第一章 幸せな鏡

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 暗闇から抜け出し、アリスは息が詰まる思いで明るい村へ飛び込んだ。つまづいて転げたところに、今朝共に狩りへ出かけた男たちの声が頭上から聞こえてきた。 「おい! アリス大丈夫か! 探してたんだぞ!」 「急に居なくなっちまって、何があった」  男たちの逞しい顔が切羽詰まったところを見る機会は中々ないだろう。村に着いた安堵と、彼らに心配をかけてしまったことに、アリスの心は妖精に食べられたかのようにすっかり縮んでしまっていた。 「……そ、それが……」  何があったかを言いかけて、アリスは少しの間口を噤んだ。 「いや、な、何も無いよ。ちょっとはぐれただけ」  起き上がり、アリスは苦々しくはにかむ。 「妖精に攫われたかと思って心配したんだぞ!」  「すまないアリス、オレたちがいながらはぐれちまって」 「ち、ちがうよ! おれが勝手に迷っただけ。じゃ、じゃあお疲れ様!」  アリスは男たちから逃げるように、まだふらつく足に鞭を打ち駆け出した。男たちが呼び止める声が聞こえたが、走り出した足は止まらない。 「あーアリス、どろだらけだ!」 「きったねーぞ泣き虫ー!」 「ちょっと、そんなに言ったらアリスまた泣いちゃうでしょ!」 「──うるさいっ!」  村で遊ぶ子どもたちが口々に投げつけてくる言葉を力いっぱい跳ね除け、服についた土や泥、そして溢れでそうになる涙を拭いながらアリスは走り続ける。 (妖精に襲われたなんて、言えない……)  アリスは地上の国を覆う神秘的な夜空と夕焼けのグラデーションになど目もくれず、村長の邸宅の扉をやっとの思いで開けた。 「あら、アリスおかえり……って、いつにも増してどろだらけじゃない!」  息を切らしながら帰ってきたアリスに、母は眉を釣りあげて暖炉にくべていた薪を取り落とした。 「いや……ちょっと転んじゃってさ」 「怪我もこんなに!」 「大丈夫だよ、これぐらい」 「全くもう、もっと自分の身体を大事にして。気をつけなさいよ」 「わ、わかってるよ、母さん」  おろしたての白いシャツが台無し、と母の呟きを聞きながらアリスはいつもの生活に戻ってこれたのだとほっとしていた。強ばっていた身体の力が抜けていく。 「ちょっと待て、アリス」  後ろから唐突に肩を捕まれ、アリスの身体が跳ね上がる。振り向き飛び込んできたのは父の姿で、ついに森の妖精に見つかってしまったのかと思っていたアリスはまた胸を撫で下ろす。 「何だ、父さんか。びっくりさせるなよ」 「アリス、これはなんだ? お前の足に絡みついていたが」  父の無骨な手に絡まるのは、細く弱々しい蔓。それは、先程森で木に縛りつけられた時のものと同じで、アリスは戸惑いを隠せないでいた。 「し、知らない。森で転んだから、その時についたのかも」 「森で、だと?」  父の細く碧い瞳がアリスの灰色の瞳を探る。 「この蔓は見たことがある。……だが、この種は、この森に生えてるものでは無い。そうだろうセレーナ」  アリスの父はこの森の植物に関して非常に明るかった。  父の様子に、母の怒ってつり上げていた眉が、怯えたように下がっていく。母も蔓を見て、何か思い当たることがあるという風に動揺していた。 「……何? ダン。何が言いたいの?」  あたたかな炎を宿した暖炉があるにもかかわらず室内は冷えきっていた。今までこの家に生まれてから感じたことがない二人の重苦しく耐え難い雰囲気に、アリスの鼓動が早まった。 「お前は、私の息子アリスか?」  思いがけない、いや、恐れていた問が、やけに部屋の中に響く。アリスは瞠目した。訊かないで、それだけは訊かないでと思っていたのに。 「何言ってんだよ、父さん」  様子のおかしい父は、母に何かを持ってくるように指示をしていたが、混乱したアリスにはその会話を認識することが出来なかった。ぐるぐると理解できない父の問が頭の中を食いつくし、アリスの思考力を奪っていく。 「よお、ダン。卵持ってきたぜ」  父の背後の扉が開き、麦わら帽子を被った快活そうな男が、たくさんの鶏卵がつまれた籠を両手に持って現れる。 「ん? なんかあったのか」  父は間抜けな声を出す男を無視して、母が持ってきたものを手に取ると、それをアリスに突きつけた。 「やめろっ!」  薪に灯された火が突然目の前で振られて、アリスは後ずさりしそれを避ける。思ってもみなかった自分の怒声に、アリスは震えた。  間髪入れずに、母の短い悲鳴が聞こえた。父の背後にいる男も、小刻みに震え出す。アリスは理解不能な行動をとる父に抗議しようとしたが、燃えるような、じりじりとアリスを焼き尽くしてくる、見たことも無い敵意を向けられて、怯んでしまった。 「これに触れてみろ」  突き出されたのは、かつてサターによって妖精避けのまじないが施されていた銀のナイフとフォークだった。 アリスはそれを恐る恐る掴んだ。だが、触れた途端感じたことの無い熱と痛みが指先に走った。銀食器はアリスの手から滑り落ちた。木の床にぶつかる鈍い音が、アリスの頭を殴る。  アリスは床に落ちた銀の塊に視線を落とす。母の泣き叫ぶ声と、父の怒鳴り声が、落ちた銀のナイフとフォークの鋭い刃先の如く、アリスの心を深く突き刺してくる。 「ジャン、サターを呼べ! 早くしろ!」 「ああ、ああ、わか、わわわかった」  卵売りの男は呂律の回らない口でなんとか言葉を絞り出し、卵が割れることも構わずに籠を乱暴に放り投げ駆け出した。 「偽物め! 私の子をどこにやった!」 「返して……私の子を返して!」 「え……」  涙を溢れさせた母と、怒りと恐怖に荒れ狂う父が、息子であるアリスに対して警戒心を剥き出しに迫る。 「な、何言ってんだよ、偽物って」 「黙れ! お前の正体はわかっているぞ! 忌々しい妖精め! 私の子を返すんだ!」  目の前のこれは、憎しみの目だ。強い憎悪、恐れ、狂気。アリスは父に胸ぐらを捕まれ、そのまま背後に押されて柱に背中を打ち付けた。 「ちがう、ちがう! おれは妖精なんかじゃ」  取り替えられてなどいない。あの時妖精に連れていかれずに逃げてきたのだ。 「どうして。信じて、信じてよ、おれのこと信じて!」  父も、母も、アリスの言葉に耳を貸さない。二人はもう、たったひとつ辿り着いた答えに囚われていたのだ。  アリスは父の乱暴な力に抵抗することも出来ず、邸宅を支える一番太い柱にロープで縛られる。これは先日、母と共に作ったロープだ。こんなことのために作ったものでは無い。この村での幸せな生活を支えるために作っていたものだ。 (さっきと、同じだ。妖精と同じ)  アリスの目尻に溜まった涙が耐えきれずにこぼれ落ちていく。泣き虫だと、村の子供たちにからかわれたことを思い出した。 「嘘を言っても騙されんぞ! ではなぜ火と銀を避けた? 妖精以外にはありえん!」 「なっ、急に火を近づけられたら誰だって避けるし、食器は、手が震えて、滑っただけだ!」 「言い訳をほざくな! ずる賢い妖精め!」 「返して! 私の子を……私の子を」  アリスが必死に真実を訴えても、相変わらず父は獣のようにアリスに怒声で噛みつき、母はただ混乱して泣き叫ぶだけ。 「さあ、私たちの子供の居場所を吐け!」 「だから、ここにいるって!」 「つ、連れてきたぞ」  卵売りのジャンが息を切らしながら走ってきて、邸宅の中で尻餅をついた。その勢いでくしゃりと、無事に床に転がっていた残りの卵も割れる。疲れ果てた男と共に現れたフェアリードクターは、潰れたり転がったりした卵をひょいと避けて、アリスに近づいた。 「サターさん、私の子が……私たちの子が連れていかれた、妖精に!」 「奥さん落ち着いて」  母はサターに泣きつき、サターはそれをなだめながら縛られたアリスを眺める。 「サター、この妖精から私たちの子を取り返すんだ!」  サターは、相変わらず白い髭を弄りながらアリスを見据えた。 「そうだな」  ロープが解けていく。目の前でてきぱきと手を動かす白ひげの友人は自分を信じてくれている。期待に満ちた目でサターを見るが、アリスとサターの目が合うことは無い。  また信じたくはないが、父と母はぎらぎらとした、今にも飛びかかってきそうな悪魔の目をしているのだ。尻もちをついて怯えた犬の目をしていた卵売りの男は、他の村の者に知らせにでも行ったのか、どたどたとうるさい音を残して、邸宅を後にしていた。 「こいつはわしの家に連れていく。安心しなさい、本当のアリスは必ずわしが妖精から取り返そう」  二人を宥め、サターは無理矢理立ち上がらせたアリスの両手首に今しがた解いたロープを結び直した。 「え……サター、俺は!」 「わしの名を気安く呼ぶな、出来損ないの醜い妖精め」  最後の希望に見捨てられ、アリスは失望し、沈黙する。今ここに、己を信じてくれる味方は誰もいないのだと。  アリスは前を歩くフェアリードクターに半ば引きずられるように、彼の住む森の奥深くに向かう。村の中を引きずられた際には、暗闇の中で火を灯した薪を両手に持つ者、子どもを守る大人の敵意や恐怖の混じるまなざしがアリスを村から遠ざけた。それはまるで民衆に晒される罪人の心地だった。先程アリスをからかっていた子どもたちは、身体を震わして、村の大人や親に抱きしめられ守られていた。今朝共に森へ向かった狩人たちも、火を灯してアリスを遠ざけている。 「二度とこの村へ来るな!」  誰の声なのかも分からない。遠く背後にいるであろう父と母の顔を見たくなくて、アリスは振り向かなかった。
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