっぱりこの人は)  妖精だ。アリスは町の人々の不審な目付きが気にかかっていた。最初に立ち寄った店の人々も、どこか虚ろな雰囲気を醸し出していたからだ。他の人々に比べやたらと意識がはっきりとしているフィーネに探りを入れようと彼女についてきていたが、どうやら当たりくじを引いたようだ。 「アリス? どうしたの、大丈夫?」  花の香りに苦しむ少年の身を案じるふりをしながら、フィーネは意地悪く笑う。 (早く、早く心を私にちょうだい……)  冷や汗が出てきて、アリスの目の前が霞む。朦朧とする意識の中で、アリスは覗き込んでくる女の瞳孔が大きくなるのを確認した。だが、そのまま赤い唇を釣り上げ、アリスの頬を片手で撫でる女の、桃色から変わる、真っ赤な瞳から目を逸らすことが出来なくなってしまった。 「──あなたは私の恋人よ。あなたの心は私のモノ。私だけに従って、私のことだけ見ていなさい」  暗示をかけるように紡がれる言葉に、アリスは己の意志で身体を動かすことができず、耳を塞ぐことすらできない。 「や、やめろ……」 「ああ、抗うのはやめて。私に身を委ねるの。あなたは私のためにこれから生きるのよ」  アリスは女の思いのままに流されてしまいそうになった。  だがふいに、背負っていたかばんが白く輝きだした。アリスの薄らんでいた意識が覚醒して、その灰色の瞳に輝きを取り戻す。  フィーネは今までの人間と違いすぐに操り人形にならないアリスを不審に思ったが、やがて答えに辿り着いて身構えた。 「お前、人間ではなく、妖精か!」  一度距離をとろうとしたが、フィーネは思い直したように、動けないアリスの腰に腕を回した。  穢れた妖精は人間の心を狙う。偽物の妖精王の力にならない妖精の心を奪うことは無意味なこと。  しかし決定的な攻撃を仕掛けてくる様子がないフィーネに、アリスは困惑した。 「それなら、尚更。あなたは私の恋人になるのよ。さあ、あなたの心をちょうだい」 「随分、強引だなっ」  フィーネの長い睫毛が震えた。 「あら、あなた」  拘束の魔術に耐えつつ笑うアリスを、フィーネは赤い瞳で更に引き寄せる。 「知っているでしょう。取り換え子は孤独。私は一人が嫌いなの」  取り換え子? 心がざわめく言葉にアリスは耳を研ぎ澄ました。 「私は取り換え子。かつては妖精にも人間にも突き放された哀れな子」  ねえ、あなたもそうなのでしょう。囁かれる言葉に、アリスは鼓動を掻き乱した。 「だったら、なんで取り替え子であるお前は魔術が使えるんだ」 「妖精王様から頂いたのよ。私を救ってくださった妖精王様から。そうだ、あなたも妖精王様から魔力を分けてもらえばいいわ。もっと強くなれるわよ。妖精王様の魔力から生まれる妖精の魔術は、自分の身を守れる力なの」  だからこんなに、たくさん恋人を作ることが出来たのよ。  気付けばアリスとフィーネを取り囲むように、虚ろな目をくるくるとさせた町の人々が、脱力して立ち尽くしていた。まるで、人形だ。 「あなたは私と同じね。人間に見放されたんでしょう? はじめは取り換え子といえども、妖精が元々持つ微々たる魔力すら感じられなかったから分からなかったけど。嬉しいわ。私と同じ悲しみを持つあなたに出会えたなんて……」 「フィーネ、お前は取り換え子の人間の方に会ったことがあるか」  あのかつての両親の子供の手がかりを掴めるかもしれない。アリスは期待を込めつつ淡々とフィーネに訊ねる。 「人間の方に? あはは、ないわ。なぜ人間の方を気にするの?」 「なぜって……」 「そんなことより」  フィーネは取り換え子の話は終わりだと言外に示す。動かない身体、己の身体が己のものではない感覚が苦しくてアリスは唇を噛み締める。追い討ちをかけるように、妖精の恋人の甘だれた香りが容赦なく襲ってきて、再び頭の中が霞み始めた。 「──早くあなたも、私の恋人になるのよっ!」  恋人だと、笑わせるな。周りに佇む、虚ろで意識のない街の人々を見渡しながら、人の心を無理やり奪おうとする女の様に、アリスは嘲笑する。もし自分にも魔力があったのなら、村の人たちの、あの二人の心を無理やり奪って、自分を愛するように仕向け、取り戻そうとしたのだろうか。 「そんなわけ……ないだろっ」  背負っていたかばんが再び白く明かりを撒き散らしたかと思えば、やがて透き通る刀身に水流を秘めた剣へと形を変えていく。フィーネがその眩さに怯み、身体の拘束が解かれたアリスは、剣を右手におさめ背後に飛び退き彼女から距離をとった。 「無駄なことを」  態勢を整えようとした時、アリスは自身に突き刺さる無数の銃口、視線の存在を思い出す。彼らの赤い瞳は酷く濁り、その穢れを注ぐかの如く全てアリスに向けられていた。 『助けて、助けて』  か細い声が聞こえる。アリスの右斜め前方、ブラウンのくせっ毛の少女が草原が燃えつきた荒地の瞳で、アリスの心を打ち鳴らしていた。それに応えようと、アリスは少女の姿をしっかりと捉えた。  少女は他の町の人々と同じく虚ろだったが、確かにアリスに助けを呼びかけていた。明確な助けを求める声。 いや、助けを求めているのは少女だけではなかった。他の人々も皆、虚ろな表情で心の内の救済をアリスに求めていたのだ。人々の救済を求める悲しげな声が、アリスの頭に響き渡る。 『助けて、助けて。あの子を、フィーネを……助けてあげて』 (あの子……フィーネを……?)  だが、くせっ毛の少女だけは、己のことではなく、今アリスの目の前にいる穢れた妖精のことを言っているようだった。アリスは少女の真意を探る。 (自分が危険にさらされているのに、あの子はフィーネのことを分かって……?)  先程までは、正直に言ってしまえば突き刺さる視線に身を縮こませる思いだったが、心をなくしてもなおその穢れの中に悲しみを宿す瞳に、アリスは心を勇み立たせた。 「フィーネ、この人たちに心を返せ」  心を食らう穢れた妖精にとっての、妖精らしかぬアリスの言葉に、フィーネは珍獣を見るかのように、美しいその顔を崩壊させた。 「あなた、何を言ってるの? ああ、私からこの者たちの心を横取りするつもりなのね。そうはいかない。この心は私の、そして妖精王様のもの。安心して。あなたの心は妖精王様のお力にはなり得ないけど、私が大事にしてあげるわ」  フィーネの身体が青白くなり、その細い足は虹色に輝く鱗を飾った魚のものとなる。 「さあ、追いかけてご覧なさい」  正体を表した女の背後に現れたのは、色鮮やかな貝殻が飾られた鏡縁の姿見。女が鏡面へと海に飛び込むように吸い込まれるのを見て、アリスは迷うことなく自らも身体を鏡面に投げた。
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