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「あれ、熱く……ない?」
熱いというより、むしろとても涼やかだ。あの恐ろしい炎はどこにいったのか。傷一つない綺麗なままの身体をアリスが確認していると、ちょうど目の前で大きなため息が落とされた。
「全く、この程度の炎から逃げられないとはがっかりしたぞ」
「この程度って、無理な時は無理なんだよ」
夜空色のマントを風に任せている青年の姿の妖精王。炎を消し去った風の魔術が彼の周りを漂い消えていく。気まぐれに帰ってきてくれた彼にアリスは破顔した。
「遅かったな、どこ行ってた?」
「浜辺だ」
「ふーん? ま、ありがとな、助かった」
「礼はいい。彼女を浄化するのが先だ」
穢れた妖精の金切声。淀んだ歌声が二人の談笑を裂いた。
「何よお前はっ? 妖精王様のふりをするなど浅ましい!」
フィーネが両手を振り上げたのを合図に、湖が渦を作り出す。やがて水は蛇の形となり、佇むルシフェルとアリスへ、濁流のように穢れを纏って襲いかかった。
「紛い物は消えなさい!」
湖を全て吸い上げ巻き込んでいく穢れた水の蛇が勝ち誇ったように巨大になる。佇むルシフェルに水の蛇が大きな口を開けた時、それを遮るようにその口を透けた刃が切り裂いた。
真っ二つに裂かれた水の蛇の身体は、ぼこぼこと水の泡を吐き出して崩れ落ちていく。
「くっ、何なのっ……」
憎悪に歯を噛み締めるフィーネをよそに、水滴を引き連れた剣を下ろしてアリスは静かに着地した。蛇を形作っていた水は、雨が降るように地上に落ちていった。
「これで借りは返したな」
「仕方がない、そういうことにしてやろう」
歯を見せてアリスは笑い、一つに結った髪と黒いリボンを揺らしてフィーネに向き直る。
「何なのよ、どうしてなの……っ!」
フィーネはアリスが中々自分の思い通りにならないことに腹を立てていた。心を奪った人間たちは心を奪う前にもフィーネの艶やかな気配に心酔していたのに、目の前の魔術すらろくに使えない妖精には操りの糸すら上手く繋げることが出来ていない。
「フィーネ、タイムリミットだ。こんな悲しいこと、もう、終わりにしよう」
空中でぶら下がる人魚は、歌声をか細く弱らせる。燃え上がる悲しみと寂しさは渦を巻いて混乱する彼女の紅い瞳に吸い込まれていく。
「終わり? それは私が決めることよ、少し記憶を覗いたぐらいのあなたに言われたくないわ。私が可哀想だって言うの?」
可哀想だと言って欲しい。この傷を癒すために私を哀れみ慈しんで。
「そうだよ」
泣き叫ぶ人魚と、虚ろに霞んでいた草原色の瞳で涙を流す人間の少女の姿が重なる。アリスは伏せていた目を見開いた。
駆け出したのが早かったのはアリスの方だった。フィーネは剣を振り上げて跳んでくる少年を紅い双瞳でしっかりと捉えていたが、反撃に出ることも身を守ることも出来ないでいた。フィーネが抱く奪った人間たちの心を、地上で虚ろな顔の肉体が引っ張っていて、フィーネは身体を固定されて動けないでいた。
「何で、どうして急に……」
アリスが透けた刃をフィーネの穢れに向かって振るう。肉体は裂かれたが、血が飛び散ることもなく、フィーネの身体から無数の丸く白い光が飛び出した。光は糸を伝い、虚ろな肉体に自ら戻っていく。
(私は、生きていいの?)
殺されると思っていたのに。切り裂かれても傷一つない身体に、フィーネの邪悪に染められた心が遠ざかっていく。
(私は、生きていたい)
地上で着地したアリスは、剣を地面に突き刺した。突き刺した箇所から傷が生まれ、それを伝って空間全体にも亀裂が走る。かつての湖、閉じ込められていた海が、裂かれた陸から溢れ出した時、景色は瞬時に潮風の穏やかな街へと戻っていた。
アリスの足元には割れた鏡の破片と崩れた鏡縁。周りには心を取り戻しつつ気を失ったまま倒れる町の人々。アリスの隣に立つルシフェルの目の前には、波打ち際に打ち捨てられたように倒れる人魚の姿があった。
「全部横取りするなんて、ひどい妖精ね」
白く小さな花が風に揺れているところ。激しく掻き乱して走ってくる足音。それは浄化されつつある妖精に近づいてくる。ブラウン色の髪を揺らす少女は青々とした草原色の瞳を取り戻し、人魚の姿を見つけると、躊躇うことなく細い腕で抱きしめた。
「な、何? 誰──」
「フィーネ!」
目を剥くフィーネの肩に顔を擦り付けて、少女は泣きじゃくる。しばらくして息を整えた後、少女は涙をいっぱいに溜めた目を細めた。
「やっと、会えたね。私の取り換え子」
フィーネは言葉を失い、少女をまじまじと見つめる。今になって理解した己と強く引き合う人間の姿に、紅い瞳から水滴がこぼれ落ちた。
「どうして、あなた、ここに」
「この町に逃げてきたの。妖精王から、妖精たちから。逃げてあなたに会いに来たの。そしたら、様子がおかしいあなたに」
穢れたあなたに、心を奪われてしまった。少女は俯く。
「逃げてきたって」
アリスの問いに少女は頷く。
「鏡を通って暗闇の中を走ってた。そうしたら、光が見えて、この街に着いたの。……本物の妖精王は、あなたなのね」
少女の疲れきっている表情に、ルシフェルはただ頷く。
「ありがとう妖精さん。フィーネを救ってくれて」
「いや、まだだよ」
アリスは剣から姿を変えたかばんの口を開いて、妖精の恋人が咲き乱れる花畑の上に置いた。
「フィーネ」
「嫌よ」
もうほとんど力も入らないぼろぼろの身体をかばいながら、フィーネは残った穢れの力を絞り出すように口の端を釣りあげた。
「妖精王様のために私は生まれたのよ……全ての心を妖精王様に捧げるため、私は今まで」
「すまない」
厳かな声音が、フィーネの穢れた歌声を終わりへと導いた。フィーネはルシフェルのことを偽物だと罵倒することも無く、ただ真の妖精王を見上げていた。
「不甲斐ない私は王座を奪われ、私の偽物の行いにより、お前の心身を傷つけた。我らは妖精たちを浄化し、穢れた妖精王を鎮めるために妖精の鏡を探している。お前はこのかばんの中でその穢れを全て浄化し、再び妖精として生きるのだ」
フィーネの瞳から、穢れた紅が流れ落ちる。
「私は、生きていてもいいの」
「何を言う、それは他の者に許しを得るものでは無い。お前は私の、妖精王のためにではない、自らのために生きるのだ」
口を開けたままのかばんから、浄化を促す光が溢れ出す。フィーネはしがらみから解放され緩む瞳で、取り換え子の少女に向き直る。
「……私、とても寂しいの。フェイン、あなたにまた、会いに来てもいい?」
フィーネの微笑みに、少女フェインも破顔した。
「うん、もちろん。私あなたのことを待ってる。ずっと、この町で。会えたら、一緒に海を見て、たくさんお話しようね」
潮風に踊る妖精の恋人は惑わす香りを撒き散らすことなく、穏やかに抱擁する二人を見守っていた。
妖精が光に溢れてかばんの中へ消えていくまで、その温もりを人間の少女は強く抱きしめたままだった。ひとしきり終わると、青い蝶が一羽飛んでいくのを少女は微笑みながら見つめていた。
「ありがとう妖精王様、妖精さん」
穏やかな少女の声音は、広がる蒼穹によく響く。花の香りは優しく、穏やかな日常を取り戻しつつある町を潮風と共に包み込んでいた。
「あの、聞きたいことがあるんだけどさ」
首を傾げて耳を澄ます少女に、アリスは一歩踏み出した。
「他の、偽物の妖精王に囚われた取り換え子のことは何か知らないか?」
「……ごめん。分からなくなっちゃった。ここに逃げてたどり着いた途端、思い出せなくなった。悪い妖精から逃げてきたこと以外、何も」
「そうか……。うん、ありがとう」
アリスの屈託のない笑顔に、少女も笑う。少女は足元に咲く白い花をいくつか摘むと、一輪をアリスに手渡した。
「はい、私からの気持ち。お守りとして受け取って」
「あ、ありがとう」
アリスは白い花を受け取ると、迷わずそれを髪を結くリボンに括りつけた。
「妖精王様、どうぞ」
少女から花を受け取るも、ルシフェルは困ったようにそれを見つめる。その手からアリスは花を抜き取り、器用にルシフェルのマントの飾りに結びつけた。
「おい」
ルシフェルの抗議する視線をアリスは笑ってかわす。本当はそれほど嫌がってもいないことを見抜いていたから、その視線を受け取る必要もなかったのだ。
「アリス、見つかるといいね。これは、あなたの片割れに」
少女はもう一輪差し出す。アリスはそれを受け取って、一瞬迷ってからそれを浄化のかばんに括りつけた。
「あー! ルシフェルさま〜!」
ついさっき聞いたような声にルシフェルは目を瞬かせる。赤いツインテールの少女がこちらに手を振りながら走ってきたのだ。
「またお会いしましたね! これはあたしとあなたの運命が繋がっている証……!」
きらきらとした瞳をルシフェルに向け跪く少女に、ルシフェルはまたお前かとため息を零す。
「ルシフェル、誰だ? 知り合い?」
「いや、先程会ったばかりだ。確か、シアと名乗ったな」
「ルシフェルさま! あたしの名前を覚えていてくださったの……あんた誰よ」
ほころんでいた少女の顔が、アリスを見た途端、きっ、と鋭く瞳で威嚇する。アリスは少女のあまりの変わり様に息を飲んだ。
「アリスだ。私と共に旅をしている」
「よろしくな、シア」
シアはじーっと、アリスを眺め観察していたが、はっと目を輝かせアリスの差し出していた手を両手で握った。アリスは輝き出した少女の瞳に押され背筋を伸ばし目を白黒させる。
「あなたも妖精ね!?」
「え……え?」
「はあ、だから言っただろう。私は妖精ではない。アリスも妖精ではない。人間だ」
ルシフェルの訂正にもお構いなしに、少女は嬉々とした表情で跳ね踊る。
「何て素晴らしいの! さすがあたし! 妖精を、しかも二人も見つけちゃうなんて……え、何?」
シアはステップを踏んでいた足を止めた。ざわざわと周囲が騒がしくなり、やがて自分の方へ迫ってくるたくさんの足音にシアは動転したが、そのまま突然生まれた人の波にさらわれてしまった。足を踏みつけられる傷みにシアは叫び声を上げた。
「なになになに!? きゃー! どこ踏んでんのよあんたたち! 邪魔ー!」
「なんて素敵な殿方……!」
「絶世の美男子だ!」
「どこからいらしたのかしら!」
「こんな美しい男は、何十年も生きてて見たことがないぞ」
フィーネの術が解け、操られていた心を取り戻した町の人々がルシフェルに群がり始めたのだ。
「うわー、もう!」
「アリス、ここを出るぞ!」
今まで倒れていたとは思えぬ老若男女の生命溢れる熱気に、さすがのルシフェルも珍しく狼狽えていた。
「ああ〜! ルシフェルさまあ〜!」
人の波に流され遠くなるシアに目もくれず、ルシフェルはマントを翻し姿を消したと人々に見せかけて猫の姿となり、集まる人々にぶつかったアリスが落としたキャスケット帽を咥えて長い坂を下っていく。
「お、おい、ルシフェル待てよ!」
突然いなくなった美男子に困惑する人々を後目にアリスは苦笑しながら、人々の集団をなんとかかき分け駆け出す。
「ばいばい、アリス、ルシフェルさま。またね」
「またなフェイン!」
フェインに手を振り返し、アリスは花に囲まれ置き去りにされていたかばんを拾って背負いながら、走り去ったルシフェルの後を辿り追いかけた。
「またね、フィーネ。私、ずっと待ってるから」
さらさらと、妖精の恋人が少女の細く白い足をくすぐる。柔らかな草原色の瞳を輝かせ、フェインは遠ざかるかばんの中で眠る片割れに微笑みかけた。
「急に走るなよ! 普段なら騒がれてもすまし顔でいるくせに」
「私にも驚くことはある。あのように急に囲まれてはな」
またあのパスタ食べに来よう。心を奪われていたはずの料理人が作ったものより、もっと美味しいに決まっている。アリスは町のカフェテラスの前を通って、坂を下り穏やかな波音の浜辺を走る。はじめに訪れた小さな洞窟は遠ざかりその入口は見えなくなっていった。
「それにしてもあのシアって子、俺たちのこと妖精だってなんでわかったんだ? びっくりした」
「あれは……いや、ただの人間の戯言だろう。気にするな」
ルシフェルの歯切れの悪い返答にアリスは首を傾げる。そんなアリスにルシフェルは走りながら振り向きざまに帽子を投げて寄こした。
キャッチしながら、アリスはキャスケット帽の中にきらりとした物が入っているのを見つけ、煌めきを波に乗せる海にかざした。
「貝殻……?」
丸く小さな貝殻は真っ白に美しく輝いていた。一見どこにでもある貝殻のようだが、不思議な波の模様が浮き出るように光っていた。
「それはシーの貝殻だ。我ら妖精にも伝わる魔除の守り。この浜辺にある星の砂から私が作った。いざと言う時に役立つだろうから持っておけ」
「ルシフェル、もしかして俺のためにわざわざ探してくれた?」
「そうだが」
アリスはからかうように笑っていたが、ルシフェルに素直に即答され呆気に取られ立ち止まった。ルシフェルは振り返り、しっぽをゆらりと揺らす。
「お前が穢れてしまうと困るのでな。今の私ではまだ、お前を穢れから守りきれるか分からない」
アリスを見つめているようで交わらないルシフェルの黄金の瞳は、空寂の世界を映していた。アリスはそれに気づいてルシフェルの瞳に自分が映るようにしゃがみこむ。
「おいおい、俺はそんなやわじゃないぞ〜」
「さっきはかなり危なかったようだが?」
「な……こ、これからもっと強くなるんだよ! 俺の方こそ、お前を守れるようにな!」
片目をつぶってアイコンタクトをとるアリスに、ルシフェルは微笑みつつ目をそらして再び浜辺の道を走り出した。
──思い出せ。お前が──であることを、思い出せ
「え……」
また、あの声が聞こえた。だが、幼い頃から聞こえていた声が、上手くは聞き取れないが今までとは違うを言葉を紡いでアリスは立ち止まった。
「おい、アリスどうした?」
聞こえてくる声のことは、ルシフェルに話していない。なんとなく、話すのが怖いのだ。アリスは首を横に振り、ルシフェルに下手なつくり笑顔を向ける。
「……いや、何でも。さ、早く行くぞ!」
勢いよく駆け出したアリスの背中を、ルシフェルは探るようにしばらく見つめていた。
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