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冷たく細い風が森の木々を切りつけながら、行儀よく静寂に伏せった人間の巣窟へと向かう。やがて青白い月光を彩った村を包む暗闇のカーテンを、きりきりとした風が揺らした。
『見つけた』
『見つけた』
『たくさん』
『たくさん』
鶏卵ほどの大きさの白い光が三つ、森から村にかけ流れる小川の上を踊る。水上で描かれた白く細い曲線が、その光たちを追いかけた。
やがて三つの光は溶け合いひとつになると、森の木々を超える大きさとなり、夜の闇に溶け込む漆黒の竜へと姿を変えた。竜は紫苑の花を彷彿とさせる色の靄を吐きながら、人間たちが穏やかに眠る村へと足を踏み入れていく。巨体にも関わらず足音のない恐怖の侵入に、気づく村人はひとりもいない。
『いっぱいだ、これが全て妖精王様のお力に』
地響きのような声。森の草花が枯れていく咆哮と共に、竜は吐き出していた靄を村中に蔓延させた。靄は村全体を取り囲み終えると、やがて屈強な檻となって眠る人間たちが目覚めても退避できぬように道を閉ざした。
「サター!」
そよ風のようなか弱い声だ。竜は誰が来たのか視線を向けなくても分かっていた。哀れな出来損ない。地上の国で数多にある、小さな村のひとつに過ぎないノーグ村を庇うように目の前に立ち塞がる少年に、竜は鼻で笑った。
『どうやってこの檻を無視して通ってきたのかと思えば、なあアリス。妖精王様の紛い物に憑かれているではないか』
「ふん、紛い物か。我を忘れた悲しき妖精よ」
アリスの肩に乗り笑うルシフェルを一瞥し、竜は大きな口を開き鋭く生え揃う牙を露わにする。
『この村の人間を庇うつもりか、アリス。村人やお前の両親のふりをしていた二人は、お前が妖精だと分かるとすぐさま拒絶した愚か者なのに?』
がははは、と竜は唾を飛ばしアリスを嘲る。こんなに竜が大声で笑っているのに、村人たちは不思議なくらいに起きる気配がない。
「愚かなのは、お前の方だ」
弱々しい少年から感じる今まで感じたことのない覇気に、竜は首を傾げる。
『ふーん、威勢の良いことよ。しかし、己を拒絶した者共を救おうとするなど理解が出来ぬわ』
アリスは己の考えをこの妖精に理解させるつもりもなかった。村人に、両親に拒絶されたことへの悲しみより、今危険な目に遭う彼らを救いたいと思う気持ちが勝っただけ。
アリスの生気漲る瞳を、ルシフェルは横目で覗く。先程まで泣き喚いていた少年とは別人のようだと。
『残念だ、アリス。もう遅いのだ。こうしてわしとおしゃべりしている間にもう心はすでに回収し終えたのだから』
竜は勝ち誇った笑みでふんぞり返っていたが、アリスが右手を広げて指を流れるように折りたたむと、光の粒子と共に現れた真っ白な剣に目を奪われた。その刃は純粋な水晶の如く透明で、きらきらと輝く水流を閉じ込め、映した景色を水の中に沈めていた。
「あ、あれ? かばんじゃない」
「私と同じく自在に姿を変える。必要な時には剣になり、また必要な時には元のかばんに戻るのだ」
(剣なんて、使ったことないぞ)
戸惑うアリスにルシフェルは猫目をつり上げた。
「剣を振らなければ、なんのためにここに来た? まさか諦めるわけではないだろうな?」
「な……あ、当たり前だ、使ってやる!」
おぼつかぬ手で剣を握る少年をよそに、竜は唾液を滴らし、瞳孔を開かせた。
『禍々しいその剣、なぜお前が手にしている?』
「私が貸したからだ」
ルシフェルの答えに竜はあからさまに不快そうに、細長い顔に張り付く眉間に皺を寄せた。
『偽物は黙っていろ!』
竜は吼えると、ぼろ布の如く垂れ下がっていた蝙蝠のような翼をはばたかせ、荒ぶる風を巻き起こした。アリスは咄嗟に、軽々と吹き飛ばされてしまいそうなルシフェルを守るため胸に抱いたが、その暴力的な風圧に押されて家屋の外壁に背中をうちつけた。ぼろぼろとはがれた木の破片が上からアリスに降りそそぐ。
アリスは背中から電流のように広がった痛みに顔を歪める。ルシフェルは抱かれていたアリスの胸から飛び出した。
「アリス、一旦この家に入るぞ。今外にいれば吹き飛ばされるだけだ」
「わ、わかってる!」
アリスはゆらりと揺れながらも立ち上がると、ドアノッカーを鳴らす余裕もなくすぐそばの扉の取手をつかんだ。が、妙に馴染むそこに、アリスはその理由を確かめるため顔を上げた。
そこは、村で一番大きな家、村長の邸宅だった。
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