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穢れた妖精の鏡の記憶はここまでだった。
「セラーデは、ロベルタの……」
アリスは今しがた見た悲惨な光景に痛む胸を抑える。セラーデには、家族がいたのだ。
だが、セラーデの記憶の映像が乱れた直後、背後に微かな気配を感じアリスは振り返り剣を構えた。
屋敷の広間で心を食われた人々を映していた姿見と同じ鏡が一枚、鏡面をアリスに見せつけるように置かれていた。先程とは違って、その鏡面には取り換え子の少女ではなくアリスの姿そのものが映っていたが、鏡の中の自分が意識していない冷笑を見せて、アリスは我が目を疑って鏡から距離をとった。
「──だ、誰だ!?」
ぬるりと、鏡の中からもう一人のアリスが現れる。その表情に愛嬌はなく、氷のように冷たい微笑を口元に湛えてアリスに近づいていく。左手には、アリスの持つ剣と同じ浄化の刃が握られていた。
「──忘れてしまったのか? 俺が妖精騎士であるということを」
「は? 何だよ、急に……」
「アリス、どうした!」
ルシフェルは突然現れた鏡も、その鏡から出てきたもう一人のアリスも認識できていないようだった。ルシフェルは何も無い巨大な白い空間の向こうを見て固まるアリスに呼びかけるが、その口も、瞠目した灰色の瞳も何も応えない。
「思い出せ。お前が妖精騎士であるということを」
「……! お前……」
その声は、紛れもなく、アリスが幼い頃からずっと聞こえていたあの声だった。アリスは、もう一人の自分を見つめることしかできないでいた。
「ああ、俺はずっとお前に語りかけていた。やっと、全て聞き取れるようになったんだな。……俺は地上の国に取り換え子として堕とされた。反転世界のルシフェルによって」
「反転世界のルシフェル? なんだよ、それ……お前は誰だ……?」
「いつまでも、何もかも忘れている訳にはいかない。妖精騎士を思い出せ。気をつけろ、もうすぐ反転世界のルシフェルがやって来るぞ」
鏡面が割れ、鏡の中から出てきたもう一人のアリスが消えた時、アリスは浅い眠りから目を覚ましたように覚醒した。思案顔のルシフェルがアリスの視界に入る。
「アリス、大丈夫か」
「……反転世界のルシフェルって、誰のことだ」
ルシフェルはその名を聞いて酷く驚いた表情をしたが、鋭い眼差しで淡々と答える。
「……偽物の妖精王のことだ」
「偽物の妖精王って……ルシフェル、お前と何か関係があるんだな? なんで俺に何も言わないんだ?」
「お前に言う訳にはいかなかったのだ。だから――」
ルシフェルの言葉は、大きく響いた白い床を叩きつける鈍い音によりかき消された。
「ルシフェル、詳しいことは後で聞くからな!」
「……ああ」
黒い大蛇がとぐろを巻き、細長い舌をちろちろと出したりしまったりしてアリスとルシフェルを見下ろしていた。
「まただ、オレを放置しやがって! オレを見ろ! オレはセラーデ。オレはセラーデだ!」
自らに言い聞かせるように名前を連呼する大蛇に、アリスは引っかかりを覚えた。妖精の記憶で見たセラーデの印象と違うのは穢れていることだけが原因では無い気がしていた。まるで違う誰かが別の人格を演じているような違和感。妖精の記憶の中でセラーデが襲われた黒い蛇と目の前の黒い大蛇が重なる。
「お前、セラーデじゃないな? 本当のお前は誰なんだ」
「ああ? 何を言う? オレこそがセラーデだ!」
黒い大蛇の咆哮と共に、何も無い白い空間が波打ち歪みだした。黒い砂嵐が吹き荒れ、アリスは強風に抵抗し目をつぶる。
しばらくしてアリスとルシフェルの体を叩きつけていた砂埃が消え砂嵐が止んだ時、辺り一面の景色が一変していた。
相変わらずのどこまでも続く広さだけはそのままだったが、至る所に見覚えのある椅子やピンク色のテーブルクロスがかけられたテーブル、ナイフやフォークの食器がふわふわと不規則に浮かんでいる。そこは、ロベルタのレストランの内装そのものだった。
ただ、アリスはレストランの内装よりも、一番身近な自身の変化に気づき狼狽えた。
「おい、なんでこの服なんだ……?」
肌に触れる感触に、身体中を見回してみなくとも分かった。揺れるフリルが彩るピナフォアドレスは、ロベルタの店の制服だ。
「やっぱりよく似合っているぞ」
「お前も着ろよ」
いつもの青年の姿のままのルシフェルの空々しい言葉にアリスは腹が立ったが、黒い大蛇が不意打ちで吹き飛ばしたテーブルや椅子に気づくと、すんでのところで屈みかわした。
「──オレこそがっ! オレこそがっ!」
叫んだ黒い大蛇の姿が、妖精の記憶で見た黒いコートの男セラーデに変容したかと思えば、年老いた男、幼い少女、若い女、赤子へと様々に変化していく。変容していく度に老若男女の重なり合う悲鳴が響き、それは人々がこの穢れた妖精に心を、肉体を食い殺された時の痛みのようだ。
「奴は人間の肉体までも喰らいすぎて、自分を見失ったようだな」
「じゃあやっぱりこいつは、セラーデを襲った……」
穢れた妖精は様々に変わるその姿を、やっとの事で黒い大蛇に修正して、太い尾を再び床に叩きつけて威嚇した。その衝撃で吹き飛ばされてきたテーブルや椅子からルシフェルはアリスを脇に抱えて飛び退いたが、すぐに黒い大蛇の口から数多の鎖の蛇が吐き出され、鎖の蛇はぶつかり合いうねりながらアリスとルシフェルに向かって突っ込んできた。
「たくっ、しつこいな!」
アリスはすぐに剣ではね返そうと構える。だが、突然黒い大蛇が痺れたように身体を痙攣させて、鎖の蛇たちも浄化の剣の切っ先に触れる直前で固まった。
「がはっ!?」
黒い大蛇の口と繋がる鎖の蛇たちは、見えない何かにゆっくりと引っ張り上げられていく。黒い大蛇は竿で釣られた獲物のように巨大な身体を伸ばしていたが、そのまま大理石の床に叩きつけられた。
「オレの姿を勝手に使うな蛇野郎」
アリスの目の前に、薄汚れた黒いコートがはためく。煙草の香りと、奔放なミディアムロングヘアの男はアリスの方へ振り返った。
「よお、ロベルタが世話になったな。アリス」
「本物のセラーデ、か?」
「本物? オレ以外にオレはいねーよ。あの時はまんまとこの蛇にやられちまったが、どうやらこの鏡の世界では実体として動けるみたいでな……てか、お前オレのこと忘れたのか?」
「え、忘れたって……?」
セラーデ本人とは今初めて会ったはずなのに不可解なことを言われ、アリスは首を傾げた。
「ま、忘れたかっつっても、お前と話したことあるのは数えられる程度だからな。無理もねーか」
セラーデは困惑するアリスの様子を気にしながらもちらりとルシフェルの方へ目をやる。
「我らの王よ、かつてあなたを守りきれなかったことを許してくれ」
「セラーデ、それは私のセリフだ」
アリスがどういうことだと訊く前に、倒れていた黒い大蛇が身をよじって再び暴れだした。
「しつけぇ野郎だ。おい、アリス。アイツをとっちめるぞ」
「あ、ああ! もちろん」
「それにしてもその服、よく似合ってるぜ」
「な、お前まで俺をからかうな!」
「その顔、まんざらでもねぇくせによ」
「……まあ」
「で、悪いがオレは奴の動きを止めることしか出来ねぇ。お前の剣技で奴を叩き斬れ。……オレの娘のアイリーンの分までな」
アリスが力強く頷くのを見たセラーデは黒い大蛇の頭上に向かって、高く上げた長い脚を振り下ろした。四方八方に曲がりくねって暴れる雷が共に大蛇の頭上に落とされて、再び大蛇の巨体は痺れて震え出した。
「おとなしくしてろよ!」
アリスはふわふわと浮かぶテーブルや椅子を足場にし、道中真っ直ぐアリスに襲いかかるナイフやフォークを剣で弾き返しながら駆けていく。黒い大蛇の頭上近くまで来ると、アリスはフリルを揺らしながら大蛇の頭をめがけて剣を振りかぶった。
──俺は妖精騎士だ。
先程鏡の中から現れた、アリスの姿をした得体の知れないものの言葉が、アリスの頭の中にこだまする。
(あいつは──)
それに、偽物の妖精王が反転世界のルシフェルとはどういうことだ。反転世界がなんなのかも分からない。アリスは、ルシフェルが今まで話してくれなかったことより、何も知らないまま旅をしていた、無知な自分が悔しかった。
「妖精騎士……」
アリスが呟いた時、振り下ろそうとした剣が白く輝きだした。切っ先に向かって流れていく煌めく星屑が、アリスの灰色の瞳に一面緑の草原が広がる丘を映し出す。そこは白く背の高い塔だけがそびえ立つ、終わりを知らない常若の国。
「妖精の丘……!」
かつて妖精たちが暮らしていた、今は偽物の妖精王に奪われた妖精の丘。一度も見たことがないはずなのに、アリスは丘を見た瞬間から懐かしい気持ちに浸っていた。ルシフェルにも、妖精の丘の具体的な姿は聞いたことがないはずなのに。
妖精の丘が見えなくなりアリスの意識が現実に引き戻される。アリスは先程までの威勢のよさをなくし恐慄く黒い大蛇に語りかけた。
「お前の本当の名前は?」
「知らない! 知らない! 忘れた! 忘れた!」
黒い大蛇は駄々をこねる子供のように泣き叫ぶ。アリスはこの穢れた妖精の本来の記憶も見ることが出来なかった。食らった人間の意識が混ざり合い、完全に奥底に眠る自我さえを失った妖精の穢れを浄化ができるのか分からなかったが、やってみる他はなかった。
「もウ、殺シてくれ! 殺しテ……」
「だめだ」
アリスの否定の言葉に、大蛇は絶望したように瞳の光を失くした。
「たくさんの心を殺したお前の我儘は、もう通用しない」
黒い大蛇に向かって、真っ直ぐな閃光が走る。アリスの振り下ろした刃は、黒い大蛇の巨体を綺麗に真っ二つにしていた。崩れ落ちた大蛇は吐き出したままの鎖の蛇と共に黒い泥となって白い床に流れ落ち、混ざり合い溶けていく。
「眠ってくれ」
アリスが投げた剣が両開きのかばんとなり、かばんは口を大きく開くと、溶けていく蛇たちを勢いよく飲みこんでいく。
アリスは穢れた妖精を浄化し始め落ちていくかばんを地上でキャッチした。気づけば、アリスの服装はピナフォアドレスからいつも通りの動きやすい姿に戻っていた。
「助けられなくて、ごめん」
たくさんの心が、肉体に帰ることが出来なかった。会いたいと思う大切な人がいたかもしれないのに、アリスはこれ以上何もしてやることが出来なくて唇を噛み締める。ただ、穢れた妖精を浄化することがアリスの今できることだった。次にできることは、根源である偽物の妖精王を倒すことだ。
「随分あっけなかったな! さすが妖精騎士さまだ」
アリスはセラーデと共にグータッチを交わしたが、妖精騎士という言葉に顔を顰めた。
「──それって何の事だ」
「やっぱり、何も覚えていなのか? ルシフェル様からも何も聞いていないのか?」
「いや……聞いてない」
「セラーデ」
ルシフェルの重たく低い声に、セラーデは頭を搔く。
「なーんかオレさま、まずいことでも言ったかな?」
「……ルシフェル、説明してくれ、頼む」
アリスの陰りのない眼差しに、ルシフェルは諦めたように目を伏せた。
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