第一章 幸せな鏡

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 村から離れ鬱蒼とした森が、さらに深くおどろおどろしくなる頃。木々に囲まれた小屋がぽつりと現れる。扉はガタガタと立て付けが悪く、サターはいつものことだという風に乱暴に扉を殴った。  中はこぢんまりとした、簡易的なベッドやクローゼット、必要最低限の物しか置かれていない。アリスはもっと幼い頃にここに遊びに来たことがあったため、とりとめもない日常であったなら久しぶりだと懐かしんだかもしれない。 「ぶっ、がはははははは」  村からここに来るまで終始口を割らなかった老人が、下品な笑い声を響かせて自ら沈黙を破った。 「見たかアリス! お前の両親はお前を出来損ないの妖精だと疑ったぞ! 足に絡まる蔓を見つけて、火を近づけて、ただの銀の食器を持たせただけなのに!」 「サター! やっぱり、おれのこと信じてくれてたのか」  腰に両手を添えて胸を張るサターに、アリスは飛びつこうとしたが、両手が縛られていることを忘れて前のめりに倒れ込み、古びた木の床に全身を打ち付けた。 「いいや、お前は妖精だ。出来損ないの」  静寂が苦しい。木小屋の入口から向かって左手にある開いた小さな窓から冷たい風が入ってくる。 「はは、サター、冗談いうなよ……。こんな、時に」  へたりこんだアリスに、更に老人は追い討ちをかける。 「妖精王様のお力に影響を受けていない妖精は珍しかったからな。しばらくお前を、今日まで監視しておった。  しかしお前が両親と慕う二人も馬鹿な奴らだな。赤子の時に実の子と妖精を取り替えられたことも知らずに、今更気づきおった。見ただろうあの醜い恐怖に震える心を! ヒトは醜い。我ら妖精を恐れるなど。それにお前は……」 「うるさい! べらべら喋るな!」  アリスは耳を塞いで、訳の分からない長話を跳ね除けたつもりでいたが、サターはアリスの顔を覗き込んで続けた。 「お前のような、ヒトの子と取り替えられた出来損ないの妖精は、残念なことに魔術を使えないからなあ、余計にヒトは赤子が妖精に取り替えられたことに気づきにくい。まあわしみたいに魔術を使いヒトに擬態して紛れれば、奴らの美味い心を妖精だと気付かれずにたくさん食えたりもするがな」  唾液をすすり、舌なめずりをする音が聞こえ、アリスは耳を塞いだままキャスケット帽のつばの影からサターを見上げる。 「何だ? 今気づいたみたいに。わしもお前と同じ妖精だ。いや同じではないな、出来損ないではない大天才のわし、魔術は大得意だぞ。聞いて驚け、お前のその帽子や村の子どもが身につけるものにかけたと言った妖精避けのまじないは嘘っぱちだ。ああ、あの村の子どもの心をいくつか食ったが中々美味かったなあ」 「おれは人間だ」  アリスがこぼした呟きに同意してくれる者は、ここにはいない。 「サター、今までおれを、みんなを騙してたのか? 友だちなのに」  最後の最後にすがった希望は、またすぐに打ち砕かれた。 「友だと? くだらん馬鹿が。お前は妖精だ、自覚しろ。それに、わしはお前のことを道具以外に思ったためしがない」  道具。アリスは返す言葉を失った。いつも会う度にからかいあったり、時には柔らかく微笑んでくれた年の大きく離れた友の姿が、記憶の彼方でぼやける。目の前の男が誰なのか、アリスには分からなくなっていた。 「もしかして、おれの心を食うつもりか」  でも、心なんてもうきっとない。あんなに大好きだった父と母を、村のみんなを、もう大好きだと思うことが出来ないのだから。 「阿呆か。妖精の心を食ったって意味が無いだろ。ヒトの心でないと妖精王様のお力にならないのだぞ」  ふん、とおしゃべりな老人は喉を整える。 「そうだ、わしと手を組もうではないか。魔術を使うことが出来るわしといれば、ヒトの──地上の国の奴らの心をたくさん集めることが出来るぞ」 「いやだ!」  アリスの頑なな態度を気にすることなく、サターは口を動かす。 「わしと共に来い。そして妖精王様の力となるのだ!」  サターは細い目をぎらつかせた。小窓からは森の乾いたざわめきと低い風の唸り声が聞こえてくる。 「ひとりでやってろ! おれはいやだ!」 「黙れ! お前も妖精なら、妖精らしくいろ! ヒトの心を集め食うのだ! わかった、な!」  話が終わる寸前、サターはアリスの口に薬草をすり潰したような粉末を無理やり詰め込み、吐き出さないようにその口を片手で抑え込んだ。アリスは突然のことに驚愕しながらも縛られた両手を振ったり、足で蹴ったりして口を抑え込む手を剥がそうとするが、口内を刺激する薬草独特の強い苦味と泥臭さに悶え苦しんだ。解放された頃には異質なものを飲み込んでしまった恐怖と猛烈な吐き気に襲われていた。 「うっ、う、かはっ、な、何す……」 「がははは、この村の奴らを騙すために妖精を退治する、という体で作った嘘っぱちの薬だ。お前に飲ますのを忘れていたんでな。ま、もちろん見せかけだからなんの効果もないが」  アリスは愕然としながら、咳き込み、飲まされた異物を吐き出そうと必死だった。サターはそれを愉快げにしばらく鑑賞すると、扉の前に立ち不気味に微笑む。 「お前が妖精であると知った村人の心は今、美味いぐらいに荒んでいるはずだ。今夜、わし、村を襲うぞ。多くの子供を失い感情の高ぶったヒトの心を食える、この時がやっと来たのだ。気が向いたらお前も来るんだな」 「は……待、て」  扉が叩きつけられる音を合図に、アリス一人だけになった室内が冷たく静まり返る。 「どうして……」  愛した両親に、心優しき村人に、信頼していた友、何もかもが嘘っぱちだ。何事もない平和な日常であると信じて疑わなかった今日も、嘘で。  何が、妖精だ。そんな得体の知れないものとして生きるより、死んでしまった方がまだマシだった。どうせもう、自分が死のうが誰も何も思うことはない。だって、拒絶されたのだ。  手だけを縛るその甘さに、サターに協力するかこのまま死ぬかを試されているようで腹が立つ。  アリスは脱力して倒れ込む。冷たい木の床が、この狭い世界で出会った誰の心よりもあたたかい気がした。何も言わずに受け入れてくれる、床を演じるただの板に、アリスは心を開いて身を任せた。このまま、知らない内に眠って、二度と目覚めることがなければいいのに。先に希望はなさそうで、強いて縋りつけるのは何も言わない無機物だけだ。 「それでいいのか」  床板と溶け合おうと目を閉じた矢先、誰かの声がアリスの頭を揺すった。 「簡単に全てを放棄して、さっさと死ぬつもりか?」  自分の身を守るためか、涙が溢れ出た。助けて欲しい。誰か、助けて。おれが何をした? 皆がおれを疑い、憎み、誰も信用してくれない。 「何を泣いている? 足掻け。他の者のせいにして、自分の手足で足掻くことも出来ぬ者に、差し伸べる手などない」  足掻く? アリスはうつ伏せのまま視線だけで周囲を探る。土色の床板の上に、白くぼやけた小さな綿帽子が二つ見える。偶に揺れたかと思えば、アリスの頭の上にその綿帽子が柔らかくのせられた。綿帽子の割にはやけにあたたかなそれに、アリスは引っ掛かりを感じながら顔を上げる。 「足掻く気になったか?」  先程から心地よく鳴る低い声音はどこから聞こえてきているのだろうか。目の前に佇むのは、真っ白で、毛先にかけて透明に輝く毛並みと、まるで神の使いのように背筋を滑らかに伸ばす、清らかな立ち姿の猫が一匹。ただ、その口角はつり上がり、アリスを見下すように黄金の瞳に妖しくハイライトを零していた。 「なんだその水の跡は。さっさと拭け」  アリスは猫に言われた通りに、つい涙をシャツの袖で拭ってしまったことに気づき、はっとして真っ白な猫を刮目した。 「姿に惑わされるとは仕方の無いやつだ。姿などは関係ない。私には今本当の姿というものが無いのだ。自由自在、私の思うまま」 「いや、だれ……だ」  得意げに語る猫をよく観察しようと、アリスは軋む体を叩き起した。 「我が名はルシフェル。妖精王だ」
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