第一章 幸せな鏡

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 長い祝宴の翌朝、アリスはかなり寝不足だった。あれから村人たちは明け方まで歌い踊り、幼い子どもたちは踊り明かす大人のそばですやすやと眠りについていた。アリスも席に座ったままうつらうつらしていたことを覚えている。  村長の邸宅。その二階にある寝室の白く平べったいベッドでアリスは目を覚ました。眠い目をこすり、大きなあくびをしながら、何度か白いシャツのボタンをかけ間違えながら着替える。それから継ぎ接ぎだらけの紺色のズボンを履く時に足をひっかけて転びそうになって、やっとアリスは意識を覚醒させた。  そしていつも通り、昨晩の夢の中でも聞こえてきたあの妙な声をアリスは思い出す。幼い頃から、ずっと、いつも語りかけてくるのだ。だが、アリスは怖くて誰にもその事を話せないでいた。思い出せ、思い出せ。何を思い出せというのか、アリスにはさっぱり理解できないし、知りたくもなかった。  物思いにふけながら、アリスは肩まで伸びたゆるくカールする髪を慣れた手つきでリボンでひとつに結く。その際に残した耳のそばにくるりと垂れる髪がアリスの柔らかい頬をくすぐっていた。  これらは毎朝繰り返される少し退屈な儀式だ。しかしこれを終えてしまえば、母の特製スクランブルエッグとトースト、温かいミルクに辿り着くことができるのだ。 「ん〜うまい」  スクランブルエッグをのせたトーストをさくさくと平らげるアリスの横で、父ダンは温かいミルクをすすり、母セレーナは使い込まれたフライパンを洗いながらアリスを見て微笑む。 「アリスはいつも美味しそうに食べてくれるから作りがいがあるわ」 「母さんの作る料理は全部美味しいからな! おれも上手く作れるようにもっと練習しないと」 「前にお前が作ったスクランブルエッグは散々な味だったからな」 「な、あれからちゃんと練習してるぞ!」  数日前にアリスが作って失敗した黒焦げの卵の塊に対する正直な父の意見に、アリスは口を尖らせつつ内心は反省していた。ただ卵を焼くだけだと思ったのに、油断して結局焦がしてしまったりして、中々母のようにとろとろには作れないのだ。  アリスは食器を洗い終えたあと、少し大きい黒いキャスケット帽を被り外に出た。まず始めに出会ったのは昨晩の酒の臭さが抜けていない村の男たちだ。これから森に狩りに出掛けるという。 「アリス、お前も行くか?」 「ああ、行く!」  がっしりとした体格の五人の男たちに混じり、アリスは森の奥深くへ向かった。大人がいれば真っ先に弱い子どもを狙おうとする妖精たちは中々近づいてこないとサターが言っていた教えを守りつつ、緑が茂り陽の光が遮断された森を進んでいく。 「昨日仕掛けた罠の様子を見に行くぞ」 「はいよ」  男たちは一応猟銃をひっさげてはいるが、罠を作る方が上手かった。アリスは男たちと共に檻の中にいる獲物の最後に自らの手で向き合い、祈りを静かに捧げているのが常だった。  ひと通り仕掛けていた罠をまわりきり、他の獰猛な獣たちに襲われるようなことも無く、村に戻るため一行は歩みを進めた。森はいつも静かで、獲物を担ぐ男たちの話し声しか聞こえない。 「妖精も罠にかからないもんかね」 「ああ、そうすれば奴らから連れ去られた子どもの居場所を聞き出せるのにな。取り換え子の妖精は最後まで口を割らなかったし」 「忌々しい、オレたちが妖精に何をしたってんだ。心を食らうなんてたまったもんじゃねえ。だけどよ、おれたちは代々この森や土地を守ってきた。今更妖精がおっかねえからってこの村をすてるわけにもいかねぇ」 「おれは街で心を食われたやつを見たことがあるぞ。目が虚ろで、その後すぐに死んじまった」  口々にこぼれる妖精への嫌悪や恐れ。それを聞くアリスも妖精に対して恐れがないわけではなかった。連れ去られた子供たちのことを考えては恐ろしいことこの上ない。人間の子供と取り替えられた妖精は、村人たちに火やまじないをかけた銀を投げられ、妖精を退治することに長けているフェアリードクターのサターによって始末されていた。  アリスは幼い頃それを実際に見たことがあったが、火にあぶられて甲高い声で泣き叫ぶ妖精の声が耳にこびりついて離れない。ぱちぱちと飛ぶ火の粉。燃え尽きて灰と化す妖精。村人の怒り、妖精の被害にあった子供の両親の悲痛な嘆きが。 「うわっ!」  アリスは前のめりに転んで、かたくなりつつある地面に全身を打ちつけた。何かが足にひっかかって、いや、何かに足を掴まれたのだ。  誰だ? 辺りを見渡すが、今まで一緒にいたはずの男たちの姿が見えない。 「た……すけ……!」  アリスは転んでうつ伏せになった状態のまま、得体の知れない何かに後方へ引きずられていた。助けを呼ぼうとしたが、声が掠れて上手く出ない。ふいに、先程の狩でしかけた罠にかかっていた獲物のことが頭に過ぎった。  どのくらい引きずられたのだろうか。白いシャツは土色に変色しているだろう。一本の木に足の裏がぶつかったかと思えば、アリスはそのまま太い幹を背にした状態で身体を縛りつけられた。  よく見るとここまでアリスを引っ張ってきていたのは、この森で見た事のない植物の蔓で、ひとつひとつは細いが、いくつもの蔓が集まって一本の太い蔓となっていた。それに縛られた身体はどんなによじっても抜け出すことが出来ない。 『みつけたみつけた』 『素敵なお人形さんにしましょうね』  森の中に複数の歪んだ音が重なる。その不気味な声が響き渡り、アリスは恐ろしくて、逃げ出したい一心で身体を力いっぱいよじって暴れた。 (何だよ、これ!)  妖精だ、きっと妖精なんだ。どうしよう、どうしよう。自問を繰り返しても、身体は解放されずなすすべもなく、姿の見えない妖精への恐怖に震えるしかなかった。身体中から嫌な冷や汗が流れる。黒いキャスケット帽にかけられた、妖精を避けるというまじないはまったく効いていないではないか。アリスはこの時初めてサターのことを疑ってしまった。 こ の世の主は よ うせい 王 こ ころの歌は う そつき さ ろ う獄の足か せ 消えい ま あ の妖精の丘 い ざない の つ れていかれ 歌 う心見 た め ざめる力を う ばうた め  聞いたことも無い歌が妖精によって紡がれる。これからきっと心を食われて、殺されるに違いない。肉体を切り裂かれる痛みを覚悟していたのに、しばらくしても直接的な攻撃が一切ないことが、更にアリスの恐怖心をかきたてた。 (こわい……誰か助け……)  自分は今狩られる側だ。脳裏に罠にかかった獲物にとどめをさす刃が迫ってきて、アリスは視界にそれを映したくなくて目を瞑らずにはいられなかった。  白い球状の光が縛られたアリスの周りを踊るように飛んでいる。アリスは更に縮こまって激しく息を吐いた。 『ちがうわ』  ひとつの低い声が、淀んだ森の空気を、怖気付いたアリスの血の滴る想像をかき消した。白い光も歌声と動きを止めて消えていく。 『ちがう』 『ちがうわ』 『ちがう』  複数の声が徐々に遠くなった時、突然蔓が解け、アリスは苔の生えた土の上にまた叩きつけられた。 「いって……!」  ざわざわとしていた森の中がしんと静まり返る。アリスはなんとか踏ん張って起き上がると、ふらつく足をひっぱる勢いで駆け出した。 「何なんだよ……何で……」  アリスの呼吸は忙しなく、とにかく夢中で走った。鋭利な葉に身体が傷つこうがそんな弱い痛みには構っていられなかった。進む先に村の明かりが見えても、後ろからまだ追われているような気がして、早く村に辿り着きたい一心でアリスは必死にがたがた震える手足を動かし、見慣れたあたたかい光に手を伸ばした。
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