第一章 幸せな鏡

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「父さんっ、母さんっ……!」  両親の微笑む顔が、アリスの思考の中を掠め駆け巡る。二人の無事を早く確かめたくて、アリスは開け慣れた扉を勢いよく押した。不可解なことに、扉の鍵はかかっていなかった。  見慣れた暖炉の火が消えている。冷気に襲われ深閑とした部屋。二人の倒れた身体が飛び込んできて、アリスはすぐに駆け寄った。  二人の表情は虚ろだった。目を見開き、力が抜け口が半分開いている。母は長い黒髪を振り乱したあとがあり、父の厚い手は、無骨な指が宙をつかむように曲がり、苦しげな表情で固まっていた。二人の呼吸を感じることができない。アリスは落胆し、絶望した。遅かったのだ、救いたいという決断が。動き出すまでの決意が。 「いや、まだ生きているぞ」  自責の念に駆られるアリスを、平静なルシフェルの声が鎮めた。 「まだ心を奪われてすぐだ。早い内にお前が彼らの心を取り戻せばいい」 「まだ、取り返せる……」  アリスの呟きにルシフェルは頷く。アリスはすぐさま、一度忘却した剣を再び右手におさめた。握り慣れない重みのそれに不安を覚えている暇はなかった。開け放たれた扉の向こうで、冷笑を浮かべた竜が翼を揺らしてこちらに向かってくるのだ。幼い子供が無邪気に虫を痛めつける遊びをするかのように、黒い竜のサターはアリスに向かって爪を振り上げた。 「アリス、お前が剣を上手く振るえるようサポートをしてやろう」  外に飛び出したアリスのその肩に再び着地し、ルシフェルは囁く。同時に、透明な刃を光らせる剣が重い竜の爪を受け止めた。短く甲高い音が竜の耳を擦り、漆黒の化物はわずかな間怯む。再び強靭な爪に襲われて、アリスは歯を食いしばりながら、危うげな剣さばきで竜の爪を跳ね返す。 「このっ、やろう!」  間髪入れずアリスは竜に接近し、今まで飛び上がったことも無いくらい高く、竜の頭のあたりまで足を蹴って跳ねた。それができたのはルシフェルの仕業なのだろうが、アリスは怯える暇もなくそのまま竜の逞しい角の生える頭上を斬りつけた。 『わしの頭に傷をつけやがって、傷をつけやがって、傷をつけやがって! わし、言う事を聞かぬお前を生かしておくのはもうやめたぞ。八つ裂きにして、いや、焼き尽くして存在の痕跡すら消してやろうっ!』  がらがらと喉を慣らして、竜は息を大きく吸い込んでから、紫苑色の炎の塊を吐き出した。 『なあアリス、この村の人間共との家族ごっこはたのしかったかあ? わしとの友だちごっこはたのしかったかあ? 自分の居場所を奪われた気持ちはどうだあ? お前の苦しみ悲しみはわしにとって最高のごちそうだ! これからは、ずうっと苦しむことも悲しむこともなく楽になれるぞ。一度火にあぶられるだけでそれが叶う、かつてわしが焼き尽くした子供らのように!』  火の粉を散らしながら迫り来る炎の塊に、アリスの身体が溶けるような熱さに襲われた。 (あつい、こんなでかい炎、返しきれない……!)  アリスが逃げきれない炎に目を瞑った時、剣はかばんの姿へと変容した。 「アリス、私を信じろ」  ルシフェルの囁きに、アリスは瞼を開けた。かばんは白い星屑のような輝きを増して、ルシフェルの黄金の瞳が煌めき出す。 「信じてやる! おれは、村のみんなを助けるんだ!」  アリスはかばんの持ち手を両手で掴み、大きく弧を描いてそれを竜へと放り投げた。かばんはくるくると回転しながら、腹を空かせているかのように口を大きく開いて巨大な炎を飲み込んでいく。かと思えば、それをそのまま漆黒の竜に向けて勢いよく吐き出した。 『なにっ!? くそっ、くそがーっ!』  炎から紫苑の花が飛び出し咲き乱れ、高温の渦に竜が飲み込まれる。辺りが強烈な黄金色の煌めきに覆われた。その光で夜空で数多に輝いていた星たちはひとつも見えなくなり、アリスのリボンで結われた髪が絡まりながら乱れ靡く。  か細い呼吸のような音を立て、ゆっくりと燃えていく竜の身体から、鶏卵ほどの大きさの、球状の光がたくさん溢れ出す。それらは黄金色の煌めきが沈んだ夜の闇の中をあちらこちらと飛んで遊ぶと、やがて村中の元の肉体へと散り散りに戻っていく。 「わしは……わしはどうしてこんな……」  竜の姿が、老人の姿へ戻り呆然と村の真ん中で立ち尽くす。老人はアリスの知るサターの姿であったが、以前よりも細く頼りなかった。 「サター」  アリスは老人に声をかけたが、老人は白い猫の姿を見てひどく震え出した。 「ああ! ルシフェル様……わしは、わしはあなたを裏切った……取り返しのつかぬ、取り返しのつかぬことを……」 「落ち着け。お前の穢れはもう払った。もう怯える必要などない。このかばんの中で少しの間心を休めろ」  ルシフェルは老人に近づいたが、老人は髪をかきむしって暴れだした。 「燃えろ、燃えろ、燃えろ!」  そう唱えた老人の身体が、青い炎によって燃えていく。アリスは突然のことに声を無くし、ルシフェルは悲しげに燃え尽きた妖精の灰を見つめた。 「燃えろと、妖精は三回それを自ら唱えると、肉体と心共々燃え尽き消える。もう、我らにしてやれることは無い」 「そんなっ……!」 「諦めろ。他の妖精たちを救うためにも」  ルシフェルの鋭い眼光に、アリスは息を飲んだ。その眼光は、小さな白い猫の身体から溢れ出ている王の絶対的な風格を色濃く含んでいた。 「う……」 「く、どうなったんだ……? あの化け物は……」  アリスの背後で人が目を覚ます気配がし、村にも再び夜明けが巡ってきた。  振り返れば、邸宅の中で痛む頭をおさえ上体を起こす父と、水彩絵の具を溶いたように床に長い髪を濁す母がいる。彼らはアリスに気づくと一驚した。アリスは目覚めた二人に声をかけることが出来ず、瞠目する二人をぼやける視界で見つめただ沈黙していた。 「アリスっ……!」 「アリス、アリスなのか! 妖精の手から戻ってきてくれたのか……!」  感涙に咽ぶ二人は、立ち上がってアリスに向かい、母は日常ともに暮らしていた時のように優しく微笑み、父は両手を広げてアリスを待ちわびた。 「さあ、アリスおいで!」 「よく、戻ってきたわね、良かった、良かった……!」  また両親が、幸せな生活を共に過ごしてくれる。優しくあたたかな、永遠には続かぬが終わりのある幸福な未来を。 「俺は、妖精だ」  愛しい子どもであったはずの少年の言葉に、二人の人間は戦慄した。 「俺はお前たちの本当の子供と取り換えられた妖精だ」  二人の人間の顔色が血の気を失う。やがて人間の女は涙を流し、人間の男は眼光鋭くアリスを威嚇した。 「まだ生きていたのかっ。私たちの本当の子を、本当の娘を奪ったお前に用はない!」 「私たちの本当の子は、娘はどこなの、言いなさい!」 「あなたたちの子供はおれが連れて帰る」  アリスは何故そんなことを口にしてしまったのか、分からなかった。自分を拒絶するかつての両親に寄り添いたいと思う心などないと思っていたのに。 「……っ、出ていけ! 穢れた妖精め!」  アリスは二人の人間に背を向け、少しゆるい黒のキャスケット帽を深く被り駆け出した。白い猫もそれを追いかけ肩に飛び乗る。穢れた妖精が燃え尽きた跡を踏まぬようアリスは飛び越えて、立ち止まることも無く走り続ける。  しまっていたはずの雫が、隠しきれずひとつアリスの灰色の瞳から滴り落ちる。妖精の少年は登る朝日に彩られる早朝の濃い青色をふいに見上げた。 思い出せ、思い出せ。  誰かの声が、いつもより大きく聞こえる。  背後に遠ざかる村が見えなくなり、目の前に降りかかる木々の葉が見上げた空を隠した時、心に流した涙が、再び灰色の瞳を潤ませることはなくなった。
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