第二章 誘いの鏡

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 海の底へ沈んでいく感覚に息苦しくなった頃、アリスは地に足が着いていることに気がついた。穢れた妖精の鏡の中は淀んだ空気に侵されていることが多く、これに対処するには、どうにか早く妖精の穢れを浄化するしか方法はない。 「湖か……?」  巨大な鏡が平坦な地上に横たわって空の青色を映しているのかと思えば、波紋が広がりそれが水面であることがわかる。フィーネがかつて住んでいたといっていた湖なのだろうか。 「フィーネ、どこに行ったんだ」  陸地に囲まれた孤独な湖が広がるばかりで、フィーネの姿はない。 「僕を騙したなっ!」 「いやっ、やめて!」  若い男の怒鳴り声と、女の悲鳴が湖畔に響き渡る。アリスは騒ぐ気配の方向へ振り返る。人間の若い男が湖の近くに育つ茂みに、傷だらけになった女を追い詰めていた。 「お前が妖精だったなんて……! 僕を騙したな! 本当のフィーネを、僕の愛する彼女を返せ!」 「やめて、お願いやめてベート。違うわ私妖精じゃない。信じてくれたらなんでもする、私なんでもするから……」  女は縮れた金髪を振り乱し、恐怖で足が竦んでいるのか立ち上がって逃げることができないようだった。  若い男は女の悲鳴にも表情一つ変えることなく、マッチを擦って生み出した赤子のような火を女の身体に放り投げた。  火はすぐに成長し、巨大な炎として今度は女の身体を溶かし始める。憎しみの抱擁に女の絶望が聞こえ、妖精を退治し高揚する男の笑い声が静かな湖の水面を掻き乱した。  妖精の鏡の中に入ると、その妖精の心の歪み、穢れの記憶が見えることがあるのだ。  取り換え子の、炎に燃え尽きた女の姿を見て、アリスは動揺していた。愛した者に拒絶される苦しみの上に、更に彼女は愛していた者の手で命を奪われたのだ。それはアリスがかつて両親だったあの二人に殺されることと同じだ。 「私を愛した心は嘘だったの」  焼け焦げた人間の身体は茂みに放置され、湖の岩の上で人魚の姿をした妖精が、美しい歌声を雨のように降らせる。しとりとした悲しみと静かな怒りをぶら下げた歌声は、茂みの中の灰に沁みていく。 「私は妖精。どうして人間に愛されるには人間でなければダメなの。妖精の私ではいけないの」  どうして? その問にアリスは答えることが出来なかった。妖精は心を食うから、人間にとって妖精は恐ろしい存在で、だから連れて行かれた愛する者を妖精から必死に取り返そうとする。愛する者が帰ってこないと分かった時の怒りや憎しみが、人間を騙した取り換え子の妖精に降りかかる。妖精を殺しても、本当の愛する存在が帰ってこないとは分かっていても。 「私はこれから醜い妖精として生きなければならない。美しい人間にはなれないの」  取り換え子の妖精は、今まで人間だと生きてきた己を振り払い、妖精だと自覚し、燃え尽きぬ永遠の命燃やし続けなければならない。妖精の振る舞いをして、他の妖精と同じように生きなければ。彼女は続けて歌った。 (妖精の振る舞いって何だ? 妖精らしく生きるってどういうことだ?)  人間との違いは? 永遠の命? 姿形? アリスは自分が妖精であると名乗って、かつての両親の元を去ったが、実際己が妖精として生きるとはどういう事なのか具体的には分からなかった。今は、偽物の妖精王を倒し、妖精の穢れを浄化して、かつての両親の本当の子供を探すことだけ。それだけを考えることにしていた。ただ、フィーネの歌う妖精は醜く、人間は美しいということに関しては、アリスは理解しようすら思わなかった。  そんなこと、何を思って決めたのか? 彼女の人間への憧れが、人間を美しいと歌ったのか。ただ、人間への憧れだけは、アリスが理解できないことではなかった。人間であった過去の自分への憧れが。 「お前を助けよう」  女の乱れ始めた旋律に、別の声が重なる。その主は女が座る岩の側に立っていた。だがその姿は黒い影に見えてはっきりとした形は分からない。ただ白い口が動いているのはよく見えた。 「お前に力を与えよう。そうすれば望みをなんでも叶えることが出来る。復讐か? それとも」 「私は寂しいの」  女は髪を垂らして俯く。 「私を愛してくれる人が欲しい」 「なら、力を使えばいい。力を使えばお前を愛する者をたくさんつくることができる。たくさんの心を奪えるのさ」  その心は私の力に。アリスは影が最後に声に出すことがなかった言葉を、唇の動きを見逃さなかった。だが今見ている光景は穢れた妖精の過去の記憶。アリスが今手を出しても何も変わらないのだ。  記憶の映像が乱れていく。最後に映ったのは女が心を奪った人々の、虚空を泳ぐ瞳。彼らは湖の上に浮かぶボートに窮屈そうに乗っていたが、やがて重みに耐えきれずに転覆し、人々は湖の中へ消えていく。残るのは、女の自己満足の歌声だけ。 「アリス、どう見てた? 私が燃え尽きるところ」  背後の声に振り返り、アリスは剣を構える。 「それから私を愛しなさい。私は愛されたい。全ての心から。私を否定する心も無理やり奪って、私の虜にするのよ」  先程の記憶の、彼女の苦しみが少しも分からないわけではなかった。 「どうして」  でもほとんど、今の彼女が言ったことが理解できない。無理やり心を奪って愛されていると信じこんで。 「そんなの、自分を傷つけるだけだ」  アリスの哀感を帯びた声に、フィーネは一時憤ることを忘れた。彼から敵意は確かに感じるのに、なぜそのような声で語りかけてくるのかフィーネには分からなかった。 「人の心はそんな簡単に、自分の思い通りには変えられない」  俺も変えられなかった。違う、変わるべきなのは、自分自身だ。アリスはあの村のことを思い出した。 「──いいえっ、変えられるわっ! 見たでしょう。彼らを。彼らは私だけを想うの。私の言うことは絶対。私以外を見てはいけない。それでももし私に従わないものがいたら、その首を斬り落として、燃やしてやるわ」  人魚の姿で宙を泳ぎ、フィーネは真っ青な大鎌をアリスの首を狙って振るった。アリスは飛び退いて、再び襲ってくる刃を剣で受け流した。  開けた海から遠ざけられ孤立した湖は、フィーネに力を貸すように大きな波をたて始める。それだけでなく、湖に沈んだはずの心奪われた人々が、松明に炎を宿して再びアリスの周囲を囲う。  ──熱い!  妖精は人間よりも火に敏感で、アリスはその熱を感じただけでも焼け焦げそうだと額を拭った。 「さあ、燃え尽きたくないのなら私にその心を渡しなさいアリス」 「やな、こった……!」  あの甘い花の香りが、再びアリスに襲いかかる。人魚の誘う美しい歌声が頭の中で響いて更にアリスを追いつめた。意識が朦朧としてきて、アリスは炎の熱と激しい頭痛に耐えきれず片膝をつく。 「ここまで持ちこたえたなんて、褒めてあげてもいいわよ」 「う、る……さい……」 「心を思い通りにすることは出来るわ。あなただってしてたんでしょ? 私たちは取り換え子だと疑われないように人間たちに暗示をかけるのだから」 「な、に……?」  暗示をかける? 誰にもそんなことをした覚えはない。アリスは首を横に振ってフィーネの術に抵抗した。 「取り換え子が人間たちに馴染むため元々持つ力よ。けど、私のその力は小さな妖精に襲われたことで消えてしまった。幸せも、何もかも。今ある魔力が、あの時あったなら……」  小さな妖精に襲われた。それはアリスも身に覚えがあった。森の中で妖精に連れていかれそうになったこと。その後に、両親から疑われたこと。 「だから、あなたも無意識に人間たちに暗示をかけていた。自分が人間だと、実の子どもだと言うことをね」 「ち、違う……!」  否定したいのに、どこかで自分の心が、人間たちに暗示をかけたのは自分だと首を縦に振る。そんなはずはないと思いたいのに、現実がアリスの心をずたずたに突き刺していく。   「あら残念。タイムリミット。もうおしまいにしましょうアリス。だって時計の針は止まらないんだもの」  フィーネが微笑んだのを合図に、虚ろな人たちによって松明に灯された炎がアリスに向かって投げられる。鏡の中の淀んだ空気よりも穢れた炎は、アリスの逃げ場をなくして、彼を包みこもうとして大きく広がる。  アリスが動く間もなく炎は燃え上がった。先程の過去の記憶で見たフィーネの叫び声が、炎の激しさと共に聞こえてきた。
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