私による愛すべき虚構と静寂の君

あの日に動く心臓を、私は忘れられそうにないようだ。タイミングなんて存在しないし、私の愛すべき虚構は、全ての夏に溶けきってしまっているのだ。わかるかね。わからないかい。そうかい。君は、あの蜂蜜と檸檬と炭酸と氷の混ざった苦味のような顔をしているのだろうね。ほら、また蝉が鳴き始めた。直にあの夢みたいに、炭酸でできた宇宙から、隕石が降ってくるさ。それなのにまだ夏なのかね。
いずれ、君が愛すべき虚構を、君は手放さねばならない。そう、庭先でひっそり咲いた藤の花、それが原因であれば、枯れた花火を忘れながら、生きていくしかないのさ。好きにすればいい、どうせ育っていくけれど。あの長崎の小さな家の片隅で、檸檬の果実は、深い心臓の色を帯びるのだよ。
雨が降りだしたら君はきっと、真っ白な指で水槽を撫ぜるのだ。小さく息をして、湿気が多くなった部屋で。名も知らない熱帯魚に餌なんかやりながら、私はタイミングを計るのだ。檸檬一個分の夏を投げるタイミングを。
私にとっての愛すべき虚構とは、恐らく、君のことなのかもしれない。日々腐敗していく菊の花も、私の心臓も、君の好きな白い木槿の花も、柔らかく垂れる私の藤の花も、勿論君自身のことも、君はいずれ、虚構ごと、手放さねばならないのだ。君が無意識に汚した夏は、私の心にべったりと染み着いてしまった。カレンダーの日付は八月二十三日か、八月三十二日か。其れを決めるのも君なのだ。君の毒々しい首筋に、アルバムの片隅に沈んだような汗が一つ流れた。私は、それを舐め取ってやろうかと考えた。君は良く出来た女だから、何も言わずに二つのコップに麦茶を注ぐし、よく冷えた西瓜を台所で切っている。金魚のような中身を、私に隠れてこっそり一つ齧る、君の背は真っ直ぐに伸びているのに、嗚呼、私は団扇を片手に、背を曲げて、其れを見ている。薄暗い夏の外で、一匹だけ、私のような鈴虫が鳴いている。馬鹿みたいに。

何時からか、君と汽車で揺られるようになってから、首を吊ることを考えるようになった。霧がかった庭を思い出しても、ずっとそれが気掛かりだった。映画のフィルムもこの景色も移り変わって逝く。接吻をするように、水銀を飲み込んでいくように。何処か遠くの街に往ったとしても、私は、隣の席で居眠りをする、君の横顔を思い出してしまうだろう。私は、瞼に隠れてしまった、君の眼球の色に包まれたいと思った。丁度、君の顔を覆うように垂れ下がるカーテンのように。君は寝息の代わりに水泡を吐き出している。ぷくぷくと浮かべては、窓の外に逃がしている。小さな肺を動かして眠る君の髪が、少しずつ透けていく気がした。ポケットに入れていたチョコレイトの銀紙を破る。心が苦しい。
三本足の猫の車掌が、切符を確認しに来た。君のを入れて二人分渡した。「冬至までですか、」と車掌は聞いてきた。「いいえ、立秋まで、」と私は言った。「そうですか、」と車掌は言って、私に切符を返した。
君の閉じた瞼の裏は、本当に潤んでいるのだろうか。その眼窩には、眼球なんかじゃなくて、どろどろに溶けきった君が流れ出さないように、瞼が必死に食い止めているだけなのではなかろうか。遠くに広がる、しかし限界のある青天井が、酷く苦しげに思えた。人生より苦しいことなんて在るのだろうか、今はもう遠いあの家で、乾燥花を作っていた君の心は、きっと何よりも透明であったのだと、私は車窓の外で流れる景色のような、百日紅の群れを眺めながら、そう考えていた。君の心臓は、きっとあの夏の日に置いてきてしまったのだ。

全く知らない街の、海岸沿いの道路を、私たちは二人で歩いた。海の匂いがする香水なんかとは比べ物にならないくらい、飲み込まれそうな青が、私たちの肺を満たした。歩く度に、君の髪が揺れる度に、私の脊椎が、十九時四十分の空の色に染まってしまう。遠く離れた時間の空から、火の花が咲く音が聴こえた。横を歩く君の頬が赤いように見えたのは、空のせいか、心のせいか。私の小指に、君は少し俯いたまま、控えめに人差し指を絡めた。嗚呼、やはり、君こそが私の、愛すべき虚構なのだ。君は少し笑みを浮かべながら、駆け足で砂浜へと降りていった。靴を脱いで裸足になって、踝までを海に還したら、君が少し溶けだしてしまった。妙に恐ろしくなった私は、慌てて君の手を引いた。まるで月が落ちてくるような心地だった。無意識に抱き締めた君は、心臓の分だけ、軽いように思った。

昔、君が読んでいた本のなかに、桜の木の下には死体が埋まっていると書いてあった。ならば、私の家の庭にあった、檸檬の木の下に、君の心臓が埋まっているのではないだろうか、と思った。何故か、私の心臓がざわついた。薄い布団のなかで、丸まっている君が見る夢の、氷の奥に消えた夜祭りが、君の手を引いているのだと思うと、どうしようもなく苛立ちを覚えた。眠れなくなってしまった私は、君がその日読んでいた本を捲ることにした。例の頁に君の木槿の花で作った、押し花の栞が挟んであった。ラヂオの周波数を合わせ、最小限の音量で、ノイズ混じりのクラシックを流した。窓の外には、四角い星が散らばった、細い線で区切られた夜があった。檸檬に住む君の心臓に少し触れただけで、私も君も、かろかろと壊れてしまうような気がした。君の白い身体の中を流れる温かい血液を、飲み干してしまえたらいいのに。手が本の頁ごと震える。段々と文字が、羽虫のように宙に浮かび上がる。文字と音楽が空気に混ざり、酸素と共に、私の身体に流れ込んでくる。思わず咳き込みそうになる。君は眠っていた。枕元に、昨日の海の色をした木槿の花を、はらはらと散らしながら。

いつも静寂を守る君が、時折発する言葉には、少量のアルカロイドが含まれていた。君は、自分の家の庭先の木の下に、己の心臓が埋まっているだなんて、考えたことがあるのだろうか。月から落ちる滴が雨樋を伝って、小さな水鏡を作っている。君は団扇を持って縁側に座り、薄い硝子越しにそれを見ている。今夜の空は、深く透明な藍色を纏っている。私は君の隣に座り、同じように水鏡を見ていた。
「私の花が咲きそうです。」と君は言った。その声には、少量のアルカロイドが含まれていた。「どの花かね、」と私は言った。そうすると君はすっと、空を指差した。「あれですわ、」と君は言った。私の心臓は一つ、大きく脈を打った。「何を言っているのだね、花なんて何処にも無いよ。」と私は言った。「いいえ、いいえ、在りますわ。」と君は言った。珍しく今日はよく喋るものだ。しかし夜空には、ちかちかと光る星と、それを食べる鯨が、悠々と游いでいるのみである。「では、どのような花が、咲きそうというのだね、」と私は言った。すると俯いて、「分かりません、」と君は言った。「分かりませんは無いだろう、名前が思い出せないのかい、」と私は言った。「言い表せないのです、ですが、私の、いえ、私と貴方の、花なのです、絶対に。」と君は言った。いつもより感情を出してしまっている。「そうか、」と私は言った。「それは、綺麗な花なのかい、」と私は言った。「ええ、とても。」と君は言った。「それは、もう直ぐ咲きそうなのかい、」と私は言った。「ええ、もう直ぐ。」と君は言った。「咲いたら、私も見ることができるかな、」と私は言った。君は驚いた顔をした。「何を仰っているのですか。貴方が見付けるのですよ。」と君は言った。君は、一気に喋り疲れてしまったのか、其れきり黙りこくってしまった。気づけば月の雫は、庭一面を覆うほどに、流れ込んでしまったようだ。それに混じった三角形の星が、ちりちりと音を立てて、浮かんでいる。君は其れを見ている。美しい横顔で。君の心臓は、月に沈んだ今でも、確かに動いているのだ。

君の心臓を、掘り出そうと思った。月の湖が全て乾いた今なら、探し出せると考えた。私は気付けば、君の心臓の事ばかりを考えるようになってしまった。タイミングなんて存在しない。全て溶けきっているのだ。其れなのに、あの忌々しいラヂオは、近々隕石が落ちてきます、などとノイズ混じりに叫んできた。私は、私の家の庭を穴まみれにする、隕石が大嫌いだ。そして、君の心臓が埋まったこの庭に落ちることは、君の死を意味するのだ。きっとこれは、名も知らぬ熱帯魚の仕業なのだ。花火も咲かせられないくせに。一方君は、台所で、檸檬一個分の夏を絞り、蜂蜜と炭酸と氷に混ぜたものを作っていた。いつか投げてやろうとタイミングを計った檸檬一個分の夏は、実に呆気なく彼女の喉を通っていった。私は其れを見てから、大きく酸素と檸檬一個分の夏の匂いを吸って、慎重に、正確に、私の庭に足を踏み入れた。
君の、君にとっての愛すべき虚構とは、一体何者なのであろうか。ふと、そんなことを思った。君の愛すべき虚構を手放す原因が、藤の花ならば、私の原因は、きっと木槿の花なのだ。それなのに、君が手放さねばならないものは、何処にあるのだろうか。何故か見当がつかない。私はその事に、ずっと目を逸らし続けてしまっていたようだ。私は檸檬の木の前に立ち、汗をかく。スコップなどは使えない。君の心臓を、傷付けてはならないからだ。少しずつ、月の滴で柔らかくなった土を、素手で掘っていく。丁寧に、丁寧に。
本当は、私は君を、空にも海にも還したくなかったのだ。滲んでいく君を見ることが、私には耐えられなかったのだ。君を奪われることが、居間で首を吊る事ほどに恐ろしかったのだ。だから私は、あの日、
あ。
そうだった。
嗚呼、そうだ、私は、思い出してしまった！私は、全てが夏に溶けきってしまったと思い込んでいただけだったのだ。君が大切にしていた、花火を枯らせてしまったのは、目を逸らして、忘れてしまっていたのは、夏のせいにしていたのは、他でもない、私だったのだ。
「嘘だろう、」と私は呟いた。檸檬の木の下に、心臓が、埋まっていなかったのだ。全く、何もないのだ。其処には、檸檬の木の根が、ただ土の中で蠢いているだけだ。何故だ、何処だ、絶対に、此処にあるはずだ。私は狼狽える。私が此処に、確かに埋めたはずなのに。思い出してしまったのに！嗚呼、苦しい、私の心臓が、壊れてしまいそうだ！
「ぁぁ。」
すると、動揺する私の耳に、何かの小さな声が、すうっと入り込んだことに私は気づく。深呼吸をして、耳をすませて、じっとその声の元を探す。確かに、静寂を貫く君の心臓でも、少しは喋ることもあるだろう。しかし、この声は違う。そうだ、此れだ、此れなのだ、私の本当の、探し物は。私は声の居場所を発見し、即座に走り出した。走り出さずにはいられなかった。小さい花の蕾が開きかけた、梅の木の元へと。
そうだ、此処から、声がする。私の知らない声。君ではない声。その存在など疾うに忘れていた、梅の木の下を、私は、息を切らして掘った。ぼろぼろの、私の手で。掘る、掘る、掘る。此れは私が、見つけ出さねばならぬのだ。君ではない私が。全てを夏のせいにしてきた、この私が。何処にいるのか、見当はついた。掘った穴に何度も手を入れ、土を掻き出した。爪が割れる痛みなど、もはやどうでも良かった。ふいに、君と歩いた海岸沿いで聞いた、あの花火の音を思い出した。そうして、柔らかいものが、私の指に触れた。
嗚呼、こんなところに居たのか。私のもう一つの、愛すべき虚構は。そっと両手で、小さな柔らかいものを包んだ。其処には、土の中には、私の手の中には、梅の根に絡まった赤子が、私の息子が、大声をあげて、泣いていた。彼の左胸にそっと手を置く。酷く小さな心臓が、確かに動いている。「綺麗に咲きましたね、」と私の耳元で、君が呟いた。梅の花の甘く薄い匂いが、私の心臓を包んだ。君の左胸には、あの日私が、檸檬の木の下に埋めた君の心臓が、確かに動いていた。

あの日に動いた心臓を、私は忘れられそうにないようだ。タイミングなんて存在しないし、私の愛すべき虚構は、全ての夏に洗われてしまっているのだ。わかるかね。わからないかい。そうかい。君は、あの砂糖と炭酸と葡萄と氷の混ざった甘味のような顔をしているのだろうね。ほら、また鯨が泳ぎ始めた。直にあの日みたいに、炭酸でできた宇宙から、月の雫が降ってくるさ。それなのにもう夏なのかね。