第三章 鏡の国の鏡

3/13
前へ
/183ページ
次へ
 翌日の賑やかな店内は、ある点においていつもと違っていた。忙しなく働く従業員たちがよそ見をするぐらいに、客たちが目の前のごちそうよりも目を奪われてしまうぐらいに、今日からの新入りの二人がフリルを踊らせながら、華麗にできたてのごちそうを運んでいくのだ。 「な、なんだアレ!」 「かわいい……」 「ママ、あれすごーい!」 「こらっ、真似しちゃダメよっ」  騒めく客たちの視線の先、ルシフェルが小柄な少女の姿で両手にぐらぐらと倒れそうなほど積み上がるごちそうを運んでいく。崩れてしまうのではないかという客たちの不安と好奇の視線をよそに、ルシフェルは難なく全てをそれぞれのテーブルへ届ける。何故自分が注目を浴びているか理解していないようで、それに興味もないのか、その後、人間に向ける営業用の笑顔もあるはずもなく、仏頂面のまま淡々と接客を続けていた。  フィーネはというと持ち前の艶美な振る舞いで老若男女を虜にし、店にはいつもより多く客が足を運んでいた。ロベルタは素晴らしい働きぶりの二人に喜んでいたが、アリスはあまりの二人の目立ちぶりに気抜けした気持ちでいた。 「ほらほら、たんとお食べなさい」 「はーい」 「フィーネちゃん、明日も来るからね!」  フィーネに鼻の下を伸ばす男たちを後目に、アリスはオーダー待ちのテーブルへと急ぐ。 「お待たせしました、ご注文は……」 「オレンジマーマレードのトーストを頼む」  煙草を嗜み、黒いコートを着た褐色の中年の男が切れ長の目を伏せながら静かに答える。顔には深く皺が刻まれ、奔放に伸びたミディアムロングヘアは男のミステリアスさをより強調させていた。  アリスはがやがやとした店内で異彩を放つ、落ち着いた、どこか高貴な雰囲気の男を珍しく思いながらオーダー票に筆をはしらせる。 「お前も好きだろう? オレンジマーマレード」  不意に降ってきた男の声でアリスの手が止まる。 「え、はい……好きです、けど」  アリスが意図の掴めない男の問いに困惑していると、男は怪しげに微笑んだ。 「オレはあの苦味と酸味が好きなんだ。甘ったるすぎるやつは嫌いだな。お前もそうだろう?」  アリスは男に言われて、森のノーグ村に住んでいた時に食べた、かつての母セレーナの手作りのオレンジマーマレードの味を知らぬうちに舌の上に思い浮かべた。あれは程よい苦味がトーストに調和していたが、男の言う甘ったるいものは食べたことないなとそこで思考を途切らした。 「うーん、甘ったるいのは食べたことないな」  アリスが応えると、周りの賑やかさが急に静まり返った。 「オレの屋敷に来い。今夜、お前の探し求める姿を見せてやる」  男の声だけがアリスの耳に入ってくる。煙草の匂いが、二人だけを店の賑やかさから遠ざけていた。 「……何のことだ」 「特別な鏡をお前にだけ見せてやろう。鏡の国の鏡を」  鏡の国の鏡? 聞いたことも無い単語より、ルシフェルの言っていた屋敷と鏡が頭の中で繋がって、アリスは笑う男の正体に気づいたが、それを問い詰めようとした時には男の姿は忽然と消えていた。賑やかさが急に戻ってきて、アリスはあまりの騒々しさに耳を塞いだ。 「……って、オレンジマーマレードのトースト、いらないのかよ」    
/183ページ

最初のコメントを投稿しよう!

60人が本棚に入れています
本棚に追加