第二章 誘いの鏡

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 美しい鏡面が破片となって散らばり、灰と化して消えていくのを眺めながら、少年はため息をつく。何度、何枚鏡を粉々に割ったのか分からない。  鏡は妖精の、穢れそのものだ。それは偽物の妖精王の配下にされた妖精たちの内、特に穢れの強い妖精が生み出す鏡。  己が妖精であると知らされたあの日から、五年ほど月日が経ったような気がしていたが、いまだ偽物の妖精王が潜む鏡も、かつての両親の実の子供である己との取り換え子も見つからない。今しがた浄化した妖精は傍らに置いたかばんの中で、静かに眠りについている頃だろう。 「アリス、次だ」  白い猫はアリスの足元近くに散らばる破片を軽やかに飛び越える。 「腹、減ったな……」 「さあ、次へ行くぞ」  そそくさと四足を動かす猫は、覇気のないアリスのことなど気にもとめない。 「休ませろ……」 「この近くからまだ、別の妖精の気配がするからな」 「休ませろ、休ませろ、休ませろーっ!」  鏡面を失った鏡縁は、アリスの怒鳴り声に震えて崩れた。それから散らばった鏡の破片と共に、どこからともなくぽっと灯された青い炎によって溶けていく。 「うるさいやつだ。毎日何度も言っているが、妖精は基本的に食物を摂取する必要はない」 「知るか! 俺は腹が減ったんだよー。そろそろ休憩入れるべきだろー!」  お前は我慢することを覚えろ。突然大声を出すな。ルシフェルは正直、何度口にしたか分からない言葉を発するのも面倒臭くなっていた。  妖精の鏡は自分たちで見つけていることはもちろんだが、アリスが妖精を浄化する場面に偶然出くわしてしまった人間が、噂される妖精の退治を依頼してくることもあった。  妖精の鏡を見ることができない人間にとって、得体のしれない妖精を本当の意味で浄化することは不可能に近かったのだ。  人々の中にも妖精を退治──アリスたちは浄化であるが──しようとする勇敢な者達はいたが、妖精の弱点である火や銀を含むごく一般的な武器で穢れた妖精を倒したとしても、その穢れは浄化されずに再び妖精は蘇る。それを知らない人々は妖精を退治したと思いこみ、その一時だけの安息が更に人々を絶望へと追い込んでいた。 「全く……仕方がない」  へたりこみ動かない少年をひきずるには小さな猫の姿では不便を覚え、ルシフェルは真の姿を現した。  腰ほどの真っ黒な長髪が風に踊る。闇夜を彷彿とさせる色のマントは、人間でいう平均ほどの身長のアリスより頭ひとつ高いルシフェルの長身を包み隠す。切れ長の黄金色の瞳、端麗で真の妖精王たる姿は、ルシフェルの厳かな神秘さを象徴していた。 「これから近くの町へ行くだろう。そこで何か食しておけ」 「うわ、その姿で? また目立つ……猫にしとけ」  妖精王の姿は人や獣を惹きつける絶大な力があるのだ。人々はその美麗な見た目に惚れ込み後を追いかけ、獰猛な獣でさえ妖精王を畏れ跪いた。目立つからその姿になるな。面倒事はごめんだ。いい加減にしろ。アリスが何を言っても、非常にマイペースな妖精王には全く通じることはなかった。 「何を言う? これが私の本来の姿なのだぞ」  はじめて会った時は妖精たちから逃げていた、とかで猫の姿の方が都合が良いと言っていた気がしなくもないが。  アリスは成長してぴったりなサイズとなった黒いキャスケット帽を脱いで髪を結びなおす。 「お前と出会った頃は、魔力が消耗し自らの身を守れるかも危うかったからな。今は妖精たちに容易く見つかるようなことはないのは、お前も分かっているだろう」  己の魔力の気配を消すことは容易なことではない。穢れた妖精たちに気づかれぬようにすることは、器がある時よりは劣るが、魔力が回復しつつあるというルシフェルだからこそ出来ることでもあった。  アリスはというと、取り換え子であるが故、妖精が扱うことのできる魔術が使えない。そのため魔力のない人間たちと等しく、アリスを人間と間違えた穢れた妖精からは心を狙われることもあった。  ルシフェルよりもむしろアリスの方が面倒事に巻き込まれる確率が高いのだが、それは穢れた妖精たちを救うチャンスになるのだと、アリスは良い方向に考えることにしていた。  しかし穢れが強く、鏡を割らないと浄化することができない妖精たちの中には、アリスとルシフェルが偽物の妖精王の鏡を探している異端の妖精であることを知って襲いかかってくることもあった。その妖精たちに偽物の妖精王の居場所を聞き出そうとしても彼らは口を噤んだまま、浄化した後はかばんの中で眠りについてしまうため結局居場所は分からないままでいる。  物思いにふけりため息をつくアリスをよそに、それに、とルシフェルが本来の姿になった一番の理由を付け加える。 「猫の姿では食事がしづらいからな」  本来の妖精は第三者に殺されぬ限りは、半永久的に生きる者だとアリスはルシフェルから聞いていた。だから食事を必ずしも摂る必要はないわけだが、そんな妖精たちもごく稀に食事を楽しみのひとつとして嗜む事もあるらしい。 「それって猫に失礼じゃないか?」  アリスは幼い頃は人間として生活して、毎日食事を摂っていたためか食欲が日々刺激されていた。  それに比べてルシフェルは毎日食事を摂ることはせず、たまに気まぐれでアリスの空腹に合わせて少量の食事を口にする程度だった。彼の口ぶりから、今日はたまたま気が向いたのだろうと、アリスはルシフェルの背中を軽く叩いて朗笑した。 「よーし早速食べに行くぞ! 早くしないと俺死にそう」 「そんなことで死ぬな」  本当は死ぬはずもないのだが。  試しに我慢に我慢を重ねて半年程度飲み食いせずに過ごし、口寂しさを覚えながらもぴんぴんと生きていたことが、アリスにとって一番己が人間ではなく妖精であるのだと実感したことだった。
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