踊る能面

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踊る能面

 ディスプレイが全画面表示になると同時に、暗転。  真っ黒な背景に、能楽に使う面、つまり能面が現れる。  一見無表情にも見える女面に、線で書いただけの体と手足が付き、踊り出す。  左右に伸びた両腕らしき線がゆらゆらと動き、おそらくは腰と思われる辺りの線が緩く曲がりながら横に揺れる。揺れに合わせて、両足の様に下に伸びた二本の線が左右交互に曲がり、重心移動の如き動きを見せる。  一連の動きを見せると、その背後に重なるように影ができ、次の動きで「それ」が二つに増えた。  そしてまた同じ動きが終わり、それぞれが更に増殖する。  画面一杯に広がるまで増殖が続き、余白が見えなくなると、突然、それらが画面中央に集約され、一つの能面が大きくアップで表示される。  それは、般若と呼ばれるものであった。  般若とは、嫉妬に狂った女性の顔を表す能面で、つり上がった目と裂けるほどに口角の上がった口を持つ表情の上、頭には角が生え、口から牙がはみ出している。うっかり夜中に本物を見てしまえば、大抵の人は叫び声を上げるだろう。  般若の口角がさらに裂け、つり上がった目が見開かれる。数秒間静止の後、画面が暗転。  そして、ループ。 「な、な、な……なんなのよ、これ~」  校舎の一角に、甲高い悲鳴が響いた。声の主は、この春高校三年生に進級する榛木佳織。内密にと見せられた画面に、思わず、幼い頃から躾けられていた品行方正も忘れて絶叫した。曽祖母に見られたら一大事である。 「まあまあ、落ち着いてください」  いかにも人の良さそうな雰囲気の男性が、おっとりとした穏やかなテノールで宥める。能楽部顧問の国語教師、田原敦司である。 「これが落ち着いていられますかっ。ただでさえ、あらぬ疑いを掛けられてるっていうのに、このせいで我が能楽部は活動停止処分になりそうっていうか、ほぼ決まりなんですよね。新入部員がいないと休部になってしまうのに……」 「でも、ここで騒いでも仕方ないですし……いずれも証拠がなく、処分が決まったわけではありませんし……」  佳織は、詰め寄らんばかりの勢いで捲し立てるが、当の田原は、困惑気味に佳織を押し止めるだけ。その態度が、余計に佳織を苛立たせる。 「だからって、なんでそんな暢気なんですか、田原先生。まさか、能楽部がなくなれば、顧問の仕事が減ってラッキーとか思ってるんじゃないでしょうね」 「か、かおっ……榛木さん、そんなわけないじゃないですか。僕だって能楽を愛してるし、それを一人でも多くの生徒に知って欲しいと思うからこそ、こうして顧問をしているわけで……」  佳織にとって、能楽部の存続は大きな問題だが、田原にしてみれば、職を失うでもなく、多くある職務上の問題の一つに過ぎない。しかし、田原には田原なりの、能楽部に対する職務以上の思いがあり、それは佳織も承知している。ただ、日頃から暢気な田原の態度は、今の佳織には、逃げ腰に見えて仕方ないのだ。  佳織は、もう一歩詰め寄ると、田原のウィークポイントを突いた。 「本当ですか、もし、そんなこと考えてるなら、奈緒美さんに相談しますよ」 「か、勘弁してください、姉さん怒らせたら怖いんですから」  田原の年の離れた姉、奈緒美とは、佳織が幼い頃から縁あって親しい。奈緒美は佳織を、実の娘のように可愛がってくれる。だが同時に厳しい面もあり、実の親以上に躾けられた。 「だからです、ちゃんと逃げずに協力してくださいね」 「わかってますって、僕にできることなら何でもしますから」  田原がため息混じりに答えると、佳織は、にっこり微笑んだ。 「その言葉、信じていいんですよね、田原先生。場合によっては、奈緒美さんだけじゃなく、曽祖母にも相談しますよ」  どうにも歯切れの悪い田原に、佳織は諸刃の剣となることを承知で、最終兵器とも言える自身の身内を持ち出す。 「わ、わかりましたから。シズさんだけはホント、勘弁してください」  ついに観念した田原は、生徒の前とは思えない程情けない声で、協力を了承した。
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