第三章 鏡の国の鏡

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 ルシフェルは脇に抱えていたアリスを雑に下ろし、受け身もとれずに転げたアリスは体をさする。 「いった! お前な、もっと丁寧におろせよ」 「どうやらここは私たちの知るところのようだな」 「って、聞いてないし!」  騒ぐアリスに構わずルシフェルは呟く。アリスは穢れた妖精の過去を見ているだけだとは分かっていても、見覚えのある店内と香りに感覚を研ぎ澄ました。  鏡の中は明るくて、賑やかで見覚えがあった。おいしそうな匂いに誘われて、マーマーレード唯一のレストランはたくさんの客で賑わい、テーブルの上のごちそうは艶めき輝いている。 「お前のつくるオレンジマーマレードは最高だよ、ロベルタ」  窓際の陽のよく当たる席で、黒いコートの男がトーストにオレンジマーマレードをたっぷりと塗りたくる。その男の傍には、アリスが知るよりも年若いロベルタがいた。彼女は今と変わらぬ豪快さで男と楽しげに笑っていた。 「当ったり前よ。私の愛情がこもってるんだからね!」 「苦味が実にお前らしい」 「それ、どういうことだい」  黒いコートの男は紛れも無く、穢れる前のセラーデだ。ロベルタと朗らかに談笑している彼に、アリスが最初に出会った時に感じた湿った寂しい雰囲気はなかった。  本のページがぱらぱらとめくられていくように過去の時が未来へと進む。ロベルタの店の常連客に過ぎなかったセラーデが、店に通う度にロベルタと親しくなっていく姿が鏡の世界に映し出されていく。 「ロベルタ。オレは、妖精だ」  閉店した後の真夜中、閑散とした店の前でセラーデとロベルタが向き合う。セラーデは緊張しているのか、握りこぶしに汗を滲ませ、真剣な面持ちでロベルタを見つめていた。 「だから、なんなんだい」 「……? 怖くは無いのか? オレはお前たち人間にとって得体のしれない存在なんだぞ」  かたい眼差しのセラーデに構わず、ロベルタはいつものように大胆に笑う。 「得体がしれないだなんて、あんた、あたしと何年一緒にいるんだい?」 「し、しかし、オレは妖精であることをお前に隠していた!」 「あんたが妖精だろうが人間だろうが、あたしは構わないさ。だってあたしはあんたのきれいな心を知ってるからね」  ロベルタの声音は低く優しい。セラーデは瞠目し、人間と妖精の間に壁を隔てていたのは己の方であると知り恥じていた。種族の違いを気にしていながら今まで己が妖精であることを打ち明けることもしなかった。真実を告げることで、ロベルタに拒絶されてしまうことが怖かったのだ。セラーデは何も気にすることなく己を受け入れてくれたロベルタの手を取った。 「オレと、生涯を共にしてほしい。ロベルタ、オレが愛するのはただ一人、お前だけなんだ」  震えるセラーデの手に、ロベルタは優しく手のひらを重ねた。 「最初からそのつもりだったさ、あんたはあたしがいないとダメだからね」  頬を赤らめはにかむロベルタに、セラーデは照れくさそうに微笑んでいた。  夜の闇を照らす二人の煌めきが遠ざかり、再び時が進んでいく。店の上階にある自宅で二人の幸せな生活が流れていく。赤子を抱いた二人の笑顔から忙しなく店で働く姿まで、幸せな思い出がかわるがわる鏡に映し出されていた。  ある場面で、再び鏡の中でめくられるページが止まった。満月が見下ろす真夜中、寝室でロベルタとセラーデが眠るそば。ゆりかごに揺られ眠る赤子へと、窓の隙間からじりじりと侵入してきた球状の小さな光が二つ近づいてくる。光はやがて赤子の前に辿り着くと、くすくすと幼い笑い声をこぼして歌を歌い始めた。 「とりかえっことりかえっこ。あなたはこれから妖精王様のために命を捧げるの」 「あらら、あなた妖精の血が見える。じゃあ取り替えられないね」 「だったらこのまま新たな妖精王様のために力を使ってね」  くすくす、くすくす。幼い子どもの笑い声によって、赤子を守るように張られていた妖精の魔術の守りのベールがばらばらに弾かれた。 「なんだっ、お前らは!?」  セラーデは飛び起きて赤子を守るように二つの光の前に立ち塞がる。くすくす、くすくす、と二つの光はセラーデを嘲笑う。 「あなたも新たな妖精王様の下僕になるの」 「妖精王様はあなたのすぐそばにいらっしゃる」 「新たな妖精王だと? 何のことだ。それに王は妖精の丘で暮らしている。この人間たちの住む地上の国に降り立つことは無い」  二つの光の魔術なのか、ロベルタが起きる気配はない。セラーデは赤子から光を遠ざけようと身体の中に魔力を蓄えたが、足元から突然生えでた鎖の蛇に全身を拘束された。セラーデは銀の鎖に囚われ全身が熱に溶かされる感覚に支配されながらも、背後の赤子とロベルタに必死に心を傾ける。 「抵抗するならさよならするの」 「新たな妖精王様に従わぬ妖精は消しちゃうの」  光が赤子を包み込んだかと思えば、赤子はゆりかごから宙へと浮かび、鎖の蛇に囲まれて姿が見えなくなっていく。 「アイリーン!」  オレの娘を、アイリーン返せ、返せ!  セラーデは消えていく我が子に手を伸ばすことも出来ず、拘束された身体でもがくが、その度に鎖が肉体に食い込み、妖精の肉体に苦痛が襲いかかる。  我が子を奪われたセラーデを更に追い込むように、光の魔の手の矛先はロベルタへと向けられた。何匹もの鎖の蛇が溶け合い、一匹の黒い蛇へと変わると、ロベルタを飲み込もうと鋭い牙を剥きだしに体をがしゃがしゃと揺らし襲いかかった。 「──ロベルタッ!」  黒い蛇の牙が肉体を貫く。何匹もの蛇に貪られ消えていく身体。二つの光はそれを見て、赤子を連れたままくすくすと笑いながら姿を消した。  悲鳴も生まれない部屋の中。二つの光が消えたあと、鎖の蛇も黒い蛇も消えていた。安らかに寝息を立てて眠るロベルタの元に、セラーデは消えかけた身体を引きずり寄り添った。 「ロベルタ、すまない、ロベルタ。アイリーンを、アイリーンを、オレは……オレは」  頬を優しく撫でてもロベルタが起きる気配はない。段々と透けていく手のひらに、セラーデは青ざめ自らの髪を掴む。 「オレはお前に記憶を残してやれない……お前は何もかも忘れてしまう」  妖精に恋をした人間は、その妖精が消えた時、妖精と過ごした思い出を忘れてしまう。その思い出は二度と戻ってこない。ただ、その恋した妖精の歌を聞くことが出来れば、思い出せるかもしれないのに。   「ロベルタ、愛している。オレの歌を思い出せ。その時は、アイリーンを、アイリーンを……」
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