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「オレがせっかく用意してやった鏡をぶっ壊しちまうとは、とんだ恩知らずだな」
苦い煙草の香りと共に、黒いコートを身に纏った男がゆっくりとした足取りで現れる。アリスはやっと姿を見せた屋敷の主にキャスケット帽をとった。
「よう、おじさん。やっと出てきたな」
「どうだ、アリス。オレのつくる鏡の国の鏡は? お前の求めるものを映し出してやったというのに」
「あんなもん作って、悪趣味だな」
「はっ、褒めてもらえるのは嬉しいねえ。オレは心が手に入ればいいのさ。些細な感情に流されやすい、人間の心が手に入ればな」
部屋中の鏡が男の周囲に集まり始め、その鏡面に様々な人間の姿が映し出される。旅人の装いの者や、マーマーレードの街に住んでいたものであろう男女や子どもの姿が、虚ろな目をして鏡の中に閉じ込められていた。
「オレの名はセラーデ。オレは食ったモノの心の穢れから鏡を作り出し、より妖精王様のお力となる心に生まれ変わらせる」
男が指を鳴らす。すると、その姿はめきめきと巨大になり、真っ黒な大蛇に変容した。黒い大蛇は赤い瞳をギラギラとさせて巨大な身体をくねらす。
「あの時の私みたい」
赤い瞳を見て呟くフィーネを後目に、アリスは背負っていたかばんを、澄んだ刀身に大蛇の真っ黒な色を映した剣に変える。
「心を食らった後に残った抜け殻はオレが食ってやるんだ。その方が残さず綺麗になっていいだろう? オレの部屋に飾ろうかとも思ったが、何せ数が多すぎてなあ」
抜け殻。肉体を食らった、ということはこの妖精を浄化して心を取り戻したとしても、心を戻す肉体がないということだ。もうこの穢れた妖精に奪われたたくさんの心が戻る場所はどこにもない。アリスはせせら笑うセラーデをなじるような目で威嚇し、爪をくい込ませるほど手を強く握った。
「正気じゃないな」
「オレをそんなに褒めたのはお前がはじめてだアリス」
「……どうとらえたら褒め言葉に聞こえるんだ?」
「アリス、訊くだけ無駄よ」
セラーデは愉快そうに細い舌を震わせた。
「ほお、お前は裏切り者の人魚か。妖精王様はお怒りだぞ」
「そんなこと、知ったこっちゃないわ」
セラーデの周囲に浮かぶ鏡に映った人々が、人間ではない、獣のような甲高い叫び声を上げた。肉体はぐにゃりと渦を巻き、やがてその姿は、屋敷のあちらこちらで見た鎖の蛇へと変わっていく。
「オレは妖精王様から直々にお前たちを始末しろと仰せつかったのだ。ああ、アリス。お前以外はな」
「……どういうことだ」
「さあな」
何匹もの蛇の大群が、身体が反り返るほど口を大きく開けて地上のアリスとフィーネに迫る。アリスはすぐさまフィーネの前に立ち、床を蹴って迫り来る鎖の蛇に斬撃を飛ばした。吹き飛ばされ粉々になった鎖の蛇は青い炎と共に燃え尽き、それに巻き込まれた他の蛇たちも燃え盛る青に巻き込まれていく。アリスは残りの蛇を誘うように飛び上がって壁を蹴り、空中で獲物を見失った蛇の残党に剣を振り下ろした。
「やるじゃないアリス」
着地したアリスは得意げにフィーネにはにかむ。
「だろ? もっと褒めてくれ」
「嫌よ」
「さすがだアリス」
平坦な調子で自分を褒める声にアリスは振り向く。音もなく背後から現れた黒髪の青年をアリスは白けた目で見つめた。
「ルシフェル……無事だったか」
「当たり前だ。私を誰だと思っている。それに、どこかの食い意地の張った奴と違ってあのマーマレードを舐めずに済んだからな」
「あら、私もよルシフェル様。どこかのみなぎる食欲を抑えきれないボーイと違って助かりましたわ」
「うっ、わ、悪かったな我慢強くなくて!」
ルシフェルとフィーネの言うことにぐうの音も出ないアリスが顔を赤くしていると、セラーデが不愉快だと蛇とは思えぬ咆哮を鳴らした。
「堕天使もいて好都合だ。まとめて噛みちぎってくれるわ」
セラーデが再び高く咆哮した。それを合図に、また鏡の中から鎖の蛇が宙を飛んで現れ、蛇たちはセラーデと同じく咆哮しながら、アリスたちに向かって牙を剥いた。
「アリス、あの中に穢れた妖精の鏡があるはずだ」
「分かってるよ」
アリスが降ってくる鎖の蛇を剣で千切ると、その破片はまた燃え尽き空間にとけて消えていく。しかしその破片から、いくつもの鏡がセラーデ自身の本物の鏡を隠すように増殖していった。
「フィーネ、お前は今私の魔術により魔力があるはずだ。それを使うといい」
アリスが剣を振るう背後で、ルシフェルは自らの魔力で作り出した剣で鎖の蛇をなぎ払う。
「ええ、もちろん。でも、真の器を奪われ仮の器しかないあなたの魔力がそこまで回復しているのは、アリスがいるからでしょう?」
「……どうだろうな」
「はぐらかしても無駄ですよ妖精王さま。あなたはもう、偽物に奪われた器を必要としてないのでは?」
暫しの静寂の後、ルシフェルは黄金の瞳で鋭くフィーネを見つめ返した。
「私の目的は器と丘を取り戻し妖精たちを救うことだ。……今はお前の中で眠る力が必要なのだ、フィーネ」
逆らえぬ、フィーネは夢に見た妖精の丘に高くそびえ立つ白い塔のように、全てを圧倒し畏怖させる力を、ルシフェルの黄金の瞳に感じてこうべを垂れた。それから胸の内に、真の愛を教えてくれた、自らの取り換え子である人間の少女フェインを思い描く。彼女の花が咲くような笑顔がフィーネの背中を押して、フィーネは妖精の魔力を歌声に込めた。
も どれない あ さのにお い
り ゅうのか な しみ歌っ て
に くたいに た ましい達 は
か えれない は かない想 い
え いえんの こ ども達だ け
つ ながる鎖 こ ぼれたは な
て をつなぎ に ここにこ い
フィーネの澄み渡る歌声に、鎖の蛇は続々と崩れ落ちて消えていく。セラーデも苦しみ悶えるように地を揺らし、アリスはフィーネの歌う姿に目を細めた。
「何だこの歌は! もっと私のための歌を歌え!」
「いいえ、これはあなたのための歌よ」
セラーデが暴れて、いくつもの鏡が粉々に砕けていく。その内に、たった一枚の鏡が砕けずに浮かんでいた。セラーデばじたばたと身体をうねらせながら、巨大な身体でその小さな鏡の中へ潜り込んだ。
「よし、ルシフェルあれだっ……なっ!?」
ルシフェルはアリスの身体を乱暴に脇に抱えて、暴れる彼をよそに飛翔して宙に浮かぶ鏡の中へ飛び込んだ。
「鏡の中は穢れの巣窟。でもその先に、本当の私たちの姿があるのよ、アリス」
フィーネは自らの尾びれを見つめながら、崩れた棚に背を預け妖精の歌を歌い続けた。
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