仕事後の一杯はうまい

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そこでだ、と父は徐にスーツの内ポケットから紙を取り出し、丁寧に畳んであったそれを開いてテーブルに差し出した。 「今の言葉に偽りがないというのならここにサインをもらおうじゃないか。」 叶人が要所で書面を出してくるのは父の躾の賜物なのだろうか。 叶人は非難めいた視線を父に向ける。 「父さん。形ばかりとは言え婚姻届には既にサイン貰っているし必要ないよ。」 「オマエはだからダメなんだ。抜け目ないようで詰めが甘い。」 息子の進言などには全く耳を傾ける様子のない父は強く主張した。 「言っても婚姻なんてものは生涯を縛り合う契約にはなり得ない。私とオマエの母親がそうだったようにな。」 なるほど経験者だけあって説得力はある。 だからこその、コレか。 いや普通に契約書だ。 まず返却不可。 そして離婚する事になったとしても生涯叶人の面倒を看る事。万が一幸多が逃げ出した時、叶人が追っていって居座ったとして通報不可、諦めて世話をする事。 と言った事が難しく書いてある。 足立幸多(以下甲と記す)は真宮叶人(以下乙と記す)に対し無期限の飼育義務が発生したと認める。 如何なる事態に置いても甲は乙を乙製造元に返却する権利を有さない。 と言った具合。 製造元とは両親の事であろうか。 母がふふっと笑う。 「ごめんなさいねぇ。この人こう見えて叶人君の事とても心配してるのよ。」 「親が子供の心配をして何が悪い。」 「親バカか。」 「心配しかない愚息が言うな。」 呆れたような叶人と眦を釣り上げた父が睨み合う。 ちなみにと母が説明を加える。 叶人の産みの母親にも今日の趣旨を伝えこの場に誘ったのだが「いい歳なんだし好きにさせてやんなさいよ。」と呆れて拒否られたらしい。 ご尤もです。 母がのほほんと肩を竦めてみせる。 「都もどうかと思っていたけれど、あの子はちゃっかりマメな飼い主見つけて一安心だものね。叶人君も誰か良い人いないかしらと心配していた所だったから。」 ああ。うん。ホント、親からしたら心配な愚息しかいねぇな真宮家。 しかしまぁ図太い上に他人に寄生するのが上手い奴等なので生存能力は高いと言える。 父親は毅然と言い放った。 「元よりコイツに結婚など期待していなかった。故に世継ぎなど考えもしていない。唯一、親として我が子がゴミ屋敷で孤独死するくらいは回避させたいと願ってなにがおかしい。いや全くおかしくない。」 …ええ。本当に。 頭を悩ませていたところに海を越えて飛雁さんから見合いの申し込みがあり渡に船とばかりに飛びついた。 身辺調査をして塔子が叶人と同じ人種であり現実的には世継ぎや生活に多大な支障があろう事は分かっていたが、少なくとも孤独死は免れそうだった為。 幸多は紙と一緒に差し出されていたペンを取り、一番下に設けられたサイン欄に名前を書き込んだ。 「こんなの真に受けなくてもいいのに。」 「いや、こんなんでお義父さんの憂いが軽くなるなら。まぁ。」 望まれる幸せのハードルが低すぎていっそ悲しくなるわ。 気が変わらないうちに、とばかりに父はさっと紙を回収し内ポケットに仕舞い込んだ。 「原本は私が預かっておこう。後でコピーは郵送しておく。」 この子供にしてこの父ありだな。抜かりがない。
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