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1
人生は薔薇色。
薔薇にも色んな色がある。
赤、白、黄色、ピンク、紅、オレンジ、ペールグリーン。
薔薇色、と聞いて、何色だと思った?
わたしは、青。
花言葉は、「神の祝福」。
めったにお目にかかれない、青。
唯一無二の薔薇の花。
咲くだけで、奇跡。
一輪で、世界を席巻する。
わたしの人生における薔薇色は、青でなくちゃいけない。
青でなくちゃ。
2
越智沙織、三十四歳。
新規顧客獲得率今季総合第一位、顧客満足度第四位、売り上げ目標達成率120%、潜在見込み顧客開拓件数第五位、リスクヘッジ指数第三位。
よって、文句なし、Aプラス、エクセレント。
グレッグ・ストラテジー社公認のスーパーシニア・エグゼクティブ・コンサルタントとして今季も表彰され、アワード・セレモニーの壇上で、連戦連勝の猛者どもに並び、新調したばかりのスーツで胸を張った。
ドイツ本社からこの日のために来日した、アジア・オセアニア地区スーパーヴァイジング・エリアマネージャーが壇上に招かれる。会場がまっぷたつに割れんばかりの拍手。
スリムで、にこやかで、物腰柔らかな中年男性。でも、眼光は鋭い。
エリアマネージャーは、沙織のやや斜め前に、けれども、舞台をまっすぐ見上げている観客席(ギャラリー)から見ると、沙織の正面に立っているように見える絶妙な位置に、背筋を伸ばしてきっぱりと立ち、祝辞を述べた。
短い言葉だ。
ミス・オチ。今日はあなたのためにあります。今季の輝かしいパフォーマンスを讃え、心からの感謝を贈ります。あなたは、あえて困難な道を選び、全く新しい概念を打ち出して遠くの山に駆け上った。その勇気に。
ほとんど、テンプレートなのだろう。
名前と、最後の一文が変わるだけだ。
最後の一文だって、本社のエグゼクティブが考えるのではない。白羽の矢を立てられたプロパー・スタッフが、己の威信と文才をかけて提案したものだ。
それでも、グッと来る。
総合一位にはなれなかった悔しさを差っ引いても。
エリアマネージャーは補佐役からシルバーのバッジを受け取り、沙織のエスコートである門脇真理子に渡した。
真理子は、惚れ惚れしてしまうほどに正確に、一礼をして、沙織に向き直り、その襟元にバッジを留める。
拍手が爆発した。
金色の縁取りが眩しいロー・ヒールのジミー・チュウを厳かに鳴らして、外部から招いた司会が沙織に歩み寄る。
さすが、元キー局のアナウンサー。退社後、フリーアナウンサーとして雑誌モデルとして人気薬膳研究家として活躍中とあって、光り輝いている。すきがない。
なのに、今日の主役は誰であるかをきちんと理解し、黒子に徹している。
すごいわ、とマイクを受け取りながら、沙織はため息をもらしそうになる。
プロの仕事ぶりはいつだって、インスピレーションを掻き立ててくれる。
「このような名誉にあずかりまして、身の引き締まる思いでございます」
会場内にすばやく目線を走らせて、コモンセンス・ジャパン株式会社CEOの姿を探す。
いた、いた。
ああ、あんなに端っこに座って。
沙織はがっかりする。と同時に、アテンドを頼んでいた後輩に腹が立ってくる。関係者席にお通ししなさいって、あれほど言ったのに。
やっぱり使えない、あいつ。
今度の、1on1 meetingで追求してやらなくっちゃ。
言われたことしかできないんだから、言われたことは完璧にやり遂げてほしいわね。
沙織はマイクを少し口元から離し、胸がいっぱい、の表情で会場を見渡した。
ちょっとやりすぎかな? くらいで丁度いい。
真理子が、上品なほほえみの影に爆笑を押し留めている。
コンサルタントは、才能あふれる女優俳優でなくっちゃやっていけない。
大根役者は、即刻戦力外。
ファーストクラスの客を見送るアテンダントのように、ぴしりと肘を張り、臍のやや下で両手を重ねていた真理子が、さりげなく手を組み替える。
沙織のスピーチ残り時間、あと五十秒。
わかってますって。
沙織はマイクを構え直し、一気呵成に、
「コンサルという仕事は、平坦な道ではありません。ですが、毎日が発見に満ちています。例えばこのたび担当させていただいた、コモンセンス様。セスティナブルな社会を実現する、という使命を世界に広めるべく、日本現地法人を立ち上げられましたが。エコ・フレンドリーですとか、ゼロ・ウェイストの概念が浸透しているヨーロッパとは異なり、単なるファッションではないセスティナブルとはなにか、無理をせず続けていけるコンセプトにはなにが必要か、非常に挑戦的なテーマでございました。例えば、わたしが本日着用させていただいておりますこの素敵なスーツ。完全オーダーメイドでございます。そしてこのスーツ、原材料のウールは、オーガニック飼料で、不要な管理をしない牧場でのびのびと育ったメリノウールでございます。製造過程においても、フェアトレーディング、ノンケミカル、地球にも人間にも優しい、が徹底され、工場に伺った際は、厳しくもおおらかな管理体制に感激いたしました。
しなやかに、そして大胆に、アイデアがないのであれば創ればいい。
クライアント様から学んだこの命題を来季の目標に据え、襟を正して臨みます。ありがとうございました」
オーケー、持ち時間ピッタリ。
拍手、拍手。
ざわめきがやまない。
沙織は司会にマイクを返し、もう一度会場に笑顔を向ける。
よし、一丁上がり。
これで、コモンセンス社を取っ掛かりに、ナチュラル系統で日本進出を模索する新規企業を芋づる式に囲い込める。
コモンセンス社と直接関わりのない企業であっても、沙織が日々どのように仕事と向き合っているか、前向きなスタンスをアピール完了。
次の表彰者がマイクを握る。
さて、お手並み拝見。
お隣さんは、顧客満足度第一位。
沙織は、顔には出さないけれど。
悔しい。
3
普段は静かな会員制のバーである。
貸し切りにすると、いきなりバーテンがはっちゃけている。
三十段のシャンパンタワーとか。
ベタすぎる。わかりやすすぎる。バブリー。悪乗り。特別な気分。
いつもはマスターと阿吽の呼吸で、洗練された空間を演出しているのに、今夜は下剋上だ。
マスターは苦笑いで、カウンターの奥の雑務をこなしている。
若いバーテンは蜘蛛みたいに長い足のスツール上に立って、うやうやしくお辞儀をしてみせる。
売れない、が枕詞につくとはいえ、腐っても現役モデル。腰から下が長い。
今回の奮発したドン・ペリニヨン・エノテークを演技的に傾けて、グラスタワーに注いでいく。
音楽も、ムーディーでクラシックじゃなくなっていて、ラテン? サルサ?
音量はいつも通り控えめだから、沙織たちの大騒ぎにかき消されて目立ちはしない、けれど。
悪くない。
歓声。
バーテンは、ドンペリを一滴もこぼさず注ぎ終えたらしい。グラスのサーブが始まる。
「ごめーん、越智ちゃん!会社出るの遅くなっちゃったぁ!」
一段上がったVIPスペースでちびちび、飲んでいたら、ハイテンションの真理子に見つかって、沙織は、
「待ってましたぁ!門脇先輩!」
ハイテンションで応える。礼儀だ。
真理子の肩に手を回したら、左手のグラスからドンペリがこぼれかける。
おっと。
沙織は、あわてて体勢を立て直した。
わかってる、というふうに真理子は笑って、
「待っていたのは、私じゃないでしょ?」
両手いっぱいの花束を沙織の胸に押し付けた。
沙織は花で溺れそうになり、思わず息を吸い込む。
「改めて、本当におめでとう。これで、シニアコンサルの地位確立ね。また明日から、戦争よ」
わかってますって。
沙織はウインクで応える。
「嵐の前の静けさってやつかしら。来週からの休暇、どこ行くか決まったの?」
真理子の問いに、沙織は少し首を傾げた。
真理子は、眉をひそめて、
「やだ。まだ決まってないの?一週間でしょ?近場だったら、エルニドはどう?最高だったわよ」
明日から少し頑張れば、来週一週間は遅い夏休みだ。遅すぎる。もう春だ。昨年取得するべきだった夏休みなのだ。
行き先が決まっていない、わけではない。
愛媛の祖母宅に帰るのだ。
今年で、九十歳。築七十年の、広い田舎の木造住宅にひとり暮らし。裏山から、たぬきや狐が訪ねてくるらしい。日本昔ばなしか。
生まれ育った場所、愛媛、が悪いのではない。
でも、ヴァカンスと言えばモルディブだとかピピ島だとかゴールドコーストだとか、パームスプリングスだとかウィスラーだとかカンクンだとかイグアスだとかパーム・ジュメイラだとかカッパドキアだとかカタコンベだとかツェルマットだとかダハーブだとかディアニ・ビーチだとか、お土産だけで世界一周できることを思うと、普通すぎて気が引ける。
バーテンがさりげなく沙織から花束を受け取り、ギフト・テーブルに持って行った。
けだるい幸せだ。
どうやって持って帰ろうか、この山ほどの贈り物を。
花束、香水、バスボム、高級チョコレート、以前から欲しかったクラッチバッグ、オーガニックコーヒー、開けてのお楽しみな箱たち。
お酒や果物やケーキは、お店で食べきるべくサーブに回してもらった。
それでも、この量。
手が二本じゃとても足りない。
わがままな悲鳴だ。
「皆様!ステージにご注目ください!」
店の中央の、小さな円形ステージ上にバーテンが立っている。
スタイルが良いので実に絵になる。
「本日は、越智沙織様の昇進お祝い会(プロモート・セレブレーション)にお越しいただきまして、誠にありがとうございます。なんと顔が広い、本日のスターのお祝いに、ビッグなゲストが登場です!」
真理子は沙織の肩を抱く。
当惑している沙織にウインクをひとつ。
ステージが一望できる、巨大なソファに沙織を座らせ、
「ね?期待してって言ったでしょ?」
まさか!
ギャラリーをかき分けて進む、金髪の男性。悲鳴がさざ波のように広がって、ステージ上に、躍り上がったのは、
「イエーッ、俺の越智沙織、昇進おめでとーう!」
頭が吹っ飛んだ、と、沙織は感じた。
本日の火山。
マントルは実在した。
カルト的人気を誇るパンク・ポップ・バンド、ノー・バウンダリーズのリードボーカル、トーゴ・ブライアン。
なんてことだ。
正確には、元ノー・バウンダリーズのトーゴ・ブライアン。
三ヶ月前に、惜しまれながら解散したからだ。
沙織の神様。
目の前にいる。信じられない。
仕事で煮詰まっているとき。
会社に泊まり込みで、シャワーもろくに浴びずに、パソコンをカタカタやっていたあの夜。
睡魔などとうに忘れた、壊れかけのメンタルで沙織がなにか息抜きの弱音を吐いたはずだった。
その弱音はありきたりで、個性ゼロで、100%本気ではないと真理子にも伝わっていたはずなのに、真理子は、
「越智沙織、明日を乗り越えなさい。あなたが今季もシニアコンサルの地位をキープできたら、ノー・バウンダリーズのボーカルに会わせてあげる」
まさか、本気で呼ぶとは。
大学の後輩が業界で仕事をしていて、と言ってはいたが。
まさか、呼ぶとは。
「うおーっ、俺の真ん前にいるじゃん、越智沙織!きみのために歌うから!
今日はひとりっすけど、聞いてください『It's your day』!来月のソロデビュー曲です!俺も、さおりん目指してガンバリマっす!」
曲のイントロが長れ、トーゴは長い手足を振ってリズムを取り始める。
なんだ、ノー・バウンダリーズのヒット曲じゃないのか。『contradiction』、大好きなのに。
それにしても。
ノー・バウンダリーズのリードボーカル。ヒット見込みはじゅうぶんすぎるほど。
会社や大学つながりで色々招いたので、コンサル業界や広告業界のみならず、名の知れた大企業勤めがひしめいているとはいえ、業界の重鎮でもなんでもない、一個人のパーティーに顔を出すなんて。
それだけ、ソロデビュー前に顔を売っておこうと必死なのだ。
世知辛いね、と沙織は冷える。
叫びすぎて、酸欠になりながら。
4
山の向こうにまた山があり、その山を超えると、祖母の家がある。
朝、都内の自宅マンションを出発したとき、沙織のいでたちは完璧だった。
グッチのサングラス、マックス・マーラのシャツワンピース、同ブランドのジャケット、マノロ・ブラニクのローファー、ヴィトンのバッグ、グローブ・トロッターの機内持ち込み可能サイズトランク。
羽田空港のラウンジでも完璧だった。
けれど。
松山空港から電車にゆらゆら揺られて、一時間に一本のバスに乗り換えて、
最寄の沼下停留所で降りると。
まずは、サングラスをはずした。
なんだか自分がひどく無理をしていて、哀れっぽかった。
ここに帰ってくると、沙織は小さな少女のままだ。
畑のなかに転々と家が立っていて。公園なんてない。あぜ道を走ったり、用水路を飛び越えて遊んでいたあの頃。
テーブルに積んである夏みかんが、いささか宗教的な芳香を放っている。
沙織の目の前には、鉄分配合のウエハースが山と積まれており、本当にこれで鉄分が補強できるのか、明らかに眉唾ながらも、沙織は、ウエハースを頬張らずにいられない。
沙織の祖母は、玄関先にあらわれた彼女を見るやいなや、
「ありゃあ、痩せすぎやわ。栄養、足りとるんかい? やっぱり女が働くのは良うない!」
と、断言し、仏間に続く居間に沙織を追い立てて、
「沙織、じいちゃんに挨拶しとき!」
沙織は仏壇の前に座り、鐘を三度、鳴らし、持参した『mate jelly』の菓子折りをそなえると、
「沙織、そんなにキンキン鳴らすもんじゃない!」
台所の地獄耳から注意が飛んでくる。
(じいちゃん、帰ってきたよ。ばあちゃんをいつも見守ってくれてありがとう)
静かに手を合わせていたら、祖母がどかどかと居間に帰ってきて、
「沙織、そんな痩せっぽちは栄養が足りとらん。食べ、食べ」
と、言うわけで、白いパッケージに大きく『Fe』と青字が踊るウエハースを頬張っている。
ウエハースをあらかた食べ終えたら、ビタミンが豊富な夏みかんも平らげなければならないらしい。
それより、祖母のぬか漬けと白いご飯が食べたいので、昼食を食べずに
帰ってきたのだから、シンプルに、ぬか漬けと白いご飯だけ食べたいのだが。
祖母の耳は、都合が良いときに遠くなる。
祖母は、まだ台所でごそごそしている。
りんごでも切っているに違いない。
沙織はもう三十路街道を突っ走っているというのに、祖母にとっての沙織は未だ、十歳くらいの少女なのだ。
「おばーあちゃーん」
昼下がりの、まったりとした料理番組を眺めながら、沙織は祖母を呼ぶ。
茄子とキャベツとおくらの味噌炒め。卵と豆腐のトロトロ味噌汁。
あー、おいしそう。
本当においしそう。
祖母は返事をしない。
耳をすませると、ぼそぼそと話し声がする。電話をしているようだ。
沙織はウエハースを食べ終えて、席を立った。
仏間を通り過ぎ、奥の部屋に入る。
沙織が、使っていた、部屋。四畳半。
裏庭に面した、あまり光が入らない四畳半。
沙織が、夢を育んだ部屋。
「だれにも頼らずに、自分の足でしっかり立つ、かっこいい女性になる」
と、いう夢を。
荷物をまとめて、部屋の隅にひっそり置いておいた。
グローブ・トロッターのトランクを開き、Nikeのジャージを取り出す。
ほ、っとした。
裸みたいに動きやすい。
Tooddyのストッキングも脱いでしまった。
裸足は、いい。嘘をつかなくて済むから。
居間に戻ろう、として、ちょっとはばかられた。
何歳になったか、聞かれるだろう。たぶん。
良い人はいないのか、聞かれるだろう。たぶん。
仕事はどうか、聞かれるだろう。たぶん。
この質問には、いくらでも答えられる。どれだけハードな日々を乗り越えて、シニアコンサルの地位を強固なものにしたか。
けれども、祖母の興味はそこにはない。
祖母が心配しているのは、
「いつ、ひ孫が見られるん?」
これですよ。
適当な男を捕まえて、適当に子どもを産もうかしら。
とまで、やけっぱちになってしまう。
祖母の世代の価値観だ。
女性は結婚し、妻になって、母になって、ようやっと一人前。
今は、違う。
女性だって、ひとりで生きていける。
ひとりで生きていく女性は哀れだと決めるのは、社会通念だ。
ひとりで生きていく女性が哀れなのではなくて、哀れにさせられるのだ。
負け犬の遠吠えでしかないから、哀れっぽく振る舞っておくに越したことはないけれど。自己防衛。余計な争いをさける知恵。
わたしが結婚しなかったのだっておばあちゃん知ってる癖に、と沙織は不満だ。
元恋人と、結婚の話が出ていたのだ。
二十五歳のとき。
ホテルオークラで、家族の顔合わせもした。
だけど、うまくいかなかった。
結果、結婚したら仕事を辞めて専業主婦になってほしいと言う彼と、結婚後も働き続けたい沙織のすれ違いでお別れした、ということにしたけれど。
本当は違う。
釣り合わなかったのだ。
あちらは、両親ともに都会出身。地主とは言えなくても、それぞれが不動産を持ち、不労所得がある家柄。
元恋人の父は商社勤務で、ヨーロッパ駐在歴が長く、結婚の話が出たとき、ベルギーの支店長をつとめていらしたので、急遽帰国してきたくらいだ。
元恋人自身は証券会社勤務で、昼も夜もなく働いていたが、大きな仕事を任されて生き生きしていた。
そんな、絵に描いたような成功者一家を前にして、こちらは。
寂れた田舎のジリ貧神社神主。
巫女どころか。
父方の祖父母亡き後、父と母がふたりで切り盛りしている。
巫女が必要なときは、沙織が担ぎ出された。
それも小さな街のこと。
「あ、沙織やん」
と、同級生や先輩後輩に巫女姿を指さされるのが恥ずかしくて、髪を伸ばすよう強制されるのも理不尽で。
沙織が巫女を拒否し、髪を短くしてしまうと、親戚や知り合いを頼って、それなりに見える子を探してくるが、日当が少ないとあっという間に噂になり、だれも来なくなった。
父も母も休みなく働いているので、沙織はよく母方の祖母宅に預けられた。
親と言えば、沙織は祖母を思い出す。
両家顔合わせは、なごやかに過ぎた。
元恋人の両親も、元恋人も、沙織の両親も、楽しかったと言ってくれた。
楽しかった、だけなのだ。
そこから先に発展するとは、ちょっと思えなかった。お互いに、社交辞令の仮面を被ったまま顔合わせは終わった。
そして、元恋人から話し合いをしようと持ちかけられた。
その日のうちに、別れた。
テレビの前の円卓にさりげなく座ると、ふちの欠けた昭和レトロな九谷の皿にぬか漬けのあざやかな野菜たちがもりつけてあって、
「いっただっきまーす!」
箸をとり、にんじんを口に運ぶ。
前歯を押してくる弾力が、はじける食感を予感させる。沙織の胸の高まりに、祖母は、
「どうね?いい人はできたね?」
う。
鉄拳ストレート。
もうちょっとオブラートに包んでさ、言い方がさ。
「いやー、仕事が忙しくて」
あたりさわりなく、ライトジャブ。
「仕事なんか、そんな頑張る必要ないで」
あっけらかんと祖母は言う。
東京でそれを言われたら、カチンときて相手が白旗を振るまで反論するのだけれど。
土のにおいがする風に吹かれて祖母と向き合っていると、それもそうだという気持ちになってくる。
適当な相槌で、居心地の悪さを正そうとしたら、バン、と襖が開いた。
力任せに開くなんて、風流じゃない。
父だった。
しばらく会わないうちに、白髪が増えている。もはや白髪混じりではなくて、黒髪混じりだ。
あ、と声が出た。
「沙織、お前にしかできんことごある。頼まれてくれっ」
と、父は言った。
おかえり、も言わない。
言えない。
相変わらず自己中心的な父が心底うざったくて、沙織は祖母を睨む。
わざわざ、隣町から車を飛ばしてここに来たに違いない。
祖母が電話で呼んだのだろう。
そういえば、祖母とひとつだけ合わない価値観があったのを忘れていた。
『家族は、仲良く』。
5
実家までの道中、おおよそ四十五分。
ハンドルを握りしめて、父が語ること語ること。
沙織が相槌をうついとまも与えず、しゃべりにしゃべる。沈黙をクレヨンで塗りつぶすようにしゃべる。
しかし、元来口下手な父である。
相手がまごうかたなき家族だと思うと、あまりの気の置けなさに泣けてくるから、ビジネスモードに切り替えて、エッセンスを抽出して箇条書きにしてみると、
・家業はジリ貧ではなく、極貧である。
・自治会の寄付金でなんとかやっている。
・◎◎市の郷田間神社が拝殿と本殿を建て直し、大人気になっている。
・氏子も取られてこちらは寂れる一方だ。
・観光名所になれるチャンスがなかったわけじゃない。数年前、ウチの神社で縁結びを祈願した女子高生が、叶うはずのない片思いだったのに叶ったとSNSに投稿した。
・縁結び稲荷と噂になり、しばらく盛況だった。
・なので、若者向けのマスコットキャラを作って、のぼりをたて、御守りも作った。
・が、あまりうまくいかず、すぐ閑古鳥になった。
・マスコットキャラ失敗で、昨年年始の商売繁盛祈祷の申し込みが減った。
というか、近所のよろず屋のおばあさんしか申し込みがなかった。
お得意様の、クロカワさんが郷田間神社に浮気したのはショックだった。
・が、クロカワさんは、昨年ウチで祈祷しなかったら碌なことがなかったからと、今年の年末年始は祈祷に来てくれた。良かった。
ツッコミどころは三つ。
ツッコミ1。
マスコットキャラって。
社会人経験ゼロの、ネット社会プロ住人の沙織弟・久志が選んできた著作権フリーの画像を失敬したようだが、たぶん、どうやら、萌え絵なのである。
縁結び祈願に神社を訪れるのは圧倒的に女性だし、密やかな雰囲気がひそかに人気を呼んでいたはずなのだが、身長150cm40kg、Fカップです的上目遣い巫女さんののぼりで埋め尽くされ、目がハート型の(実に古いセンス)セクシー狐がプリントしてあるピンク色の恋愛成就御守りなんて、あんまりだ。
女をなんだと思っているのか。
萌え絵でテコ入れしようとする企業は、萌え絵とともに噴死する。
この大原則を知らないなんて、情けないを通り越して感動的ですらある。
地味で寂れているけれど、知る人ぞ知る神社という立場に徹していれば。
父曰わく、最初はそっとしておこうと思ったらしいのである。
恋愛成就を叶えたい女性たちは、お賽銭の金額を惜しまない。
が、その願いが叶うか否かは、金額の大小に反比例したらしい。
一度願って、ハートブレイクして、もう一度同じ人を願った、あきらめの悪い参拝者がいたらしい。
彼女は一回目、五千円ほどの賽銭とともに祈願したそうなのだが、叶わず。
二回目は、やけっぱちで、賽銭も入れず手を合わせただけだったそうだ。
そうすると、二回目に手を合わせた二日後、意中の彼が付き合い始めたばかりの恋人と別れて、祈願者に交際を申し込んだのだという。
付き合ってください、と。
彼女はその小さな奇跡をSNSで公開したが、神社の名前とともに、一言余計を付け加えた。
『ここの神様は、お賽銭を入れないほうが願いを叶えてくれるみたいです』
「大迷惑だよ、全く」
この顛末を一息に語り終えて、父は憎々しげに言った。
だからって、グッズで儲けようとするのは明らかに努力の方向性を間違っているのだが。
ツッコミ2。
クロカワさんって。
地元で大きな権力を持つリフォーム会社だ。
元々は材木屋だったのだが、小民家の粋なリノベーションや住宅改修後を専門に手がけ始め、現在はカフェやレストランも経営している。
都市圏で出店した店も好評と聞くが、収入で言えば、飲食業界の不振が足を引っ張っているのかもしれない。
だいたい、昨年クロカワさんの評判が傾いたのは自業自得なのである。
外国産の木材を、国産と偽っていたのがバレた。
小さな町だから、なんだかんだで火消し完了したけれど、普通なら詐欺で大問題だ。
まぁ、ウチで祈祷しなかったから嫌なことが起こったのだと、勝手に解釈して戻ってきてくれたなら特に文句はない。
しかし、あまり積極的に関わりたい相手ではない。
まぁ、こちらも商売だ。きっちり支払ってくれさえすれば文句はない。
が。
父は、祈祷料を一律料金でしかとっていないのだという。
まさか。
お気持ち、とぼかして、受け取れるだけ受け取ればいいのに。
「そんな、神様に失礼なことはできん」
と、父は胸をはる。
煩悩と物欲まみれの内股ガールズで境内を埋め尽くすのは、失礼に当たらないのか。
ツッコミ3。
沙織にできること、というのは一体、なんなのか。
「沙織、お前にしかできんことごある。頼まれてくれっ」
と、叫んだ割に、肝心の、具体的な話にならないのである。
むしろ、直接的な話を避けているようでもある。
沙織に頼むにいたる経緯や、言い訳じみた周囲状況をつらつらと、無限ループさせるだけで、全く建設的な話にならない。
「それ、さっき聞いた」
と、沙織は何度うんざりしただろう。
その次に父が語り始めるのも、すでに聞いた話だったりする。
懐かしい、沙織の涙と汗がしみた境内を通って実家の前に停車したとき、沙織はわけもなく叫びたい衝動と必死に戦っていた。
「あらー、沙織。久しぶりねぇ。元気しよった?」
久しぶりに会った母は、いくらかふっくらしていた。
少し、ほっとした。
すぐにげんなりした。
ソファに寝転んでワイドショーに釘付けになっている久志のために、母は、持ち手が黄色いフルーツナイフでりんごを剥いているのだ。
テーブルに敷いた新聞紙に、ぽた、ぽた、とりんごの果汁がこぼれ落ちる。
「ただいま、お母さん」
泣きたくなった。
久志はなにも言わない。
テレビでお笑い芸人が、なんだか聞き取れないことを叫び、スタジオがどっとわいた。
ハハッ、と久志も笑った。
それだけだ。
久志も被害者なのである。
生まれたときから、宮司の道しかなかった。
警察官になりたいとか、電車の運転手になりたいとか、そんな夢を持つことも、口に出すことも許されなかった。
ほぼ放任だった沙織とは全く逆で、久志は手取り足取り、将来の道を歩んでいた。
歩まされていた。
そして、ある日。
彼は歩くのをやめたのだ。
「元気そうじゃないのぉ。ちょっと待っとりよ」
母は沙織に座布団を勧め、自分は立ち上がって、台所へ引っ込んだ。
すぐ、りんご満載のガラス鉢を抱えて帰ってくる。
久志に剥いてやっていたりんごとは、赤みも光沢もまるで違う。
わかりやすい、と沙織は思った。
高級りんごと、庶民派りんご。
りんごより、みかんが食べたい。
祖母宅のテーブルで山積みになっていた、みずみずしい緑色の夏みかんを思う。
みかん農家の娘である母は、一生分のみかんを既に食べ終えていて、この世にみかんなんて果物はないと言わんばかりに振る舞うのだ。
また、久志が乾いた笑い声をたてた。
「ねぇ、そんなことより」
ここからはやく出て行きたい。
きりきり痛む後頭部をなだめながら、沙織は言った。
「今の状況はわかったわよ。だけど、私にできることって、なに?
お金の援助はしないわよ。そもそも、私が援助したって焼け石に水だし、それに……」
「沙織」
ぴしゃりと、父が言った。
「なによ?」
ひるんだ、と思われたくなくて、沙織もぴしゃりと言い返した。
「お前は、ウチがどなたをお祀りしとるか、わかっとるんか?」
「裏山のお狐様でしょう? 宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)のお使い様」
ハハッ、と、また久志が笑った。
おお、と、父が気の抜けた声を発した。
6
宇迦之御魂大神。
ウカノミタマノオオミカミ。
日本書紀に登場する、農耕の神。
農耕が生活の軸をにぎる日本において、最も身近で、最も重要な神様だ。
宇迦(うか)、とは、穀物を意味する。
豊かな暮らしと繁栄を約束する、潤沢で健康的な穀物。
農耕に派生し、商売や、製造など生活の糧としての活動を守護する神様として、現在でも人気が高い。
彼女をお祀りしているのは、ウチだけじゃない。
全国津々浦々の、稲荷神社はすべてこの、宇迦之御魂大神をお祀りしている。
では、『狐』はどこから出てきたのかというと。
お狐様は、宇迦之御魂大神のお使い様なのである。
実家の神社で直接、お祀りしているのは、齢五百年を越えるという、裏山の狐である。
山、と言うより、丘、である。
控えめな高さだが、山裾は幅広い。
小さい頃はそのふもとでよく遊んだものだ。
三十分もあれば、山頂に登れてしまう小山なのだが、一応沙織父方の所有である。
売ったって二束三文なのだが。
父方の親戚が、無計画に植えたスギがむやみやたら乱立していて、春先には大量の花粉をまき散らす。
スギの木は売れる、と、安直な見込みで植樹しまくったものの、海外から輸入した木材のほうが質が良く、安価だ。
おまけに我が家のスギは素人が、管理のことしか考えずに等間隔で植えたものだから、日の光がうまく当たらず、痩せぎすなスギになっている。
これじゃ売れない、と、沙織の目にも悲しく映るくらいに。
そんな山でも名前だけは立派で、宝玉山(ほうぎょくざん)と言うらしい。
完全に名前負けしている。
その宝玉山に、五百年以上前から住んでいる、徳の高いお狐様が、社殿に鎮座しているのだ。
ああ、馬鹿らしい。
神様本体をお祀りするのは畏れ多いから、より身近な存在であるお使い様をお祀りする。
実にいじらしい、一歩下がってさらに三歩下がる日本らしさ爆発な謎理論だ。
そんな遠回りな慕い方をしなくたって、おおいに盛り上がって、おおいに奉れば良いのだ。
この、じとっとした、というか、ぬめっとした、というか、一番たちの悪いストーカーじみた精神構造にゾッとする。
結論。
謙虚のゴリ押しは、謙虚とは呼べない。
父に言われた通り、総菜屋に向かいながら沙織は舌打ちをする。
もう神儀は始まっている、穏やかな心でと父に忠告されたが、構うものか。
また、信号にひっかかった。
何度目か、もはやわからない。舌打ち。
父の軽自動車は、ハンドルが軽すぎて思わず回しすぎてしまう。
沙織は、東京に置いてきたVolvoを懐かしく思い出す。
ああ、ひとりぼっちでかわいそうなVolvo V40。
思い切って自己投資したのに、遊ぶ暇がなくて、地下の駐車場で待ちぼうけさせてしまっている。
東京に帰ったら、たっぷりドライブに行こう。
葉山の、オーガニックフレンチが気になっている。
駐車場なんて必要なかった。
人の往来もない、開いている店もない、商店街の一角に路駐する。
まだ午後三時だと言うのに、薄暗い。
視界の端がゴソゴソ動くので、あわてて目をやったら、まるまる太った猫が道端でうずくまっている。
だれかが、エサをやっているらしい。キャットフードのかけらが見え隠れしている。
父に指示されたとおり、『てるめ寿司』の看板を探した。
うっかり一度、通り過ぎてしまった。
一応、看板は出ているのだが、割れた箇所をガムテープで補強しているので、文字が読みづらい。
昔は結構栄えていたのだけれど、と、在りし日のてるめ寿司を思い出して、沙織は悲しくなった。
からりと引き戸を開けて、のれんをくぐる。
「うわあ、沙織ちゃん。大きくなって」
最後にこのお店に来たのはいつだったか。
十歳? 十一歳? そのくらい。
会わなかった年月分、皺を蓄えた女将さんが、やっぱり薄暗い店の奥から、妖怪みたいににょっきり現れる。
この商店街の出力は、故意的に抑えられているのだろうか?
「美人さんになったねえ。いくつになったかねえ。結婚は?」
はいはい、また始まった。
沙織が結婚しようとしまいと子どもを産もうとどうしようと、あなたにはなにも関係ありませえん、と心のなかでぶちまけて、顔はおだやかそのものの微笑。
ちょっと急ぎなんです、と、つつがなく断ってから、新鮮なあぶらあげで包んだ、てるめ寿司特製のいなり寿司を受け取る。
お狐様はいなり寿司が好き、だなんて、だれが決めたのだ。
五百年生きていようと、どうだろうと、狐は狐。
おいしいものならなんだってぺろりと平らげるだろうに。
お稲荷さんなのだから、おいなりさんが好きに違いない、と、山盛りのいなり寿司をそなえる押し付けがましさ。
いなり寿司が満載の折り詰めが入ったビニール袋を両腕にぶら下げて、もと来た道を戻る。
いなり寿司を助手席に乗せ、シートベルトを締めると、甘くて香ばしい香りが、ふわんと鼻をくすぐった。
おいしそう。
そういえば、昼食を食べそびれていたのだ。
・・・・・・ひとつくらい。
絶対に嫌だ、と沙織は断ったのだ。
お供え物をたんまりとそなえて、巫女の装いで、一晩、社殿に泊まり込み、ろうそくの火を絶やさないように寝ずの番をしろ、だなんて。
滑稽すぎる。
非科学的すぎる。
しかも、沙織は処女じゃない。
よりしろとなる巫女に穢れはご法度のはず。
しかし、
「頼む、沙織。このまんまじゃ神社存続の危機だ。双樹(そうじゅ)様に執り成しをお願いしてくれ。いや、お願いしてください。今でも、ほそぼそではあるけど、恋愛成就の祈願に来る参拝者がいるんだ。その人達からいくらか、いくらかいただければ立て直せるから。もう、どうしたらいいかわからねんだ。双樹様はお優しいから、お気持ち料の大小にかかわらず願いを聞き届けてくださる。でも、それじゃ困るんだ。デフレまっしぐらだからな」
「つまり、対価をいただかないと願いを聞き入れないようにってお願いすればいいのね?」
「う、まあ、そういうわけだ。沙織、頼まれてくれ、な? 執り成しは、女性にしかできないんだ」
「じゃ、お母さんにお願いしたら?」
「う、お母さんはだめだ」
「なんで?」
「う、閉経するとな、霊力が下がるんだ」
「なんつー失礼な神様なの? 女をなんだと思っているのよ?」
「な、沙織。こらえてくれ。形だけでも、形だけでも良いから、な?」
なにが形だけ、よ、バカバカしい。
いなり寿司にかぶりつきながら、沙織はいらいらとまばたきをする。
甘くて、酸っぱくて、おいしい。
じゅわっと唾液が泡立つ。
はやく、祖母宅に帰りたい。
祖母宅で、ゆっくりと、疲れた体を癒やしたい。
でも、今、帰ったって、父はすぐ祖母に電話をするだろうから、けじめを重んじる祖母は沙織を咎めるだろう。
今夜だけ。かたちだけ。
社殿でひとり、過ごせばいい。
どうせ、だれにも監視されないんだし。
どこか空気の流れがおかしい実家の一室で眠るよりも、社殿のほうがすがすがしく、過ごせるかもしれない。
そんなことを考えながら口を動かしていて、はたと気がついた。
何個、食べたっけ?
助手席のビニール袋を覗き込む。
折り詰めが1パック、まるまるなくなっている。
あちゃー。
お供え物は、その土地の、地のものを用いた食物でないと受け取ってはもらえない、らしい。
供物台三つに山と積まなければならないのに。
これでは、数が足りない。
仕方がない。
五百年前にはなかった、グルメをお供えしてあげようじゃないの。
沙織は、がらがらな農道をまっすぐ西に走り、大型スーパーに車を停車させた。
狐は犬の仲間だ。
CMでおなじみ、ワンちゃん大喜び、からだに優しいオーガニックミートをふんだんに閉じ込めた総合栄養食、《ナチュラル・バイタル》。
つまり、ドッグフードだ。
フードタイプをひと袋、ウェットタイプを十五個、それから、一晩過ごすためのビールとチーズと生ハムとナッツ缶を買って、店を出た。
なんだか、わくわくしてくる。
帰宅したらまっすぐ、社殿へ向かい、供物台を整える。
燭台を所定の場所に並べたら、観音扉を閉め、扉の前で父が祈祷する。
父が祈祷している間に沙織は、母が作った精進料理を食べ、身を清め(つまり、シャワーを浴びて塩混じりの湯船に浸かり)、巫女装束に袖を通し、髪を束ねて、ひとり、社殿に向かうのだ。
明かりの落ちた境内を、月明かりに照らされて歩くのは、少し、勇気が必要だった。
白い、太い、長いろうそくを蓄えた手持ちの燭台を、左手に掲げている。
火は、まだ灯さない。
しゃり、と、草履の底が砂利を踏みしめる。
しゃり。
しゃり。
心地よい、反復音。
しゃり。
バカバカしい、と思っていた。
どうせなにも起こらない、と、思っていた。
なにかが起こりそうだ、と、心模様が変わってきている。
息遣い。
ふ、と息を吐く。
足音に揃えてみる。
ふ。しゃり。
ふ。しゃり。
ふ。しゃり。
社殿に登る木造の、階段前で一礼する。
ライターで、ろうそくに火をつけた。
かちっと、ライターが鳴ると、現世に引き戻される気がする。
階段をゆっくりと、ゆっくりと登り、社殿の扉を開けた。
ドッグフードが香る。
ろうそくの、丸い光が急に、すぼまった。
あわてて手持ちのろうそくを傾け、社殿内に立ててあるろうそくへ次々と火をうつしていった。
7
向かって左の供物台には、いなり寿司を。
真ん中には、ドッグフードを。
右には、ウェットフードを積んでおいた。
何時だろうか。
時計だの携帯電話だのは、没収されてしまった。
自分専用の飲み物とおつまみは、こっそり、社殿の隅に押し込んでおいたのだが、手を伸ばそうと思えない。
こんなにも、静かな夜は、いつぶりだろうか。
怖いくらいに。
沙織はそっと、袴の裾を引き寄せる。少し身じろぎするだけで、しゃら、と衣擦れが鳴る。
その、かすかな物音にすらなにかの気配を感じ取ろうとする自分がいる。
都会の夜は、華やかだ。
にぎやかで、あでやかで、孤独だとか、逡巡だとか、色のない感情がごまかされてしまう。
この夜に、嘘はない。
絶対眠くなると、沙織は決めつけていた。
眠くなるどころではない。
魂が冴えてくる。
一種の、興奮状態だ。
ゆらゆらと、世界が回っている気がする。
沙織はなんどかまばたきをして、ろうそくの炎をひとつずつ数えた。
ろうそくを倒してはいけない。
社殿は、年季の入った木造なのだし。
隙間風が手足を撫でる。
少し、寒い。
天井に、ひらひらと揺れる影を眺めた。自分の影? 供物台の影? ろうそくの影? なんでもいい。自分以外の、気配。
小さい頃、ここは不思議の国だったのだ。
沙織は思い出す。
世界は、この町がすべてだった。
父や母が毎日、掃き清めているこの神社は、沙織にとっての海だった。
ここがあれば、朝から晩まで、数え切れないほどに冒険の旅を味わえた。
空を貫くばかりの木々。
大河のような小石の河。
背の高い草花にはばまれた社殿。
顔見知りの町の人達がどこか神妙な面持ちで、往来する鳥居の下。
そうだ、沙織のすべてだったのだ。
悲しさがやってくる。
もう、ここに沙織の居場所はない。
財政難、神社の格式、掃いても切ってものびてくる草木、神主としての資質、十一代目として大きな期待を背負っていた弟の失速。
私がなんとかするから久志をそっとしておいてと、父に頭を下げた沙織に父はなんと言ったのか。
「女には期待できん。女には、なにもできん」
そうだ、と沙織は思った。
女なのだ。
女だからなにもできなかったはずなのに。
女だから悔しくて、必死に勉強してトップの大学に入って、完全実力主義の外資系企業に入り、ひたすら突っ走ってきたのに。
結局、ここに行き着く。
女だから。
女だから、直接神様にとりなしを願える立場であるらしい。
奇想天外。
摩訶不思議。
都合良すぎ。
ふつふつ、怒りが湧いてくる。
もう、火を消してしまおうか。
ビールを飲んでしまおうか。
どうせ、なにもできないのだ。
女だから。
今更、なんだ。
風向きが変わった。
においを、感じた。
はっと、居住まいを正す。
耳をすませる。
ろうそくの炎がいっせいに、まっすぐに引っ張り上げられて、ゴムのように伸びた。沙織は、目が離せない。
また、風が吹いた。
ただ吹き込んできた、のではない。
沙織の周囲を包み込むかのように、意志を持って、ぐるりと、一周し、あたたかな残り香で頬を打った。
は、と、ようやく息を吐いた。
だれ?
目を凝らす。
ドッグフードの山が、山吹色の粒のひとつひとつが、かたかたと揺れ、蠢いている。
急に、ひれふしたくなった。
恐れ多い・・・・・・!
沙織が目を細めるのと、ドッグフードが、ざあっと溢れるのと同時だった。
変な声が出た。
「や、失敬」
声が、降ってきた。
「いかにも。鼻をくすぐられたもので、つい」
ぽりぽりと、なにかを噛み砕く音がする。
声がするほうに目を向けた。
しゅるりと、ドッグフードの山に白いかたまりが降りてくる。
手だ。
ものすごく、指が長い。
陶器のようにすべらかで、晴れた日の雲のように澄んだ、白い、手。
いささか、爪がとがりすぎている。
けれども、手だ。
うっとりしてしまう手。
指が長すぎて、ぞっとする、手。
沙織は顔を上げた。
細面の、長身の、と言うには背が高すぎる、社殿の天井にまで頭が届きそう、浅葱色の着物を着た若い男性が、沙織と向かい合っている。
彼の姿を、美しいと言わずしてなにを美しいと言おう。
渦巻く滝壺のように豊かな、腰まで届く銀色の髪。
彗星の尾のように切れ長の、ペールグリーンの瞳。
すらりとした鼻筋。
野いちごのつぼみのように上品な唇。
隆々とした肩を柔らかな装いに包み、すずやかな表情で沙織をとらえていて。
ドッグフードを食べている。
色気が台無しだ。
「あ、あのう」
しばらくあっけにとられていたが、意を決して、沙織は、
「いなり寿司は、お嫌いですか?」
「いかにも、好物であるが」
耳で聞く、のではなく、頭の中に直接響いてくる。
奇妙な感覚だ。
「これはなんと申すか? 嗅いだことのない、よき香りじゃ」
「えっ、ええと、それは」
犬の餌です、とは言えない。
「て、天然有機物と申します。双樹様」
『ナチュラル・バイタル』をセンスなく訳しただけだ。
「ほほう、テンネンユーキブツとな」
それでも相手はしげしげと、てのひらに積み上げた粒を眺めてまたほおばる。
沙織が首を直角にして、仰ぎ見ていると気がついたのか、双樹はするするとからだを縮こめて、人間の、身長の範疇に収まった。
まぁ、見れば見るほどに。
新しい美しさを見いだせるお姿だ。
「嬉しいな。我が名を知っているとは」
「存じ上げております。私、双樹神社十代目神主の娘、越智沙織でございます」
神様と話すのに最適な文法を、沙織は知らない。
仕事モードに切り替えれば、すらすらと出てくるから不思議。
「おお、我をここに祀りたいと突然言い出した玄三郎が子孫か」
ご先祖様の名前は知らない。
でも、たぶんそうだ。
なんとなく、頷いておく。
双樹様は、もはや隠す気もない。
ドッグフードを両手で鷲掴みにして、飲み込むが早いか、ほおばっている。少し悪くなった肉を濃縮したようなにおいと粉っぽさが鼻につく。
「久しぶりだな、こうして呼び出されたのは。そなた、夜を徹し、命をかけて我を呼び出したるは、いかにもただならぬ事情であろう。申してみよ。日照りか、飢饉か、疫病か?」
あのくそじじい。
沙織は、心のなかで父を罵る。
命をかけて、ですって?
自分のところの神社が人気なくてつぶれそうだから、人寄せに協力してください、だなんて。
「申してみよ」
荘厳な態度で、双樹は沙織を促す。ドッグフードで両頬を風船のように膨らませて。
沙織の緊張に火がついた。
無理を可能にしてこその、ハイリターン。
やってやろうじゃないか。
「謹んで申し上げます、双樹様。実は、玄三郎が子孫、越智敏一たっての願いでございます」
さらりと、父に責任をなすりつけておく。あくまでも、沙織は依り代だ。
「双樹様の数々の奇跡、お働きによって生かされております私めどもの、小さな小さな声に耳を傾けてくださって。まことに感謝の念でいっぱいです。あなた様を讃え、この地にわびしいばかりの神社を建立し、今日(こんにち)まで守ってまいりました。世は移り変わり、現在は西暦2020年。令和時代の幕開けでございます。長きに渡り、双樹様の叡智とお恵みにより、暮らしてまいりましたが、恐縮ながら私めどもは、財政難、という責め苦にあえいでおります」
論点をぼかそうか、悩んだ。
が、ぼかして誤解されても困る。
はっきり明言しつつ、さらっと流すことにして。
「どうかどうか、人の足をお招きくださいませ。そして、実にあさはかなお願い事ではございますが、布施の精神を知らしめてくださいませ。どうか、どうか」
権力を鼻にかけている相手には、どんなおためごかしよりも、ひたすら低く出る作戦が有効だ。
結果が出せるならば、床に額をめり込ませてでも、頭を低く保つべし。
「沙織とやら、顔をあげよ」
「ははっ、ありがたき幸せ」
暴れん坊将軍か、と、自分で突っ込んでおく。
ドッグフードの山は半分ほどの大きさになっている。
残りの山を名残惜しそうに眺めながら、双樹様は、
「なにを申しておるのか。我が住処を守り清めておるそなたらに報いるべく、我も力を貸したではないか。恋情を叶えてほしいと女人が列を作るのを、片端から糸をつないで、ここに足が途絶えぬよう取り計らったぞ?」
「そこ、そこですよ!」
沙織はすっくと立ち上がり、てのひらをぴんと張って、右腕を伸ばす。
空中で、双樹様の言葉を打ち消すような具合に。
ああ、ベテラン・コンサルの悪い癖。
コンサルに相談をしてくるクライアントのほとんどは、業績不振や、停滞などの悩みを抱えている。
まずは、地道なヒアリングだ。
お金を払っているぶん、クライアントは、コンサルに対して多かれ少なかれ不信感を持っている。つまり、
コイツは支払ったぶん、対価の働きができるのかどうか?
だ。
その不安を払拭するには。
コンサルはあくまでも、クライアントと二人三脚で、のスタンスを崩さずに、手綱を握る必要がある。
随所随所で、リーダーシップを感じさせるアクションが必要なのだ。
「双樹様、お言葉を返すようでございますが、片端から糸をつないで、と申しますと、それは、恋愛成就を願ったすべての人に対してということでしょうか? つまり、全員の願いを叶えた、と?」
「いや、全員とは・・・・・・」
「では、どのようなご基準で、叶える人と叶えない人を選別したのでしょう?」
「せ、選別というと・・・・・・どうかな。まあ、我の気分次第だったというか」
「それはいけません」
ぴしりと、言い切った。
双樹様は口をつぐみ、噛み砕いたドッグフードを無理やり飲み込んで、
「ならぬとは、どういうことか?」
硬い表情で、言った。
神様のお使いを怒らせるかもしれないと思うと、得体のしれない恐ろしさが背中をなでてくる。
構うものか。
神仏の裁きを恐れていては、コンサルなんかできやしない。
「いいですか、双樹様。人間というものは、秩序を好むものです。秩序、すなわち平等。下手の鉄砲数撃ちゃ当たる、ではなく、一本筋の通った理論に人は安堵を覚えるのです。つまり、あなた様の気分次第で、気まぐれで、願った効果が現れるのではなくて、祈願者がなんらかの、はっきりとした犠牲を支払うとか、目に見える基準をもとに結果が導き出されるのであれば、人は安心し、恒常的に集うのです。つまり」
ドッグフードは、ほとんど残っていない。
「布施の金額に応じてご利益を与えていただければ、と」
「物質で、信仰の篤さは量れぬぞ」
仏頂面のままで、双樹様は言った。
表情がなくなると、なるほど、切れ長の目尻がさらに伸び、整った鼻筋が立体的に突き出して、狐、だ。
バカのふりをする女はとことん嫌いだろうな彼は、と、沙織は直感的に思った。
好ましかった。
「ですが、物質があれば、新しい物質が手に入ります」
すかさず、沙織は供物台を手のひらで示して、
「これ、とか」
ドッグフードは、もうほとんど残っていない。
「なんと」
人間の顔つきに戻って、双樹様は言った。
「それはまことか。これを、この、極上の、テンネンユーキブツを、布施に応じて願いを聞き届ければ手に入れてくると、そういうことだな、女?」
「沙織、と申します」
「わかった、沙織。では、我はどうすれば良いのか?」
「名案がございます、双樹様」
居住まいを正して、沙織は、
「どうぞ、今しばらくお時間をいただきたいのです。整いましたら、お呼びさせていただいても? テンネンユーキブツを、またこのように、山盛りに・・・・・・」
「待っておるぞ」
ふうっと、からだが軽くなる。
雰囲気に、抱かれた。
光が射し込んでいる。
はっと、目を開けた。
朝露に濡れた装束が、まだるっこしい。足袋の底までぐっしょりと濡れている。ああ、と沙織はため息をついた。
夢?
夢、じゃない。
ドッグフードを献上していた供物台が、きれいさっぱり、空っぽになっていた。
《続く》
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