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花夢
夢を見ている。私は今、来た覚えのない温室の中を歩いている。写真やテレビ、もしくは新聞などで一瞬だけ見たことがある場所なのかも知れないが、私には見覚えがなかった。しかしここは紛れもなく温室で、熱帯雨林に生い茂っていそうな植物共が、ガラスの天井を突き破りそうなほどに詰まっていて、色のキツイ花が、どこからか垂れ下がっていたり、固い床を突き破り、甘いような甘くないような匂いを撒き散らしている。そのせいで、気味の悪い鳥の声の幻聴までもが聞こえてくる。私はニセモノの頭痛を覚えた。夢の中の痛みはニセモノだ。ニセモノであるはずなのだ。
夢と言うものは本当に不思議なもので、気づけば全く別の場所にいて、当然のように過ごしている、なんてことがざらにある。私は先刻の温室をすっかり忘れ、古く汚くなった二十五メートルプールに入ろうとしている。私ははっとして足を止め、二番レーンの飛び込み台の上に座った。プールを囲う柵の外に、「貯水槽」と書かれた赤い看板があった。なるほどこれは貯水槽。ならば子供の死体が浮いているかもしれない。慎重に歩かなければ。
そう思いながら立ち上がると、突然、藻に塗れた汚い水がぼこぼこと動き始め、水面からにょっきりと、何かの花の白い蕾が、いくつもいくつも生えてきた。その中でも一際大きな蕾が、丁度プールの真ん中に現れた。私は無性に、その蕾の中を覗きたいと思った。蕾が花として咲いてしまっては遅いのだ。私は、蕾を蕾のまま、この手でこじ開け、その構造を見る義務があるのだ。
私は意を決して、右足からプールに入った。水嵩は私の腹ぐらいまであり、しかもぬめぬめとして動きづらかった。私はゆっくり、慎重に歩を進めて行くと、突然何か、柔らかいような、どろどろとしたような、しかし固いようなものを踏んだ。何かと思い目を凝らしながら掴みあげた。それは、腐った子供の死体だった。肉は溶け、骨すらもぼろぼろになっている。現に、軽く握っているだけでも崩れている。私は腹が立って、その子供の一部を投げた。子供は空中分解し、あっけない音を立てて、再び汚い水へと沈んでいった。とんだ邪魔が入った。きっとあの子供は生前、とんでもない悪餓鬼だったに違いない。あの子供を殺した女は、今頃ホンモノの頭痛に悩まされながら、ラヂオを蹴って笑っていることだろう。
こんなことをしている暇はない。早くあの蕾を開かなければ。必死でもがきながらもなんとか進み、とうとう、手を少し伸ばせば、蕾に触れられる距離にまで近づいた。私は深呼吸をして、蕾の先端に触れ、柔らかい花弁になりきれてないものを剥いた。何枚も何枚も何枚も、重なったそれを剥いた。そうして最後の、空よりも薄いそれを、そっと剥いた。そうしてその中を見た。突然、視覚情報よりも先に、先刻の温室の光景が、視界を覆い尽くす色彩が、フラッシュバックのように頭の中を駆け巡った。夢を見ている最中に、夢のことを思い出すなんて!
息が荒くなり、気づけば私は二、三歩程後退りしていて、蕾から手を離していた。落ち着け、純度の高い夜は未だ来ないはずだ、大丈夫だ。私は深呼吸に似た溜め息を一つついた。そうして私は目を見開いて、裸になった中身にゆっくりと近づき、今度こそ覗き込んだ。
しかし、その中にあったものは、白く潤んだ雌しべではなく、枯れて、茶色く、穴だらけになった、気味の悪い蓮の花托だった。いくら夢でも、これは酷い!と、私は思わず叫んでしまいそうになった。これでは子供だったものにげらげらと笑われてしまう。私は悲鳴を飲み込み、蕾だったものを、花にも成りきれなかったそれを、見た。よく見ると、風も吹いていないのに小刻みに震えているのが分かった。まるで静かに泣いているようであった。気づけば、周りの蕾もいつの間にか開いていて、枯れた心臓のような蓮の自身を剥き出しにして、同じように震えていた。蕾だったものが吸ったのか、水嵩はもう私の脛辺り迄、低くなっていた。逃げなければ、と思った。ここから今すぐに逃げなければ、私は。
そう思った瞬間、蕾だったものの震えが一斉に止んだ。そして、あの忌々しい穴から、まるで涙を流すかの如く、色とりどりの柔らかな花が、止めどなく溢れ始めた。汚いプールはみるみるうちに、温室に咲いていたような色のキツイ花でいっぱいになってしまった。これを悪夢と呼んで良いのか、分からなくなってしまった。分からなくなってしまうほどには、花でいっぱいになった。花に埋もれたのか、砕けてしまったのかは分からないが、いつの間にか蓮のようなものは全て消え失せていた。濡れた花弁が、身体中に貼り付いてくる。いつのも私であれば、不快感に腹を立てていることだろうが、何故か心持ちは穏やかであった。絶頂を迎えたあとの喪失感にも似ていた。
私は、近くにあった、全く汚れていない、名も知らぬ花を手に取った。八重咲きの、濃く毒々しい赤色をした、美しい花であった。もしもこの花に水滴が乗っていたなら、私の心は粉々になっていたはずだ。あの子供のように。私は花を両手で優しく包み、よく観察してから、ゆっくりと口元へと寄せていった。花弁は私の息でほんの少しだけ震えていた。花自身の震えかもしれない。或いは両方かもしれない。私は迷っていた。美しいまま飲み込むか、花弁を一枚一枚丁寧に噛んで、私の口のなかで醜くしてから飲み込むか。これは夢なのだから、今ならどちらも許されるのだ。花の匂いがする。ニセモノの頭痛がする。白く濁っていく視界を他人事のように思いながら、私は美しさをそのまま飲み込むことにした。味なんてない。なのに、頭の上から足の先まで、花の匂いでいっぱいになったな。恐ろしいことだ。花を飲み込み、息が花になったところで、ぽつぽつと雨が降り始めた。まだ目が覚めない。
雨は、水に浮かんでいる花と私、そして視界の全てを平等に濡らしていく。ぱしゃん、と音がした。私は振り向いた。そこには蕾ではなく、ただの枯れた蓮が一本、私を見つめるように、呆然と立っていた。雨が強くなる。ぱしゃん、ぱしゃん、と音がする。そこらじゅうで、蓮が、嗚呼。浮かんでいた花は、視界を埋め尽くしていた花は、雨のせいで、全て蓮に変わってしまった。これは悪夢だ、間違いなく!
腹の底の方に、違和感を覚えた。まさか、と思った。吐き気に限りなく近い何かぎ、私の口からあふれ出ようとしていた。私は口を開けたまま、空を見上げて目を閉じた。なんと滑稽な姿であろうか。
暫くすると、吐き気はすっと無くなった。やっと目が覚めたのかもしれない。私は目を開けた。しかし、視界は目を閉じているのと同じ暗さを持っていた。おかしい。何かが。口を閉じることができない、動けない。私はたまらなくなって、手を伸ばした。固い。この闇は触ることができる。どうやら私の視界を覆っているのは、何かの物体であるようだ。闇に触ってみる。少し丸みを帯びていて、すべすべとしている。この物体は、両手を広げずとも端まで触れる程の大きさであることがわかった。そして、私が見ている闇が表側だとするなら、この物体には裏側があるようだ。手を伸ばして肘を曲げることで触れる、それほどの厚さのようだ。私は恐る恐る、その裏側をさわってみた。そこは切ったように平らで、所々にくり貫いたような大きな穴がいくつもあった。私ははっとして手を引っ込めて、確信した。これは、蓮だと。私は、閉じない口に手をやった。何かが口から飛び出していて、閉じることができないのだ。触っていると、どうやらこれは太い棒のようなものであるらしい。そして私は、口から飛び出ている太い棒のようなものと、目の前を覆う蓮の花托が、繋がっていることを思い知った。口が閉じれぬ私の胸は、涎でべとべとになっている。気味が悪い、苦しい、早く、覚めろ、早く!私は脱力し、手をぶらんと下ろした。
すると突然、近くから笑い声が聞こえ始めた。子供と女の、甲高い、嫌な笑い声だ。どんどん声量が大きくなる。耳が潰れそうになる。その笑い声は、私を囲む蓮、そして私から生えた蓮の大きな穴から、まるで午後五時を知らせるサイレンのように流れている。どんどん大きく、どんどん近づいてくる。誰かに手を引っ張られる。私は目を閉じる。
はっと目が覚めた。どうやら居眠りをしていたようだ。気づけば温室の古いプールの側に有るベンチで、横になっていた。この温室は日当たりも良くて、暖かいからどうもいけない。綺麗な水が小さく流れる音がする。プールには小さな可愛らしい睡蓮が浮かんでいて、その下を金魚が泳いでいる。長い長い夢を見ていた気がする。どんな夢だったっけ。
突然、スマートフォンから着信音が鳴り響いた。私は慌てて画面を操作し、右耳に当てた。私はもしもし、と言った。相手はなにも答えない。
ぱしゃん、と音がしたのを、私は左耳で聞いた。私はスマートフォンを下ろし、左側を向いた。
プールの真ん中に、私を見つめるように、枯れた蓮が一本、呆然と立っていた。
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