お客様は神様です!

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お客様は神様です!

 佐伯 権造(さえき ごんぞう)はレジの前で困っている。 「あ、あの…83番……なんじゃが」 「あぁー?」  乱暴に訊き返してきたのは、若い男性店員だった。  権造は、コンビニでタバコを買おうとしていた。銘柄に割り振られた番号を言えば、店員がカウンター後ろの棚からタバコを出してくれる。  はずだった。  しかしこの店員は、ただ面倒臭そうに訊き返すばかり。  明らかに権造の声は届いているのに、棚の方を向くことはない。 「は、はちじゅうさ…」 「聞ィこォえェねーなぁあ?」 「うぅ……」  権造は気が強くない。店員に凄まれ、何も言えなくなってしまった。 「………」 「……」  権造が悔しげに唇を噛み、店員はニヤけながら見下ろす。  その時間が5秒ほど続いた後で、店の自動ドアが開いた。  若い女性客が入ってくる。それを見るや否や、店員はすぐさま姿勢を正した。 「いらっしゃーせ~」  女性客にさわやかな声で挨拶を飛ばすと、すぐさま棚の方へと振り返る。  83番のタバコを取り出し、バーコードをスキャンしてから権造の前に投げた。 「ほらよ」 「…ど、どうも…」  なぜか権造の方が申し訳なさそうに、年齢確認のボタンを押した上でタバコ代を払う。払った後は逃げるように、背を丸めて店から出た。  家に帰った権造は、タバコをふかしながらひとりごちる。 「なんで毎回毎回、こんな思いをせにゃならんのじゃ…」  世は一大嫌煙時代。家の近くにあったタバコの自販機は撤去され、専業で売る店もなくなった。  近くでタバコを取りあつかう店はあのコンビニしかなく、権造は行く度に店員から嫌がらせを受けている。何度か行く時間を変えてみたものの、他の店員も彼を下に見ているようで対応に差はなかった。 「わしが一体何をしたというんじゃ…敬えとは言わんが、せめて普通に売ってくれんかのう」  立ち上る煙が空気に溶けて消える。権造の淡い望みもまた、どう解決すればいいのかわからないままぼやけるように消えていった。  タバコを別の店で買うことも考えたが、コンビニに比べてかなり距離がある。車どころか自転車も持たない彼にとって、そこまで行くこと自体が重労働だった。 「結局あの店で買うしかないんかのう…」  権造は沈んだ声でつぶやく。こんなことならいっそタバコをやめてしまおうかとも思うが、この歳になって禁煙の苦しみに立ち向かう気にもならない。 「はあ……」  結局、煙とともに失意のため息を吐くしかなかった。  ため息は部屋中に響くほど大きなものだったが、何があったのか尋ねてくる者はいない。狭くて古い家に、権造は独りで住んでいた。  テレビに目を向けると、今日何度目かのニュースが流れている。昔に比べてずいぶん薄くなったこの家電は彼にとって数少ない娯楽のひとつだが、最近は見たい番組もかなり減ってしまった。 「朝、昼、晩と…一体何時間ニュースやっとるんじゃ。時代劇を増やせ、時代劇を…」  吐くものをため息から愚痴に変え、権造は座椅子に背中を預ける。  と、ニュースの話題が昭和時代に開催された万博へと移った。 「お!」  権造は預けたばかりの背を離す。前のめりで画面に見入った。 ”……この万博は70以上の国と地域が参加し、6000万人を超える人々が訪れました。テーマは『人類の進歩と調和』で……”  説明とともに、会場の遠景や開催時の様子が映し出される。その後、派手な着物を着た歌手がダンサーを引き連れて歌っている映像に切り替わった。  歌手の堂々たる姿と歌唱に、権造は思わず感嘆の声を漏らす。 「西 日出男(にし ひでお)先生…! ああ~、この頃はよかったのぅ……」  全てが活気に満ちていた当時を思い返し、まるで夢の中にいるような気分になる。  その時、西 日出男が両手を大きく広げながら朗らかにこう言った。 ”お客様は神様です!”  そしてカメラに向かって深々と頭を下げる。  権造は、感動に震えながら何度もうなずいた。 「さすが西先生じゃ…! 素晴らしい芸をお持ちなのに、偉ぶるところが全くない。本当にすばらし」  言いかけた口が止まる。  権造の脳裏に、西の言葉がこだまのように響いた。 ”お客様は神様です!” 「そうじゃ…」  はたと何かに気づいた。 「お客様は神様じゃないか。西先生もそうおっしゃっておる! そうじゃ…わしは今まで何を、店員相手にビクビクしとったんじゃ?」  気づきが気づきを呼び、渦となって精気を生む。それは体中に満ちて、失意や愚痴といった負の感情を一瞬にして消し飛ばした。 「そうじゃ…わしは客じゃ。つまり神なんじゃ! そのつもりで生きていかねば、西先生に申し訳が立たん!」  権造は座椅子から勢いよく立ち上がり、両手を握りしめる。  この時から、彼は客という神として生きることを決めた。  神になったことで生まれた心の躍動。それに突き動かされるまま、権造は家を出た。  散歩がてら、神として入る店を物色し始める。 (せっかく神になったんじゃ、あの若造にガツンと言ってやりたい……が、いきなりはハードルが高すぎるのぅ…)  最初はコンビニではなく、別の店を選ぶことにした。  歩く方角を変えようとしたその時、家と家の間にある小道が目に入る。 (どうせなら、いつもは行かん方へ行ってみるか)  小道に入ると、見慣れない景色が権造の視界を埋め尽くした。自宅からそう離れていない場所だが、別世界のように思えた。  やがて小道を抜けると小さな商店街を見つける。とはいってもほとんどの店がシャッターを下ろしている、いわゆる「シャッター通り」だった。  道幅は狭く、車1台がやっと通れるかどうかといったところである。しかしそもそも人通りがないため、権造ひとりが歩く分には全く問題なかった。  ただ、道そのものが暗い。 (陰気じゃのぅ……)  古いアーケードの隙間から、かろうじて光は入ってくる。しかしそれはとても頼りなく、昼間の商店街にいるというのに夜の森を歩いているような気分になった。  道沿いに建つ建物が、まるで迷いの森に生える枯れ木のように、歩道に向かってその先端を傾かせているように見える。 (あの世にでもつながっていそうな雰囲気じゃが…わしゃ神じゃ、この世とあの世を行き来できても何の不思議もないわい)  権造の足取りは軽い。孫ほど歳の離れたコンビニ店員におびえていたことなど、すっかり忘れたかのようだった。  しばらく歩くと、外からのものとは別の黄色い光を発見する。 (奥に…なんか見えるのう。あれは店か?)  光に誘われ、さらに奥へと歩いていく。すると、歩道に置かれた縦型の看板が見えてきた。  看板の形は四角柱で、黄色いパトランプのような回転灯が天面に置かれている。看板そのものは動いていない。  回転灯が、客を呼ぶために黄色い光を闇の中に投げかけている。しかしその努力も虚しく、近くにある和菓子屋には客の気配が全くなかった。 (…ここにするか)  ちょうど小腹も空いている。権造は、神として最初に入る店をこの和菓子屋に決めた。  中に入ろうと自動ドアの前に立つ。そういう仕様なのか老朽化のせいなのか、開くタイミングが思っていたよりも少しだけ遅い。 (おっとと)  ぶつかりかけて権造は足を止める。自動ドアが開き切るまで待ってから、店の中に入った。  店内には甘い匂いが漂っている。和菓子はどうやら工場から運ばれてくるのではなく、奥で作られているようだ。 (おや)  ショーケースの前に立つまでもなく、中に並んだ和菓子が見える。空きスペースがやけに広いことから、種類が少ないのはすぐにわかった。  近づいてみると、種類だけでなく数も少ない。 (なんじゃこれは…寂しいのう)  みたらし団子が5本、豆大福とおはぎが5個ずつ並んでいるだけである。  しかも権造が入店してしばらく時間がたったというのに、店の者が出てこない。 (なにをやっておるんじゃ…?)  ショーケースを見るためにかがめていた体を戻し、そのまま少し背伸びして奥を見ようとする。  そこまで時間がたってようやく、ぱたぱたと走る音が聞こえてきた。 「お、お待たせしてすいません……」  出てきたのは中年の女性だった。清潔感はあるものの、表情に陰がある。  彼女はショーケースの向こう側に立つとどうにか笑顔を作り、店員としての責務を果たすべく声をかけてきた。 「いらっしゃいませ…どのような和菓子をお探しですか…?」  か細い声に乗ったその言葉を聞いて、権造は困惑する。 (どのような、と言われても…)  迷うほどの種類がないのに、探すも何もない。  ショーケースに再び目をやると、やはり空きスペースばかりが目立っている。最大の商品はこの空きスペースなのではないかと、権造は冗談ではなく一瞬本気で思った。 (この空きっぷり、昔はたくさんの和菓子があったんじゃろうが……)  客が減り、それにより注文されることのなくなった和菓子が、ショーケースから消えていったのだろう。女性店員の言葉は、その頃の名残だと考えれば納得がいく。  しかし何より、店員がすぐ出てこなかった時点で権造は帰りたくなっていた。 (この店の神になると決めたから我慢しとるが…そうでなければわしゃもう帰っとったぞ)  しかも出てきたのが陰気さを絵に描いたような者、というのが帰りたさに拍車をかける。店の事情だとか納得がいくだとかは、神である権造の心に余裕があるからこそ考えていられることだった。 (ともあれ、ここで帰っとってはわしの神様デビューも始まらん)  権造は気を取り直すと、まずは店のおすすめを訊いてみることにした。 「わしゃあ初めて来たんじゃが、おすすめはあるかの?」 「初めてのご来店ですか、ありがとうございます」  女性店員は丁寧に頭を下げた。  その所作に、権造はそこはかとない華やかさを感じる。 (ほう…? ただの陰気な店員だとばかり思っちょったが、何か…踊りでも習っとるかのような身のこなしじゃな)  そう思っていると、店員が頭を上げて商品の説明を始めた。 「お手軽に楽しんでいただけるのはみたらし団子ですね。豆大福はこしあんで、お豆のほわっとした食感と味わい深さをご堪能いただけるかと思います。つぶあん派の方は、職人自慢のおはぎをおすすめいたします」  出てきた時の陰気さはどこへやら、店員の説明はまるで恋の歌のように軽やかだった。あまりの変わり様と麗しい語り口に、権造は思わず口を開けて呆然としてしまう 「……」 「…あの…?」 「はっ」  彼は店員に問いかけられてやっと我に返った。気恥ずかしさに頭をかく。 「いやすまんすまん。店員さんの感じが、出てきた時とはあまりに違うもんでの。ちょっとびっくりしてしもうた」 「あ…すいません。お客様におすすめさせていただけるなんて、久しぶりだったものですから…」  店員は、まるで十代の乙女がそうするように頬を上気させた。  対照的に権造は冷静になる。 (やはり客が少ないのか…)  客に勧めるのが久しぶりということは、そういうことだった。  だが店員の説明を思い返すと、なぜ客が少ないのかわからない。あの説明に対する彼の評価は、それほどまでに高かった。 (あの瞬間だけなら、ここが一流の店じゃと言われてもすんなり信じておったろうな…まあ、それはそれとして)  説明までさせて買わないのはよくない。そう考えた権造は、ショーケースに目をやる。  手軽に楽しめるというみたらし団子を注文することにした。 「団子を2本もらえるかの」 「ありがとうございます…!」  店員は心底嬉しそうに頭を下げた。  その姿を見て、権造はコンビニの店員を思い出す。 (同じ店員でもえらい違い…いや比べること自体、失礼じゃな)  脳裏からコンビニ店員を消しつつ代金を払い、団子を受け取った。  その後、権造が店を出ようとすると、店員がショーケースの向こう側から見送りに出てきた。 「どうぞまたお越しください」  華やかな所作で深々と頭を下げる彼女の姿を見て、権造はなんだかくすぐったさを覚える。 「心配せんでもまた来るぞい」  照れ隠しにそんな言葉を口にして、家路につくのだった。  家に到着すると中に入り、ドアを閉める。  その音を聞いた瞬間、彼は大事なことを思い出した。 (あ…そういえば、神様らしいこと何もしとらんな)  歌手の西 日出男が言った『お客様は神様です!』という言葉。  その心意気を自分なりに受け継いだ権造は、客という神になった。  神になって最初に入った店があの和菓子屋だったのだが、権造がやったことといえばみたらし団子を2本買っただけである。客の行動としてはもちろん問題ないが、神の行為として適切だったかといえば疑問が残る。 (…まあ、ええか。新しい店を開拓できただけでもめっけもんじゃ)  権造はあまり深く考えないようにした。  買った団子を楽しむため、茶の用意をする。テーブルに、団子が入ったプラスチック容器と急須、湯呑みを置いた。 「さて、どんなもんかのう?」  容器を開き、団子を取り出す。  見た目は普通のものとさほど変わらない。強いて言えば、かかっているあんの色が少し濃いように見えた。  権造は、甘さが強いかもしれないと思いつつ口を開く。  3つ連なっている団子のひとつ目を、ぱくりと食べた。 「んっ…!?」  団子が歯に当たった瞬間、快感が口から脳天へ突き抜ける。  直後、少し甘みの強いあんが権造の舌をとろけさせた。 (なっ、なんという…!? なんじゃこれは!)  残った団子を思わず見る。そうしながらも噛む口は止まらない。 (食感も甘さも絶妙ではないか! 噛みたい、しかし噛めばなくなってしまう。タレの甘さと茶を合わせて楽しみたい、しかし飲めばこの妙なる甘さが消えてしまう…この悩ましさは……!)  権造はカッと目を見開く。 (恋じゃ!)  脳裏にその言葉が浮かぶと同時に、和菓子屋の店員が思い出された。彼女がまるで恋の歌を歌うかのように説明していた理由を、権造は身をもって知ることとなった。 (そうじゃ、恋じゃ! この団子は……団子だというのに……この老いぼれに恋を思い出させよった! なんたるうまさ、なんたる鮮烈! このような団子が、あんな寂れた商店街にあろうとは……!)  それから彼は夢中でみたらし団子を食べた。買う時は2本でも多いかと思うほどだったが、気づいた時には団子が全て消えていた。彼は2本しか買わなかったことを後悔した。  しかし後悔で味わいの余韻を汚すことはしない。静かに茶を飲み、残り香を飲み下す。それからゆっくりと立ち上がり、玄関へ向き直った。 「こうしちゃおれん! この感動を伝えねば!」  その身に帯びていた静けさをかなぐり捨て、権造は家を出た。急いであの和菓子屋へと向かう。  もはや歩いてなどいられない。転ぶ直前まで足を速めて走った。当然ながら息が乱れるものの、そんなことはもはやどうでもよかった。 「はあ、はあ…!」  ここ最近の彼は、一度帰宅するとそれ以降外に出ることがなかった。  用事を終えて家に帰ってきたということは、外にはもう用事がないということである。あったとしても外出は翌日でいい、そう思うのが常だった。  しかし今。彼は自らそのパターンを破った上、走っている。  還暦をとっくに過ぎた権造にとって、この変化は驚異的ともいえた。しかし本人は衝動に突き動かされているせいで、そのことには気づけない。 「ぜえっ、ぜえ……」  何度か立ち止まることを繰り返しながら、権造はどうにか店に戻ってきた。  息は乱れ、真っ直ぐ立つこともできない。上体を前傾させて両手をひざに置き、必死に呼吸をした。  息が少しばかり落ち着くと、彼はふらつきながら自動ドアに近づく。 「…ふう、はあ…」  ドアは遅れて開くため、中に入るまでに立ち止まりと三度の呼吸を挟むことができた。この時ばかりは、開くタイミングの遅さがありがたかった。  権造の騒々しい足音が周囲に響いていたのか、先ほどよりも早く女性店員がやってくる。 「まあ」  彼女は思わず声をあげると、ふらふらになって戻ってきた客に向かって不思議そうに尋ねた。 「お、お客様…?」 「はあ、はあ…しょ、職人を」 「えっ?」 「職人を…呼んでくれ。はあ、はあっ」 「は、はい……」  店員の顔が真っ青になる。ただ事ではないと判断した彼女は、すぐさま職人を呼びに行った。  やがて権造の息が整う頃、店員は職人を連れて戻ってくる。 「お、お待たせいたしました…」 「どうも……」  店員がひとりなら、職人もひとり。どちらも表情は暗かった。  立ち位置の近さからしてふたりは夫婦のようだが、今の権造にとってそれは重要ではない。 「んふん!」  咳払いをすることで、話し始めることを店の者たちに告げる。これに、店員と職人は緊張の面持ちでかしこまった。  権造は職人に顔を向けると、一声鋭く言い放つ。 「わしは感服した!」 「…え?」  クレームをつけられるものと思い込んでいたのか、職人はきょとんとした顔で権造を見る。  そんな彼に、権造は弾む声でこう続けた。 「みたらし団子を食わせてもろうたが、ひと口食うただけでわしは…こういうことを言うのは恥ずかしいんじゃが、恋を思い出した! そこの店員さんが、とても楽しげに和菓子をおすすめしてくれたことも一緒に思い出した!」 「……?」  職人と店員は不思議そうに顔を見合わせる。  彼らの戸惑いをよそに、権造はさらに朗々とした声で語った。 「まず団子の歯ざわり! 噛むほどに心地よくなってのう…そこに少ーしだけ甘みの強いタレが加わる。これが絶妙でな…茶と合わせれば春風のようなさわやかさに満たされるんじゃが、食べ続ければ当然なくなってしまう」 「は、はあ…」 「噛みたいのに噛むのが惜しい、飲み込みたいのに飲み込むのが惜しい。このえも言われぬもどかしさ、まさに恋じゃ! 恋なんじゃ!」  そう叫んだ後で、権造はショーケースの中にあるみたらし団子を指差す。 「これはただのみたらし団子ではない! 言うなれば…そう、『恋団子』じゃ!」  勝手に名前をつけると、顔を上げて職人を見据えた。 「お主、とてつもない修行を経て職人になったとみえる…わしにとって、その腕は国宝級じゃ!」 「……!」  職人の顔に赤みが差す。権造の熱い称賛が、戸惑いしかなかった彼の心に火をつけた。  それを見て取った権造は次に、女性店員へ声をかける。 「そして店員さん!」 「は、はい!?」  まさか自分が呼ばれるとは思わず、店員はびくりと体を震わせる。  権造は大幅に声を絞り、彼女に優しく尋ねた。 「わしに頭を下げてくれた時の物腰、とても華やかで思わずみとれるほどじゃった。何か習い事でもしとったのかの?」 「え…む、昔、踊りをちょっと…」 「やはりそうか…!」  さもありなんと権造はうなずく。この後、彼の声は再び力強さを取り戻した。 「その所作とおすすめしてくれた時の声、実にいいもんじゃった! それをもっと活かすべきじゃ! いくらでも客が来ることじゃろう!」 「え、えっと…あの…?」 「しかし、まずは客がここに来てくれんことにはどうしようもない! そこでじゃ!」  権造は、何を思ったのか財布から1万円札を取り出した。 「わしが買って配る! 団子を1万円分、用意しとくれい!」 「ええっ!?」  突然の申し出に、職人と店員は仰天した。  だがふたりそろって驚いている時間は短い。権造の言葉で心に火がついていた職人が、いち早く立ち直って右手をぐっと握ってみせたのだ。 「わかりました! 少々お待ち下さい!」 「えっ? ちょっとあなた?」  事態を飲み込めない女性店員が目を白黒させる。職人は彼女に向き直ると、真剣な眼差しで見つめながらこう言った。 「やるしかない…今が一世一代の大勝負だ! 頼む、手伝ってくれ!」 「…はい!」  まるで職人が告白し、店員がそれを受け入れたかのような雰囲気である。ふたりは頬をほんのり紅潮させながら、急いで奥へ向かった。  その後、とんでもない数のみたらし団子が完成する。  ショーケースに並んでいた分も含めて、80本近くを権造が買い上げることになった。 「も、持てますか?」 「大丈夫じゃ、何も心配いらん!」  権造は得意げに言うと、両手に団子入りの紙袋を持って店を出た。 (心配いらんとは言ったものの…さてどうするか)  どこへ行き、どう配るのが一番効果的なのか。紙袋が重いためにのっそりと歩き出しながらそれを考える。  この時、どこからか子どもたちの元気な声が聞こえてきた。 (……! もしかしたらうまくいくかもしれん!)  権造は希望に燃えつつ、声のする方へ向かう。すぐに公園が見えてきた。  そこは寂れた商店街のそばにある割には広い。子どもたちだけでなく、赤ん坊をつれた母親も何人かいた。 (よし…!)  確信を得た権造は、まず公園の入口にある自販機で茶を買う。それから公園内を見渡し、子どもたちが見える位置にベンチを見つけるとそこに座った。  紙袋から団子を取り出し、じっと見つめる。 (他の団子では2本が限界じゃが、この団子ならあと何本かはいける…もってくれよ、わしの腹!)  権造は腹を決めると、これみよがしに団子を食べ始めた。 「うまいのう、うまい…!」  笑顔と言葉で美味を表現する。その姿を見て、ひとりの子どもが指をくわえながら近づいてきた。 「……」  物欲しそうにじっと見つめてくる。視線に気づいた権造は、子どもに声をかけた。 「なんじゃ、団子がほしいのか?」 「……」  子どもは声を出さず、ただうなずいた。それを見て権造は子どもを手招きする。 「よしよし、団子をやろう」 「…!」  子どもの顔がぱあっと輝いた。権造の隣に座ると団子を受け取り、嬉しそうに頬張る。 「! おいしい…!」 「そうじゃろ。この団子はな、わしのお気に入りなんじゃ」 「これ、どこのコンビニでうってるの?」 「コンビニでは売っておらん。そこの商店街にある和菓子屋で売っておるんじゃよ」 「へえ…!」  子どもは和菓子屋に興味を持ったようだった。さらに勧めるべきか権造が迷っていると、他の子どもたちもやってくる。 「わー、いいなー」 「だんごー!」 「お前たちも食うか?」 「いいのー!?」  権造の誘いに、子どもたちは歓声をあげた。何本か入ったパックを渡すと、彼らは1本ずつ分けて食べ始める。 「うわー! うんめえ!」 「こんなおいしいのたべたことない!」 「うま…うまぁ……!」  子どもたちは団子のうまさに舌鼓を打った。権造には少し甘みが強く感じられるタレも、子どもたちにはちょうどいい。甘すぎるという不満は出なかった。  だがそこへ唐突に、不審の声が投げつけられる。 「あの…何をやっているんですか?」  声の主は、赤ん坊を抱いた母親だった。  背後には他の母親たちもいる。その表情は一様に険しかった。彼女たちにとって権造は、突然公園に現れて子どもたちに食べ物を配る、怪しさ極まりない老人だった。  しかし、今の権造はただの老人でも怪しい老人でもない。 「おお、これはいいところに来たのう。お前さん方もどうじゃ、恋を思い出せる『恋団子』じゃぞぃ」 「え…恋?」  まさか老人の口から恋などという言葉が出てくるとは思わない。母親はきょとんとしてしまう。  そこへ和菓子屋の客であり神である権造が、心を込めて語りかけた。 「そう、恋じゃ…この老いぼれが恋を思い出してしまうほど、この団子はうまい。よかったら食べるがええ。変なものは入っておらん」 「でも…」 「育児や家事でいつも疲れておるんじゃろ? たまには息抜きしたらどうじゃ」  権造は笑顔で団子入りのパックを差し出す。母親は彼の優しい言葉と迷いのなさを突っぱねることができず、思わずそれを受け取ってしまった。  これを見て他の母親たちがどよめく。権造はこの機会を逃さなかった。 「さあ、お前さん方も食べとくれ。この通りいくらでもあるからの、他の友だちも呼ぶがええ」 「ええ…!?」 「い、いいんですか?」 「もちろんじゃ。この団子は、そこの商店街にある和菓子屋で売っておる。このうまさをどんどこ広めてやっとくれ」  こうして、権造が勝手に恋団子と名づけたみたらし団子は、子どもや母親を中心に配られていった。人が人を呼び、配り始めて2時間もたたないうちに80本近くの団子は全てなくなった。  それから数分後。  陰気な和菓子屋に転機が、多くの足音とともに訪れる。 「和菓子屋ってここよね?」 「ここしか開いてないし、間違いない!」  団子のうまさを知った人々が、大挙して店にやってきたのだ。 「お団子ください!」 「おじいさんが配ってたお団子ってまだある!?」 「恋団子っていうのちょうだーい!」 「い、いらっしゃいま…えええ!?」  突如として店を埋め尽くした客に、店員は度肝を抜かれた。  どうにか気を取り直して団子を売るのだが、わずかに補充しておいた分だけでは到底足りない。豆大福もおはぎもあっという間に売り切れてしまった。 「す、すいません、今日はもう売り切れで」 「だったら予約する! 恋団子の予約!」 「えっ予約? 少々お待ち下さい、えっと…予約だなんて久しぶりで、ノートどこにやったかしら…あ、あった」 「恋団子20本!」 「こっちは50本!」 「100本よ! あんなにおいしいんだもの、絶対ブームが来るわ!」 「あ、ありがとうございます。順番に承りますのでどうかお待ち下さい……」  何が起きているのかさえわからないまま、店員は客に請われるままノートに予約内容を書き込んでいく。  職人はあっけにとられた表情でその様子を見つめながら、小さな声でこうつぶやくのだった。 「き、奇跡だ…あのお客さんが、奇跡を起こしたんだ……!」  和菓子屋は大繁盛店となり、ひっきりなしに客が来るようになった。売り上げは史上最高を毎日更新し、右肩上がりどころか上がる角度が急すぎて、途中からグラフが描けなくなるほどに伸びた。  職人と店員はその利益を使って自動ドアを修理し、店先の照明を明るいものへと変えた。暗いシャッター通りにはっきりと浮かび上がる和菓子屋の姿は、もはや消えるばかりと思われていた商店街全体に希望を与えた。  やがて和菓子屋は、地元テレビ局の取材を受けることになる。その中で、職人と店員は商品の紹介よりもまず、ひとりの客について涙ながらに語るのだった。 「本当に夢みたいなお話なんですけど…私たち、あるお客様に助けていただいたんです。『恋団子』という名前も、そのお客様がつけてくださって」 「それだけじゃないんですよ! そのお客さん、恋団子を1万円分も買ってくれた上に、たくさんの人に配ってくれたんです。私たちのことも褒めてくれて…ううっ、がんばってきてよかった……!」 「このままじゃつぶれてしまうところだったんですけど、あのお客様のおかげで今はこんなに幸せです。あの方は私たちにとって神様ですよ!」  権造はその様子をテレビで見ていた。これ以上ない結果に笑顔でうなずく。 「うむ、ようやく神様らしいことができた気がするのう…しかしあの団子、本当にうまかったな」  また食べたい気持ちはある。しかし、店に行こうとは思わない。  行けば店の者たちに気をつかわせてしまう。それは権造の本意ではなかった。  2軒目は隣町の喫茶店にした。  ここも和菓子屋と同じく客がいない。ただ最初は、それでもいい気がした。 (チェーン店ならともかく、個人でやっとる喫茶店じゃからのう…店主によって目指す形はさまざまじゃ。客がたくさん来ればいいというものではない)  にも関わらず2軒目にこの喫茶店を選んだのには、こんな理由がある。 「奥さんが病気?」 「ええ…毎日店を開けたいんですが、なかなか」  老店主は、妻が病気のため店を毎日開けることができないのだ、と語った。  昔は常連客で満席になることも多かったが、今ではそのほとんどが店を離れてしまったのだという。 「でも仕方ないんです。どうしても突発的な休みが多くなってしまうので…」 「そうじゃったか……このコーヒーがあまりにうまいもんじゃから、毎日でも飲みたいなどと軽い気持ちで言ってしもうた。申し訳ない」 「いえいえ! そのお気持ちは本当に嬉しいですし、今までがんばってきたことを認めていただけた嬉しさで若返る思いです。ありがとうございます」  老店主は権造に優しく微笑む。その後で、店の壁に顔を向けた。 「もしかしたら…」  笑顔に寂しさが混ざり込む。 「そう言っていただけた今が、潮時なのかもしれません」 「潮時、とは?」 「ちょうどいい時期、という意味ですね。私にとっては引き……」  老店主が言いかけたところで、店の電話が鳴った。  彼は権造に「すいません」と一言断ってから、ピンク色のずんぐりとした電話に向かって歩いていく。 「……」  権造は老店主の背中を見つめながら、途切れた言葉の続きを思った。 (『引き……』、つまり引き際というわけか。おそらくずっと考えておったのじゃろうなあ…)  この店にとって、権造は今日初めて訪れた一見客に過ぎない。そんな彼に妻の病気と店のことを話したのは、老店主が今まで何度も店を閉めようと考えていたからなのだろう。 (もったいない)  権造の視線が沈む。 (もうやりきった、もうたくさんじゃと思って店を閉めるのなら、もちろんそれは店主の勝手じゃ。奥さんも気に病むことなくそれを受け入れられることじゃろう。しかし…明らかにそうではない)  老店主には店を毎日開けたい気持ちがある。  その一方で妻は、自分が夫の邪魔をしていると悩んでいるかもしれない。  もしこのまま店を閉めてしまえば、この夫婦はどうなってしまうのか。 (店主にとってこの店は生きがいのひとつじゃろう。最大の生きがいは奥さんじゃろうが…しかしその奥さんは『自分が店を閉めさせてしまった』と、思い詰めることになるのではないか?)  権造の中に、老店主夫婦が手をつないで人生の袋小路に向かっていく光景が浮かんだ。  先には何もない。戻ろうとしても、様々な事情に道をふさがれてそれもできない。生きがいを手放して元老店主になった夫と、自らを責め続ける妻のふたりは、死ぬまでそこに留め置かれることになる。 (むぅ……)  権造の眉間に深いシワが刻まれた。 (正直…少し前のわしであれば、それもひとつの選択と考えたじゃろう。何もせずこのまま帰っておったろうし、テレビを見とる間にここでのことなどきれいさっぱり忘れておったはず…じゃが)  今の権造はただの老人ではない。 (わしはお客様であり神様じゃ)  訪れた店の主が望まぬ閉店など、させるわけにはいかなかった。  何かいい方法はないかと考える。コーヒーのおかげか頭の中は晴れ渡る空のようにすっきりと冴えており、これが思索を大いに助けた。 (…ふむ、これじゃ!)  ひとつのアイデアが、権造の中でひらめく。  ちょうどその時、老店主が電話を終えてこちらにやってきた。 「すいませんお客さん、ちょっと妻の体調がよくないようで…看板にしたいんですが」 「おお、それは大変じゃ。すぐに帰ってあげるとええ」  権造は残っていたコーヒーを飲み干す。  彼がレジ前に立つと、老店主は申し訳なさそうに頭を下げた。 「本当にすいません…」 「いやいや、気にせんでええぞぃ」  権造は笑顔で言いながら支払いをすませる。それから出入口のドアへ向き直った。  だがそこで動きが止まる。後は帰るだけなのに、なぜか歩き出そうとしない。 「……?」  老店主が不思議に思っていると、独り言の割にはやけに大きな権造の声が聞こえてきた。 「毎日開けるのがキツいなら、毎日開けなければええんじゃ」 「…え?」  唐突な言葉に、老店主の目が点になる。  直後、権造は素早く彼の方へ振り返り、たたみかけるように続けた。 「いっそのこと完全不定休にしてしまっての、その代わり休みの理由を紙に書いて表に貼り出すんじゃ。そこに奥さんとの会話やその時感じたことを添えれば、道行く人たちの目につくことじゃろう」 「…あ、あの…?」 「店を開けられる日は、その日だけの特別メニューを出せばええ。どんな内容にするか、奥さんと一緒に考えるのもアリじゃ。それも紙に書いておけば、あんたも奥さんもお客さんも…通行人でしかなかった未来のお客さんも、わくわくできる」 「わくわく……!」  老店主はハッとした表情でつぶやく。  そこへ、権造は実感のこもった声でこう言った。 「わしもこの歳じゃ、いろんなことをあきらめてきた。じゃがあんたにはまだ、あきらめたくないと思えることがある。今までがんばってきたんじゃ、店を続けたいとわがままを言ったところでバチは当たるまい」 「お客さん…!」 「ではな。コーヒー、ほんとにうまかったぞぃ」  権造は老店主に背を向け、右手を軽く挙げて店を出ていった。  彼が鳴らした古いドアベルの音は、決意を促す鐘の音となる。老店主はその瞳に、星のような輝きを宿らせるのだった。  それからしばらくして、この喫茶店はネットで話題になった。シャッターの前に貼られた知らせの紙を、誰かがSNSの海に放流したのである。 ”奥さん病気なんだ、大変そう” ”あれ? でもこの字とか絵かわいい!” ”特別メニューも気になるね!”  文面は老店主が案を出し、妻がデザインを担当した。かわいらしい字体や絵が評判となり、また開店時に出される予定という特別メニューが興味をそそった。  やがて店の住所も知られるところとなり、知らせの紙を見るために多くの人々が訪れるようになった。 「…あの…これ、一体何の集まりなんですか?」  開いてもいない店の前に集う人々を不思議に思い、通行人が声をかける。事情を知ると店のファンになり、談笑の輪に加わるようになった。喫茶店はただの店ではなく、見知らぬ人同士が交流する場にもなっていった。  シャッターを下ろしていても人が集まるのだから、開店すれば満席になるのは当然である。個人経営でしかも古い喫茶店だというのに、長い行列ができた。 「お待たせして申し訳ありません…」  老店主は客たちに頭を下げる。その時、客のうち数名が名乗りを上げた。 「私、喫茶店で働いてたことあるんで、手伝います!」 「あたしも!」 「僕も、手伝います!」 「え、そ…そんな。お客様にそんなことをさせるわけには」  老店主は遠慮しようとするが、彼女たちの意志は固い。 「私、ここの張り紙見てすっごく癒やされたんです。少しだけでもお手伝いさせてもらえませんか?」 「あたしも癒やされた! 奥さんとすっごいラブラブなのが伝わってきて、つらかったのがみーんななくなっちゃったんだよね!」 「どうか気にしないでください。僕たちみんな、このお店のファンなんですよ!」  若者のひとりが言うと、並んでいる客たち全員が笑顔でうなずいた。それを見た老店主は涙ぐみ、何度も頭を下げるのだった。  名乗りを上げた者たちの中には、そのまま店員になる者もいた。経験があることに加え熱心な彼らは、老店主の技をみるみるうちに自分のものとし、店を任せられるほどにまで成長した。  この結果、老店主は妻と一緒にいる時間を増やすことができるようになった。時期を同じくして妻の体調が快方へと向かい、喫茶店の営業日も少しずつ増やせるようになった。 「……本当にあのお客様には頭が上がりません。もう閉めてしまおうかと悩んでいた時にふらりと現れて、こうすればみんながわくわくできると教えてくださったのです。私たち夫婦にとって、まるで神様のような方ですよ…!」  火付け役がネットだったということもあり、喫茶店はネットメディアに中心に取り上げられた。老店主が涙ながらに語る言葉は見る者たちの心を揺り動かし、また優しく癒やすのだった。  しかし立役者である権造は、喫茶店がいい形で持ち直したことを知らない。ネットに疎い彼がネットメディアそのものを知らなかったというのも大きな理由だが、それだけではなかった。 (あれからどうなったか気になるが……そっとしておくか。わしが行くと店主に気をつかわせるかもしれんからのぅ)  つまり和菓子屋の時と同じ理由で、権造は喫茶店に行かなかった。しかも今回は、店をちゃんと救えたという達成感さえも受け取らなかった。彼は見返りを求めるどころか、自分にその資格があるとさえ思わなかった。  それからしばらくして、権造は自宅周辺にある店をあらかた救い終える。  この頃になると、街の人から声をかけられるようになった。 「おはようございます」 「おお、おはよう。その靴ええのぅ、よう似合っておるよ」 「あ、ありがとうございますっ」  権造は挨拶を返すだけでなく、瞬時に相手を褒めた。どこの誰なのか知らずとも、声をかけられればにこやかに応対した。 「おじいさん、お元気そうで何よりです」 「ありがとう。そういうお前さんはちょっと元気がなさそうじゃの。よかったらわしに話してみんか?」 「話を聞いていただけるんですか、ありがとうございます…!」  散歩のはずが青空相談室になり、予定していた時間より何倍も長くなる。それでも権造は嫌な顔ひとつせずに話を聞いた。 「…大丈夫じゃ、お前さんは何も間違っておらん」 「ありがとうございます……! そう言っていただけて、本当に…うぅ」  相談者は声を震わせながら涙を流す。それは話を聞いてもらえたこと、共感してもらえたことに対する感謝が生み出す涙だった。  つらい胸の内を打ち明けることも感謝の涙を流すことも、相手への信頼があってこそである。もし、気弱な上に一度帰宅すれば二度と家から出ないほど消極的な老人が相談相手だったなら、相談者は同じことをしただろうか? 「今は泣きたいだけ泣くがええ。ちゃんとそばにおるでの」  客という神になる前と後で、ほとんど別人といっていいほどに権造は変わった。数々の店と人々を救い続けてきたことで心が強くなり、ある種の風格さえも漂わせるようになった。  しかしそんな権造でも、まだ救えていない店が自宅周辺に1軒だけ存在する。 (…久しぶりじゃ…)  それは、タバコを買うためによく訪れていたあのコンビニだった。  若い男性店員に凄まれ、悔しい思いをした記憶が蘇る。遠い昔のように感じるが、実際にはまだ1年もたっていない。 (しばらく来んうちに、大変なことになっとるな)  店の前にはゴミが散乱し、駐車スペースには鳥のフンが落ちている。誰も掃除をしていないようだ。  以前と同じ店員が在籍しているのかはわからないが、店員全体の質が下がっているのは間違いない。権造は険しい顔で、敷地の外から店を見つめた。 (今までずっと避けてきた……いや、最近は避けとることさえも忘れとった。神がそんなことではいかん。思い出した以上は行かねばの…!)  避け続けたコンビニに入る決意を、ついに固める。彼はまず、駐車スペースに足を踏み入れようとした。  ここで、ひざが小さく震えていることに気づく。 (…むう)  この店に対して、そしてあの若い店員に対して、体が恐怖を感じているのだ。 (確かにあやつは恐ろしい。できれば会いたくないが…)  権造は自身の太ももに両手を添える。  直後、カッと目を見開いた。 (行くしかないんじゃ! しっかりせえ!)  痛みが走るほどに太ももを強く叩く。活を入れられたことで、ひざから震えが消えた。 (よし)  権造は姿勢を真っ直ぐに戻す。颯爽とした足取りで、店に向かって歩いていった。  自動ドアの前に立つと、やけに耳障りな音を立てながらゆっくりと開く。溝にゴミが溜まっているせいでスムーズに動かないようだ。  権造は少しだけ半身になり、自動ドアの透明部分をすり抜けるように中へ入る。すると聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「いらっしゃ…ぁあ?」  あの若い店員の声だった。挨拶を途中でやめたのは、権造を見ていら立ちをあらわにしたからである。 「ジジイかよ……!」  彼は吐き捨てるように言いながら眉を釣り上げた。横柄に見られても知ったことではないのか、腕組みをしてみせる。  権造はその態度に臆することなく、レジへ一直線に向かった。  店員の前に立つと、いきなり一喝する。 「客に対してなんじゃその態度は!」 「んだと?」 「お客様は神様じゃぞ! 腕組みなんぞしとらんでもっと愛想よくせんか!」 「クソジジイが…!」  店員は怒りに顔を歪める。  腕組みを解くが、それは神の言うことを聞いたからではない。  目の前にいる老人の胸ぐらをつかみ、自分へと引き寄せるためだった。 「うおっ!?」  思わぬ行動に権造は声をあげる。  そこへ、店員が額をぶつける勢いで顔を近づけてきた。文字通り目の前にいる権造へ怒りの言葉を放つ。 「愛想よくしろだと? お前らみてーな生きる価値のないクソどもに、なんでオレが!」 「な、なんじゃと?」 「店のゴミ箱に家のゴミを捨てる、店の中で使えっつってんのにカートを外に持ち出す、ちょっと待たせただけで嫌味を言う・怒鳴る、フンの掃除もしねえクセに鳥に餌付けする…! 全部お前らジジババの仕業なんだよ、クソ以外のなんだってんだ!」  店員の目の中で、憎しみの炎が燃え盛る。 「確かにお前らは今までがんばってきたかもしれねえ。だが、がんばってんのはみんな同じだろうが! なんでお前らだけ好き勝手に迷惑かけてんだ? なんでクソなことして平気でいられんだよ!」 「……!」  権造は目を見開く。驚くと同時に理解した。 (こやつ…単にわしひとりを嫌っておるのではなかったのか……!)  その理解が彼の気炎を消す。これによりひとつの可能性も消えた。  炎と炎が合わされば、より大きな炎になる。店員は憎しみの炎を燃やしていたが、権造もこの店を救うために気炎という名の炎を心に宿していた。ふたつの炎が合わさることで炎上し、ふたりともがただ感情的にぶつかり合う可能性があったのだが、権造が冷静になったことでそれは消えた。  さらに、彼はあることに気づく。 (誰かから話を聞いて怒っている、という感じではない。ひどい仕打ちをされてきたというのはこやつ自身の経験か!)  店員は、思いやりを忘れた冷酷な老人たちに、ずいぶんと煮え湯を飲まされてきたようだ。その悔しさが怒りへ変わり、彼に直接悪いことをしていない権造を含めた全ての老人に対し、憎しみを抱くに至ってしまった。  怨嗟の叫びはさらに激しさを増す。 「老い先みじけェってんならさっさと死ね! お前らが死なねーとオレらが苦しむんだよ! つまりお前らは生きてるだけで害、だから今すぐ全員死ね! 死ねねえってんならオレが殺してやったっていいんだぜ!」  激烈を極めた怒号が店内に響き渡った。  しかし、それを間近で聞く権造が恐怖に震えることはない。 「……」  権造はゆっくりとまぶたを閉じた。  まぶたの裏に、今まで救ってきた数々の店が浮かぶ。そこには人知れず努力を続けてきた者たちがいた。権造は彼らとふれあって良さを引き出し、笑顔の花を咲かせてきた。  しかしその中にこのコンビニはない。  今、自分の胸ぐらをつかんでいる店員もいない。 (わしは神でありながらこの店を避けた。最初に救おうとせんかった…)  閉じた時と同じ速度でまぶたを開けた。 (神になったばかりのわしでは、こやつにかなわんと思ったからじゃ。わしはこやつが恐ろしゅうて逃げた) 「……お前らは絶対に譲ろうとしねえ! 他の人が困ってたって知らんふりなクセに、自分が困ると狂ったように騒ぎやがる! いや狂ったようにじゃねえ、もう狂ってやがるんだッ!」  店員は今も憎悪の言葉を叫んでいる。  しかし、ある思いを抱いた権造の耳には届かない。 (わしが臆病でなければ…こやつがここまで荒れることはなかったのかもしれん)  権造は責任を感じていた。  この店員が怖くて逃げた自分を、臆病だと責めた。同時に、今目の前にいる店員とこれまで救ってきた店の者たちとを、同じ目線で見るようにした。 (こやつも努力をしておった。優しい人であろうとしたんじゃ。しかしひどい仕打ちを受けるばかりで、誰からもいたわってもらえず感謝もされんかった。歪むのも無理はない…)  店員が放つ言葉の激しさと声の大きさは、今まで彼がどれほど苦しんできたのかを表していた。怨嗟は悲嘆の裏返しであった。 (今までつらかったことじゃろう…待たせてすまんかったな)  権造の目に、決意でも威厳でもない何かが宿る。  それは慈悲だった。 (今こそ、わしの全身全霊をもってお前を救おう!)  店員を見据えると、反論の狼煙を静かに上げた。 「……知っておるか? ひとつの法則がある」 「なに?」  権造が突然言葉を発したことに驚き、店員は思わず訊き返す。直後、応答などすべきではなかったと悔やむが、その時にはもう権造が続きを口にしていた。 「優しくない者が、どういった者に対してひどいことをするのか…それには法則があるんじゃ」 「…なに言ってんだクソジジイ」  言葉通り意味がわからないのか、店員の勢いが少しだけ弱まる。彼は老人を憎んでいるはずだが、強引に話を終わらせたりはしなかった。  それを感じて権造は少しだけ口元を緩めるものの、言及はしない。彼は自身が語った法則について、その詳細を明らかにした。 「仕返しをしてきそうにない者に対して、ひどいことをする。これは決まっておることなんじゃ。『コイツは自分より弱いから仕返しなんかしてこない』…そう判断した者に対してのみ、冷酷な仕打ちをしてくる」 「だから何だってんだよ」 「今のお前は、老人たちと同じじゃ」 「……えっ」  店員がわずかに戸惑いを見せる。  この時を逃さず、権造は強く言い放った。 「お前は同じことをしておる! お前を苦しめてきた老人たちと、全く同じことをな!」 「………!?」 「お前はわしが仕返しをせんと、いやできんと見た! だからこそタバコをなかなか売らんなどという意地悪をしてきたんじゃ! わしが強かったり有名な者であったなら、同じことはできんかったはず!」 「そ、そんなこと…!」 「今もそうじゃ! わしが強そうであったなら、あのような恨み言を口にしたか?」 「…くっ…!」 「わしがお前に何をした? 何もしておらん! 何もしておらんのに、お前はわしにだけ憎しみを叩きつけてきた! お前が嫌いな老人たちと一体どこが違うというんじゃ!」 「て、てめぇ! ジジイの分際で…!」  店員が凄んでみせる。しかしその表情には余裕がなく、声には芯が通っていない。およそ迫力といったものを感じられなかった。 (いける…!)  権造は確信する。店員は明らかにうろたえており、憎悪という感情そのものが大きく揺らいでいるのが見て取れた。 (あと少しじゃ! あと少しでお前を救える……!)  店員の歪みにとどめを刺すべく、権造は口を開きかける。  この時、自動ドアが開く耳障りな音が聞こえた。権造と店員が同時にそちらを向くと、開きかけのドアをすり抜けるようにして誰かが店内に入ってくる。 「おー? なんだおい。そのジジイ、シメんのか?」  楽しげな口調で店員に言ったのは、派手な服とおびただしい数のアクセサリーで自身を飾り立てた男だった。  口調からして、どうやら店員の仲間らしい。 「……!」  仲間の姿を見たことで、店員が気力を取り戻してしまった。 「言わせておけば調子に乗りやがって! このクソジジイがァッ!」  心に生まれた迷いを吹き飛ばすかのように、権造を力任せに突き飛ばす。憎き老人を仲間とふたりがかりで叩きのめすため、カウンターから出ようとしたその時だった。 「うぐっ!?」  権造の後頭部が背後の棚にぶつかる。直後、その体は糸が切れた操り人形のように、床へと倒れてしまった。 「えっ?」 「あ!」  店員と仲間がほぼ同時に声をあげる。  権造には、その声がいつまでも反響して聞こえた。 (これは…一体)  どういうことなのか。  心で言い終わる前に、彼は意識を失った。  権造はベッドの上で目を覚ました。  違和感を覚えて頭に手を当ててみると、包帯が巻かれている。 「わしは…」  天井を見つめながらつぶやこうとした時、視界に看護師が入ってきた。 「佐伯さん、気がつかれました? 頭痛くないですか?」 「うむ…?」  言われて意識すると、軽い痛みを感じる。  だがなぜ痛いのかがわからない。 「わしゃ一体どうしたんじゃ?」 「コンビニで倒れたんですよ。棚と床で頭を打って、意識をなくされたんです」 「コンビニ…あ」  その言葉を口にしてようやく、権造は店員とのやりとりを思い出した。  だが最後どうなったのかがわからない。倒れた瞬間の記憶が消えてしまっているようだ。 (わしは、あやつを救えたんじゃろうか…?)  権造は何よりそれを知りたかった。だが近くに店員がいないため、直接訊くことはできない。  答えを期待できないと知りつつ、看護師に尋ねるしかなかった。 「コンビニの店員について何か知らんか? 反省しとるとか、そういう話を聞いておらんか?」 「さあ、ちょっと私にはわかりません。じゃ、先生呼んできますね」  やはり看護師は何も知らない。事務的というには少しばかり優しい口調で返答すると、病室を出ていった。  しばらくすると医師が現れ、頭部打撲と脳しんとうによって意識を失ったことを教えられた。出血はほとんどなかったが、年齢が年齢である上に部位が部位なので、しばらく様子を見なければならないらしい。 「様子を見るというのは…」 「入院ですね。でもそんなにはかからないと思うんで大丈夫ですよ」 「そうですか…じゃあ、よろしくお願いします」  こうして権造の入院が決まった。  慣れない病院生活には戸惑いも多かったが、看護師や看護助手たちが身の回りをサポートしてくれたおかげで大きな不便はなかった。 (ありがたいのぅ。客が神なら、この人らは天使…白衣の天使とはよく言ったもんじゃ)  権造は心で感謝するだけでなく、それを言葉にして彼女たちに直接伝えていく。 「看護師さんは元気いっぱいで、見てるとこっちも元気になれるのぅ。つらい時もあるじゃろうに、大したもんじゃ」 「えぇー? 佐伯さん、そんなに褒めても何も出ませんよ。でも、ありがとうございます」 「何か目的があって褒めとるわけではないぞぃ。わしがここに来る前からずっと、お前さん方は『患者の前では笑顔でいよう』と努力を重ねてきたんじゃろう。だからこそわしは安心していられる。本当にありがたいことじゃ」 「……! そんなふうに言ってくださるなんて…ありがとうございます…!」  最初は流すように聞いていた看護師の声が震える。権造の言葉は、決して楽ではない仕事の中でどうにか自分を律して生きてきた彼女たちの心を、優しく癒やした。  感謝は看護師たちだけでなく、看護助手たちにも向けられる。ある時、仕事は丁寧だが動きが遅いと怒られてばかりの看護助手を見つけた彼は、こんな言葉をかけた。 「素人が生意気言ってすまんが、お前さんはそれでいいと思う。早くできんでも丁寧にやってくれとる…そのおかげで、わしは一度たりとも嫌な気分になったことがない。快適に過ごすことができるのは、お前さん方のおかげなんじゃな。ありがとう」 「こ、こちらこそ…! ありがとうございます、ありがとうございます……!」  看護助手は感動して涙ぐむ。あまりに何度も頭を下げるので、褒めた権造が申し訳なく思うほどだった。  この病院において権造は客ではなく、入院患者である。つまり神ではない。  しかし彼の言葉は、彼が救おうとした店の者たちと同じくらい病院スタッフたちの琴線に触れた。  この理由について、権造はこんな仮説を立てる。 (ただでさえ病院は激務と聞く。しかも病人を助けることが仕事じゃから、努力して苦しみを癒やしても『それが仕事だ』と片付けられることが多いんじゃろうな)  仮説には自信があった。しかし、だからこそ胸が締めつけられる。 (人を助けるという尊い仕事をしておるんじゃ、もう少し報われてほしいのう……)  微力ではあるかもしれないが、病院スタッフたちの労をねぎらいたい。権造は熱い言葉で彼女たちを励まし続けた。それが功を奏し、病院内の雰囲気は彼が来た時よりもはるかに明るく変わっていった。  その頃になると、権造の周りにも変化が起きる。 「あっ…やはり、こちらでしたか」 「おや、お前さんは……」 「お久しぶりです、あなたに助けていただいた喫茶店の店主です」  帽子を脱いで権造に頭を下げたのは、喫茶店の老店主だった。隣には妻と思しき女性が立っており、夫とほぼ同じタイミングでお辞儀をする。  老店主は頭を上げると、ここにきた経緯を語った。 「若い子たちからあなたの噂を聞きまして、こうして馳せ参じました」 「若い子? わしの噂…? どういうことじゃ?」  権造は目を丸くする。彼は、喫茶店がどう救われていったのかを知らなかった。  それに気づいた老店主がまず店のことを説明する。丸くなっていた権造の目は、みるみるうちに細くなっていった。 「ほう! 若い子というのはもともと客で、そこから店員になってくれた若者であると…にぎやかになったんじゃなあ。奥さんも元気になってよかった」 「おかげさまで、こうしてふたりで出かけられるようになりました。本当にありがとうございます」 「ああ、いやいや。お前さん方がずっとがんばってきたからこそ、いい感じに変わっていけたんじゃ。わしはただ、言いたいことを言っただけじゃからの」  権造は照れくさそうに言う。  その後で、もうひとつの疑問について尋ねてみた。 「で…わしの噂というのは?」 「若い子たちに店を任せていた日のことなんですが、ここの看護師さんたちがたまたまいらっしゃったそうなんです。一生懸命褒めてくれる患者さんがいる、という話をうかがったようで…どこかで聞いたことがあるな? と思った子が私に連絡をくれたんですよ」 「なんと……!?」  権造が救った喫茶店に、  権造の言葉で元気になった看護師たちが行き、  権造の話を聞いて老店主が見舞いにやってきた、ということらしい。 (めぐり合わせと言っていいのかわからんが、不思議なもんじゃ…!)  権造は首をひねる。そこへ、老店主の妻がそっと口を開いた。 「夫から聞いていると思いますが、私は体が弱くて…でもその分、入院している時に必要なものはよくわかるんです。よかったら、お世話をさせてください」  この申し出に老店主も加わる。 「それはいい、ぜひそうさせてください」 「え!? い、いやしかしそんな…」  権造にとっても嬉しい申し出ではある。だが老店主夫妻の時間を、自分の世話で消費させてしまうのは抵抗があった。  しかしその抵抗も、老店主の妻が言ったこの言葉の前に撃沈する。 「お願いします、せめてもの恩返し…させてください」  恩返しと言われては断れない。申し訳なさは消えなかったが、権造は申し出を受け入れることにした。  だが3日もたたないうちに、彼はそれをほんの少しだけ後悔することになる。 「倒れたと聞いて…! 大丈夫ですか!?」  どこで話を聞いたのか、見舞い客が大幅に増えた。和菓子屋の職人と店員、救ってきた他の店の者たち、さらには彼らに付き添う者たちまでもが毎日ひっきりなしに訪れるようになった。  それだけではない。  老店主夫妻にならって、彼らも権造の世話をするようになったのだ。 「ほしいものがあれば何でもおっしゃってください。すぐに用意しますよ!」 「な、なんか…すまんのぅ……」  権造の心が申し訳なさで満たされる。この時、老店主夫妻の申し出を受け入れてしまったことを、ほんの少しだけ後悔した。  しかし彼らが「恩返しさせてください」と口をそろえれば、権造には何も言えなくなる。やがて世話されることに慣れてくると、申し訳なさは少しずつ消えていった。 「みんなありがとう、ありがとうなあ…」  世話されることに慣れても、権造が感謝を忘れることはない。彼がその思いを言葉にしない日はなかった。見舞い客たちはみな笑顔で、それを受け止めるのだった。  彼らのおかげで入院生活はとても楽しいものになった。病院スタッフには頼めない着替えの用意や家の戸締まりなどもやってくれたため、わずかに残っていた不便さだけでなく不安までもがほぼ完全になくなった。面会時間が終わってすぐに寝てしまうほど、権造は時を忘れて人々とふれあった。  だがひとりになった瞬間、いつも同じことを考える。 (あやつ…どうしておるかのう)  それはコンビニの店員についてだった。最初に病院で目覚めた時と同じく、権造はそれだけが気がかりだった。  ある日、彼はトイレの帰りに、付き添いの者がふたり自販機前にいるのを見つけた。 「そーいや今度のガチャ、兼好ちゃんピックアップらしいぜ」 「マジかー、課金しなきゃかな~」  ふたりは若く、店員と同世代に見える。いい機会だと考えた権造は、店員について尋ねてみた。 「少しよいか? わしがコンビニで倒れた時、近くに店員がおったはずなんじゃが…そやつについて何か聞いておらんか?」 「あ、知ってますよ。捕まったらしいです」 「なんと!?」  権造は飛び上がらんばかりに驚いた。  話によると、権造が倒れた後で救急車だけでなくなぜかパトカーも一緒に来たらしい。店員と仲間はこれを見て気が動転したのか、店内で取っ組み合いのケンカをしていた。ふたりは逃げることもできないまま、あえなく御用となった。 「悪いことした報いですよね。ざまーみろって感じ!」 「……」  権造は笑う気になれなかった。  黙り込む彼を不思議に思ったひとりが、きょとんとした顔で尋ねてくる。 「あれ? 嬉しくないんですか?」 「わしはあの店に、客として…客という神として行ったんじゃ。なのに救うことができんかった……」 「…あ……」 「教えてくれてありがとう。それじゃ、わしはこれで……」 「は、はい…」  付き添いの者たちは失言を後悔する。気まずさがその顔にありありと現れた。  権造は彼らに背を向けると、足取り重く歩き出す。 (せっかくわしの見舞いに来てくれたんじゃ…何も考えずに人をバカにするような者にはなってほしゅうない)  付き添いの者たちに神としての悔しさを口にしたのは、何の事情も想像せずに他人を罵ってほしくないからだった。権造が聞きたくないからというよりも、彼らのためにならないと判断してのことだった。 (それにしても、あやつ…捕まってしまうとはの……)  客という神としてコンビニを救えなかったこと。それも確かに悔しかったが、あの店員を救ってやれなかったことが権造は残念でならなかった。 (ともあれ…警察の世話になっておるんなら、わしの出る幕はないか……)  気がかりではあるが、気にしすぎて見舞い客たちを心配させるわけにはいかない。店員、いや元店員のことを考えるのは、ひとりでいる時だけにしようと決めた。  ケガをした頭部は特に異常もなく、権造は退院してもいいと医師から許可をもらった。見舞い客たちは満面の笑みで諸手を挙げ、病院のスタッフたちも彼の快復を心から喜んだ。  そして病院で過ごす最後の夜。  権造は眠れずにいた。 (あやつ…元気にしておるんじゃろうか)  元店員のことが頭から離れない。今も警察にいるのか、それとも何らかの更生プログラムを受けているのか。彼には全くわからなかった。  見舞い客に訊くのも悪いと話題にしなかったため、情報がない。家族ではないので警察に問い合わせるわけにもいかず、ただ思いがぐるぐる回るのに任せるしかなかった。  それでも時間がたつうちに少しずつ、思いの方向性らしきものが定まってくる。 (あの時…あやつは一瞬じゃが、迷いよった)  お前は冷酷な老人たちと同じことをやっている。  権造がそう言った時、元店員は迷いを見せた。  仲間の登場が悪い縁となって権造を突き飛ばすに至ってしまったが、もしあの時誰も来なければ、彼はあのまま反省していたかもしれない。 (あの迷いを、大事にしてもらいたいのぅ……)  できれば会って話したい。  自分が話して更生させてやりたい。  しかし、どこにいるかもわからないのでは会うこともできない。 (せめてもの救いは、迷いの瞬間に立ち会えたこと…なんじゃろうな)  権造はまぶたを閉じる。  それからふと、微笑んだ。 (救い、か…まさかあやつに救われるとは。ふふ…)  微笑みの効果か、眠気がさざなみのように優しく意識をさらう。彼はそれに抗うことなく、眠りについた。  そして翌日。  権造の退院を祝うため、多くの客が訪れた。  彼らはふたりずつ向かい合って立ち、造花を持った両手を挙げる。前にいる相手に向けてその手をカーブさせると、文字通り手製のアーチが出来上がった。 「退院おめでとうございます!」 「おめでとうございまーす!」 「おお、これはすごいのぅ。みんなありがとう!」  祝う人々の言葉と権造の感謝が、病院の入口付近を明るく彩る。  その光景を見て、事情を知らない者たちは何事かと顔を見合わせた。 「なにあれ? 有名人?」 「いや、知らないけど…でも」 「みんないい顔してるね」  権造や客たちの幸せそうな笑顔につられ、彼らも気づいた時には拍手を送っていた。 「ありがとう、ありがとう」  見舞い客や病院のスタッフばかりでなく無関係な者にまで祝福されながら、権造はアーチを抜ける。用意されていたタクシーに乗り込むと、窓に向き直って人々へ手を振った。 (いきなりの入院でどうなることかと思ったが、ずいぶんと皆に助けてもろうた…わしゃ果報者じゃなあ)  全ての人に感謝を伝えたいと、権造はアーチを作っていた人々だけでなくその周囲にも顔を向けて手を振る。  その時、人々にまぎれて若い男がただ立っているのを見つけた。  隣にはスーツを着た保護者らしき女性がいる。女性は周りの雰囲気に呑まれてか戸惑いながらも拍手をしていたが、若い男は何もせずにただじっとこちらを見ていた。  誰もが拍手している中で微動だにしない。どれだけ多くの人がいようと、若い男の存在が埋もれることはなかった。 (あれは!)  権造は手を止め、窓に顔をぶつける勢いで身を寄せる。  すると向こうも気づいたらしく、深々と頭を下げた。その姿に、権造の胸が詰まる。 (来てくれたのか!)  若い男とは、コンビニの元店員だった。誰かから権造のことを聞いたのだろう、退院の送り出しに姿を見せていたのだ。 「く……!」  あまりの感動に権造は全身を震わせる。  そこへ、運転手が声をかけてきた。 「ドア、開けましょうか?」 「!」  権造は思わず振り返り運転手を見た。しかし何も言わず、ゆっくりとした動きで再び窓に顔を向ける。  元店員が頭を下げ続けているのを見て、そっとこう言った。 「いや…いい。出してくれ」 「かしこまりました」  タクシーが動き出す。外の景色が流れ始めた。  頭を下げる元店員の姿も小さくなっていく。権造はそれを目で追い続けた。発進させてもいいと言ったのは他ならぬ彼だが、その瞳には名残惜しさが息づいている。 (わしを祝ってくれる人が大勢おる中で、目立つことを恐れずに頭を下げた。あやつはもう、自分の弱さや悪い仲間に流されたりはせん)  やがて元店員が見えなくなるとまぶたを閉じた。 (思いは届いた……わしがおらんでも、あやつは大丈夫じゃ)  希望が、唯一の気がかりを消した。  それが権造に、運転手の申し出を断らせた。  会って話をしたいという気持ちはある。入院中、ひとりになれば必ず元店員のことを考えていたのだ、ないわけがない。  しかし更生とは自立することでもある。それを決意した若者に、老人があれこれ言うのは野暮だと彼は考えたのだ。 (いや、大丈夫などとは言っとられんな)  権造はまぶたを開ける。その瞳は潤んでいたが、雫は落ちない。 (あやつはがんばると態度で示してみせたんじゃ、わしもぼやぼやしてられん…! これからも神様として、しっかりやっていかねばのう!)  明るい決意とともに前を向いた。過ぎゆく景色も視野に感じてはいるが、彼がそれにとらわれることはもうない。  権造は早速、運転手に明るい声で話しかけた。 「それにしてもこのタクシーは乗り心地がええのう。アクセルやブレーキのかけ方が丁寧なのもそうじゃが、匂いが特に素晴らしい」 「えっ? 匂いですか?」  突然の称賛に運転手が驚く。その反応に構うことなく権造は続けた。 「匂いの調節はなかなかどうして難儀なもんじゃ。強すぎれば気分が悪くなり、全くなければ味気ない。しかも、自分がその匂いの中におるとなれば調節の難易度は跳ね上がる。もっと言えば、病院にはこういう匂いがあまりないもんじゃから、退院する者は敏感になっておる」 「……!」 「お前さんはそこらへんをよくわかっとるんじゃな。送迎の注文を受けた時にわしが病院から乗る客じゃと知って、退院の時間から逆算して芳香剤をしまい込んだんじゃ」 「ま、まさかそのことに気づかれるとは! あなたは一体…?」 「わしか? ふふん、わしはな……」  権造はにんまりと笑ってみせる。  十分に溜めをつくってから、自らこう名乗るのだった。 「神様じゃ!」  その後も権造は、客という神としてたくさんの店や人々を救い続けた。  彼が訪れる店には必ず『利益』がもたらされると、誰もが楽しげに噂したという。    >Fin.
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