第一章 幸せな鏡

1/7
61人が本棚に入れています
本棚に追加
/219ページ

第一章 幸せな鏡

 思い出せと、暗闇の中で語りかけてくる声。それは夢の中だけで聞こえてくる声のはずだった。 だがここ最近では、目覚めている時にも聞こえてくるようになって、アリスはその得体の知れない不気味な声に悩まされていた。 「誕生日おめでとう、アリス!」  賑やかな声によってアリスは現実に引き戻された。アリスは真っ白で甘い、小麦粉の香りを醸すケーキに刺さったろうそくの火を、焦りを隠して吹き消した。 「おめでとうアリス!」  オレンジ色のランプに照らされた部屋中そこかしこから、グラスのぶつかる音が響く。  森の奥にある小さな村の大きな邸宅。  三十人ほどの村人が、酒や果実を搾ったジュースを豪快に飲みかわす。森に住む獣の丸焼きや、同じく森で収穫された野草のサラダ、香ばしく焼かれたパイに、ビールで煮込まれたシチュー。村人たちはこの日のために用意された豪勢な料理に食らいついていた。 「おいお前ら、主役を差し置いてがっついてんじゃねーぞ」 「いいじゃねーか、こんなご馳走久しぶりだからな」  野太い声や軽やかな笑い声が飛び交う中。誕生会の主役の少年アリスは、家中を一番よく望めることが出来る席に座って、いくつものテーブルが繋がれて出来た食卓に集まる楽しげな村人たちを眺めて笑っていた。 「アリス、十三歳の誕生日おめでとう。これは父さんと母さんからだ」  このノーグ村の若い長である黒髭を生やしたアリスの父が、アリスの頭に贈り物を優しく乗せた。それは黒いキャスケット帽だった。少しぶかぶかなことに気づいたアリスは苦笑する。 「あら、少し大きかったみたい」  長い黒髪を揺らすアリスの母が口元を片手で隠し小さく笑う。 「いや、でもよく似合っているよアリス」  アリスの両親の言う通り、深いブルーのリボンで後ろに短く結った藍色がまじる黒髪に、そのぶかぶかのキャスケット帽の黒がよく馴染んでいた。 「うん、ありがとう。父さん母さん。大事にする」  アリスの背後には、色とりどりの花や、森で暮らす動物たちを象った木彫りの置物、手作りの木の実のお菓子やむずかしそうな分厚い本など、村人たちから贈られたものがたくさん積まれていた。  村長の一人息子の誕生会は、小さなこの村の人々にとって毎年行われる愉快な行事のひとつであった。夜、星が輝く頃に開催された誕生会は、村長の邸宅で豪華な食事が振る舞われ、主役のアリスだけでなく、誰もが笑顔を絶やすことは無い楽しい時間だ。酒と料理のにおいに誘われながら、陽気な村人たちは夜通し歌い踊り明かすのだ。  父さん、母さん、村の人たち。アリスは皆の楽しげな様子にまた顔が綻ぶ。 「その帽子はね、フェアリードクターに頼んでまじないをかけてもらったのよ。悪い妖精から守ってくださるように」  隣に座るアリスの母は帽子の上からアリスの頭を優しく撫でる。 「へえ、ドクターってまじないも使えるのか」 「おいおい、知らなかったのかあ」  背後から気配無く現れた白髭の老人にアリスは驚いて、持っていた銀製のフォークを思わず床に落とした。 「サター、び、びっくりさせるなよ……」 「わしは妖精のことはなんでも知っておる、妖精の生態はもちろん妖精から身を守る方法、まじないもな」 「はいはい……」  フェアリードクターのサターは白い髭をいじりながら胸を張る。  サターはこのノーグ村よりももっと森の奥に一人で住んでいるのだが、今日のような行事がある時や彼の気が向いた時に村に顔を出すことがあった。 そんな彼の家に遊びに行ったことがあるくらい、妖精のことだけに関わらず物知りで気さくな彼が、年の離れた愉快なこの友だちがアリスは大好きだった。 「妖精、か」  妖精は、かつてはこの地上の国の人々と共生していた良き存在だった。  しかし、今や人々にとって脅威でしか無かった。十数年前から、妖精は人間の心を好んで食べるようになったのだ。心を食べられた者はしばらくして死を迎えるのだと、この村に限らず、人間たちが暮らすこの地上の国の者達のほとんどが妖精を恐れている。  また妖精は、人間の赤子や子供を妖精の子供と取り替えて連れ去ってしまうことがあった。しかもやっかいなことに、人間は我が子が妖精に取り替えられたことに気づきにくいのだ。  連れ去った人間の子どもは、心を食われて死ぬか、奴隷として働かされているという噂もあった。  この小さな村でも、アリスが幼い頃に一度、取り換え子の被害を受けたことがあった。その時はサターにより見破ることが出来たが、妖精の子供を退治できても本当の子供が戻ってくることは無かった。  そのため、このノーグ村では真っ先に狙われるであろう弱い子どもだけで妖精の集まりやすい森の奥に行くことは禁じられていた。フェアリードクターは妖精たちから身を守る術を、人々に教え施す、とサターは言っていた。だから、フェアリードクターのサターはこの村にとって大事な存在なのだと。 「わしはこの村の子どもには、まじないをかけたものをお守りとして渡しておるのは知っとるな。お前にもそのお守りを渡したはずだが、それが壊れたと聞いて今度は村長夫妻の贈り物にまじないを施してやったのだぞ」 「お、お守り? えーっと、ごめん忘れてた」  アリスの言葉に母は頭を抱え、サターは首を捻った。今は村人と共に酒を飲んでいる父にも、もし聞かれていたら怒鳴られていたかもしれない。お守りをいつ壊してしまったのか、薪割りをした時に壊したのか、狩猟の時に壊したのか、アリスには全く身に覚えがなかった。 「まあ、もしお前が妖精と取り替えられたとしても、わしがお前を妖精から取り戻してやるから安心せい」 「サターさん、やめてくださいな」 「奥様、あなたもアリスの様子に違和感を覚えたら、火を近づけ、あのまじないを施した銀の食器を持たせるのですよ。それらを拒めばアリスは妖精と取り替えられたということになりますからね。その時はわしを呼びなさい。すぐさま駆けつけますから」 「サター、おれがそんなことなるわけないだろ」 「油断するなアリス。お前も気をつけろ。妖精に連れていかれて、この幸せな生活を取り換え子の妖精に奪われたいのか?」 「そ、そんなの、いやにきまってんだろ!」 「それで結構」  サターは大きな口をつりあげ、ぎざぎざの歯を見せたかと思えば、アリスの隣に座り、きちんと並べて置かれた銀の食器を無視して、素手で獣の肉にかぶりついた。肉をひきちぎる様は、森にいる肉食の獣にも負けないくらい豪快だった。アリスも負けじと、自分の目の前に山のように盛り付けられた料理を、綺麗にすっかり食べてしまった。
/219ページ

最初のコメントを投稿しよう!