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どこまで落ちていってもオレンジマーマレードばかりで、アリスはめまいがしてきて頭を抱えたが、それがようやく治まった頃にアリスはひとつの瓶を手に取りった。
「腹、減ったかも」
蓋を開けて匂いを嗅ぎ柑橘のさわやかさを確認すると、アリスは罠か毒かも疑いもせずにそれを指ですくい口にした。
「ん、おいしい」
苦味とすっきりとしたほのかな甘さが口の中に広がると、アリスは頭の中が冴え渡っていくのを感じていた。アリスは夢中になってもう一口すくったが、オレンジマーマーレードの棚がひとりでにがたがたと揺れ始めて持っていた瓶を取り落としてしまった。
「な、何だ?」
オレンジマーマレードの棚が歪みだし、ついには崩れ落ちて再び暗闇に包まれる。アリスは衝撃に耐えるように身構えていたが、それ以上何も起こらないことを不思議に思って目を開ける。いつの間にか降下していく感覚は消えていたが、目の前は相変わらず真っ暗なままだ。
「終わったか……? 何なんだ一体」
アリスが立ち上がったのを見計らったように、暗闇の中、白く光る一枚の姿見が現れる。アリスが不審に思いながらその姿見に近づいた時、その鏡はアリスの姿ではない別の姿を鏡面に映していた。
紅茶にミルクを溶かした色の背まで伸びた長い髪と、アンバーの瞳。胸元に花の刺繍が施された白いドレスが鏡の中で揺れていた。
『助けて』
白いドレスを着飾った少女の声は、穏やかな海の如く、深く落ち着いた音をしていた。
「誰だ……?」
アリスは鏡面に右手で触れる。すると、少女の表情がぴくりと動いた。
『私はあなたが探している取り換え子』
取り換え子。アリスは少女の言葉に動揺した。
『どうして私の居場所を奪ったの』
少女の目から雫がひとつ流れ落ちる。
『どうして私の家族を奪ったの』
少女の心を劈く悲しみに、アリスは言葉に詰まり、打ちひしがれた。彼女の居場所を奪ったのは自分だ。彼女の家族に拒絶されるのも当然だった。なぜなら自分は本当の家族を奪った異質な存在なのだから。
「君は、俺のせいで……。だから俺は、俺は君から奪った幸せを返したい……」
『じゃあ、誓って。あなたに憑く偽物の妖精王に惑わされないで、本物の妖精王様に忠誠を誓って? そうしたらあなたのこと、許してあげる』
涙の乾いた少女はクスリと笑う。アンバーの瞳は黒く陰り始め、その表情は不気味な微笑みで歪んでいた。
アリスの答えより先に、がしゃり、と鏡面に亀裂が走った。浄化の剣が少女の映る鏡に突き刺さる。アリスは剣を握ったまま、前髪で灰色の瞳の空ろな表情を隠し、項垂れていた。
『何すんのよ……私の顔に、私の顔になんてことするのよ!!』
少女の顔が割れてずれ、真っ赤になって嚇怒する。アリスは俯いていた顔を上げて、再び剣を鏡面に突き刺した。
「こうやって何人もの心を食ってたんだな。人の心の歪みを利用して」
ばらばらと鏡の破片がアリスの足元に落ちて、少女の姿は悲鳴と共に消えていく。
息を吐いて、アリスは剣を支えにしゃがみこむ。背後から、自分ではない別の存在が鳴らした物音がして振り返った時、見えた姿にアリスは安堵し手の甲で額の汗を拭った。
「あらあら、大変だったわね」
フィーネは腕を組みながら崩れ落ちていたオレンジマーマレードの棚を踏みつけ、アリスを見下ろす。
「フィーネ、無事か!」
「ええ。深い穴に落ちただけで、特に何も無かったわ」
「ルシフェルは?」
「ルシフェル様にはまだ会えてないわ」
アリスは辺りを見渡す。今まで気づかなかったが、姿見が乱雑に沢山並ぶばかりで、白い猫の姿は見当たらない。
アリスの足元に散らばっていた取り換え子の姿の偽物を映していた鏡片が、青い炎と共に消えていく。
「あなた、このマーマレード舐めたでしょ」
「あー、舐めた……」
即答するアリスにフィーネは呆れて額に右手を当てる。
「こんな得体の知れないものを口にするなんてどうかしてるわ」
「いや、お腹すいちゃってさ」
「はあ? ……きっと、この屋敷の妖精の術ね。甘い蜜で迷い込んだネズミを誘って捕まえるための。私は口にしてないから、その鏡の魔力に囚われることは無かったけど」
「ネズミ……」
アリスはフィーネに踏みつけられた棚から転がるオレンジマーマレードの瓶を拾う。これが取り換え子だという少女の幻覚を見せたのだろうか。
「と、とにかく、早いとこ妖精を見つけるぞ」
アリスがこっそりとオレンジマーマレードの瓶をポケットに入れた時、むんとした煙草の香りが、鏡だらけの部屋中に蔓延し始めた。
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