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変わらない店の景色に、男の口元が緩む。珍しく賑わいが控えめな店の中、特等席であった陽の当たる窓際のテーブルで男は娘と共にその時を待った。
「お客さんご注文は?」
久しぶりに会った彼女は男の知る時より、人間にとっては長い時を重ねていた。しかし昔と変わらぬ、人々を幸せにする明るい微笑み。分かってはいたが、彼女は男を見ても消えた記憶を思い出してはくれない。
「オレンジマーマレードのトーストを三つ頼む」
「はいよ」
彼女の後ろ姿を見つめながら、男は歌った。他の客は誰も男に振り返りはしない。たったひとりにだけ聞こえる懐かしい歌声に、ロベルタは立ち止まった。
「あんた……」
消えた記憶を思い出すなんて、誰がどうやってできるのだろうか。妖精の歌声だけが、その妖精の愛する者の記憶を蘇らせた。
セラーデが見つめた時、ロベルタは愛嬌のあるその目に涙をためていた。セラーデはすぐに立ち上がって、ロベルタを抱きしめ、自らも長い間閉じ込めていた涙を流した。
「ロベルタ、会いたかった」
「……何で、忘れちまってたんだろうねぇ。こんな大事なことを。セラーデ、アイリーン。あたしもあんたたちに会いたかったんだ。忘れてしまっていたって、心の奥底ではずっと。だって、こんなに胸が苦しいんだからね」
零れた涙をすくって、ロベルタは愛しく微笑むセラーデに破顔する。
「ママ!」
「アイリーン! おいで、あたしのかわいい娘よ。大きくなったね」
ロベルタはアイリーンを力いっぱい抱きしめた。アイリーンは涙を流していたが、その幼い表情は柔らかく綻んでいた。
「ロベルタ、辛い思いをさせてすまない。オレは、オレはずっとお前のそばにいたかった」
いつまでも一緒にいられることが当たり前だと、思っていた時が幸せであった。別れの時は突然訪れて、悲しむ姿は涙を流すばかりではなかった。笑っている君も、本当は悲しんでいるのだと。
三人は抱きしめあう。しかし、地上の国に長くいられるのは今も命が輝く者だけだった。
「もうあんたと、一緒にいられないんだね」
セラーデの身体が透き通り、ロベルタとアイリーンだけが知るそのぬくもりも、消えて遠ざかっていく。
「ロベルタ、アイリーン。オレはいつまでもお前たちに愛の歌を囁こう。虹の向こうで、お前たちをいつまでも見守ろう」
「パパ、行っちゃうの?」
セラーデはアイリーンの頭を撫で、ありったけの力で微笑んだ。
「アイリーン。ママと幸せにな。パパはいつまでも、アイリーンとママを守るから」
合わせた額と、くちづけが二人と、その娘の永遠の絆を繋いだ。セラーデとロベルタの目に映っていたお互いの姿は、初めて出会ったあの時の姿だった。
「セラーデ、あたしも愛しているよ」
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