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サターと別れた後、アリスの目の前が真っ暗闇に包まれた。それからアリスが次に目覚めた時には、あまりの冷気に暑がりで寒がりでもあるアリスの身体は凍りつきそうになっていた。
しんと静まった真っ赤な部屋に、鋭い氷の結晶に囲まれた、ひび割れた楕円の鏡が見える。あれは先程穢れてしまいそうになった自分の鏡であることがアリスには分かっていたが、部屋中の深紅に圧迫されて凍った鏡の神秘さは失われていた。
「今度は、何だ……」
自分で言いながら、アリスはこの鏡の穢れを浄化しなければならないことを理解していた。先程は幻かもしれないサターに救われたが、やはり己の穢れに立ち向かわなければいけないのは己自身なのだと、何も言わぬひび割れた鏡に迫られているようだった。
「自分を救えなければ、他者を救えないってか……」
「その通りだ、アリス」
いつの間にか深紅の部屋の片隅に背を預けていた誰かが、アリスの視線を感じて笑う。誰かはやがて真っ黒な影の姿から、アリスそっくりな――しかし目の色が赤い、姿で氷漬けにされた鏡に近づいた。深紅のアリスが手を触れると、氷漬けにされた鏡は見る見るうちに真っ黒になっていく。鏡と感覚を共有するように、アリスは己の身体に黒い穢れが渦巻くのを感じて、そのあまりの重みに少し呻いて膝をついた。
「そんなんで、お前は俺を倒せるのか? 妖精騎士の面影は皆無、お前は俺を倒せない。だから妖精王も救えない」
深紅のアリスの言葉は、本当のアリス自身を、己自身で否定しているのと同じだった。目の前の穢れは己と別のところで生まれたものではないと、アリスは自分の心を掴むように自分の胸元の布を掴んだ
「なぜそう言いきれる?」
己に答えを求めているようだ。アリスはこんな時に笑ってしまいそうになったのを堪えて、口の端をつり上げる。
「俺がお前を信じていないからだ」
自分を信じていないから。
「確かにそうだな。これまでは」
「今は違うとでも言うのか?」
深紅のアリスが嘲笑う。
「お前は白い薔薇を赤く染めた。もう白には戻れないのにな」
なんの例えか、アリスは慎重に探りながら答える。
「赤くてもいい。薔薇は赤でも白でも綺麗だろ」
「まあ、妖精騎士ではないお前は灰色だがな」
アリスの灰色の瞳に、深紅の色が映り込む。
「いいだろ。灰色でも。俺は結構気に入ってるんだよ」
「なら、その灰色がどれほといいのか、俺に教えろよ」
深紅のアリスの左手にアリスのものと同じ形の、色はくすんだ浄化の剣が握られる。アリスも右手に浄化の剣を握り、向かってきた深紅の刃を受け止め振り払った。払った跡を辿るように空中が凍りつき、その礫が深紅のアリスに向かって走る。深紅のアリスはそれを意図も容易く薙ぎ払った。
部屋が狭くて間合いを取るのが難しい。アリスは思いながら、高笑いが聞こえて深紅のアリスに注視する。
「はははっ、俺を倒せば妖精王を救えて全てが終わると思っている顔だ。馬鹿だな。もう遅いんだよ。妖精の丘はこの反転世界の王のもの。いずれ地上の国もあの王のものになる。でも、それでいいだろう? あの王もルシフェルなんだ。どっちの心が生き残ろうとルシフェルに変わりはない。それに地上の国なんざどうなろうと、我ら妖精には関係があるまい」
「違うだろ! 地上の国を見捨てられるはずがない」
先程の魔獣もそうだが、同じことを、何度も言われた。だが地上の国を旅して出会った人々がいて何も思わぬほどアリスの心は死んでいなかった。それに、レイシー。彼女の存在がアリスを揺り動かす。
「お前も穢れに浸ればいい」
深紅のアリスが膝をつき、自らの胸に浄化の剣を模した穢れた刃を突き刺した。アリスは何をしているんだと瞠目したが、己の胸にも痛みが広がって黒い穢れが流れ出す胸元を必死に抑えた。
「おま……なに、を……」
「正義はひとつじゃないぞ。教えてやる。穢れがどんなに心地いいのかを」
溢れて止まらない穢れにアリスは倒れ、立ち上がることすら出来なかった。先程穴に落ちた時と同じ感覚だ。だが唯一違うのはもう救ってくれる存在がいない事だ。怒り、悲しみ、憎しみと、まぜこぜになった感情が渦巻いてアリスを飲み込んで、それらは全て無になっていく。
他の妖精たちが穢れてしまう時も、こんな感覚に陥っていたのだろうか。そう考える思考も段々と薄れてきて、自分の中で反転世界の王の存在が酷く大きくなっていくのを感じていた。
(俺は器になるためだけに生まれた、妖精騎士なんて名ばかりの、妖精王のための器に)
「私を浄化することなど出来ない。アリス、お前にはな」
すぐ近くから妖精王の声が聞こえたが、アリスは目を開けることすら出来なかった。
「やっと私の元へ辿り着いたな。我が器よ」
妖精王の靴音が響く。深紅の部屋は反転世界へ繋がる鏡が鎮座する王の間へと変わる。
「集めた心をやっと有効に使えるな……さあ、起きろ。我が器アリス」
気を失ったまま玉座に座らされたアリスに妖精王は呼びかける。ゆっくりと瞼が開いて隠されていた深紅が混じる灰色の瞳が垣間見えると、妖精王は満足気に微笑んだ。
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