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十九歳・秋―裏切りと宴会の夜―
ガヤガヤと賑やかな声に誘われ、不明瞭な意識が晴れていく。
最初に認識したのは、右手に持ったグラスを満たす炭酸ジュース。次は居酒屋の宴会席らしき場所と、目前のテーブルに所狭しと並べられた料理の数々だった。
「は……?」
何が起きた。ここはどこだ。今はいつだ。
教室で目覚めたときのように、混乱しつつ周囲を見回す。だが前回の経験が生きている分、すぐに状況を理解できた。
長テーブルを二卓並べた広い座敷には、見知った面々が酒を片手に歓談している。彼らは大雅の同僚と上司だ。
「兼松、飲んでるか?」
現状把握に意識を費やしていると、上機嫌な上司がビールを片手にやってくる。
咄嗟に笑みを浮かべた大雅は、グラスを軽く持ち上げた。
「すげえ飲んでるっすよ。俺ザルなんで」
「おーおー、その台詞が二十歳になっても言えるかどうか楽しみだな」
「アルハラっすか」
「愛のある可愛がりってやつよ」
気のいい上司はどっかりと隣に腰を下ろし、肩に腕を回してくる。重鎮と若手の橋渡し的存在の彼は、周囲の社員と盛り上がり始めた。
傍らで携帯を開いて日時を確認すると、就職した年の十月だった。小さな工場は社員数が少なく、社長の計らいで度々宴会が開かれる。今は、会に参加した夜のいずれかだろう。
しかしあの女は何故、諒太と全く関係のない宴会の最中に大雅を送りこんだのか。さっぱり意図が理解できず首を傾げると、上司の手が頭に乗った。
「そういや兼松、お前彼女いんのか」
「いないっすけど」
「そうか! おーい、兼松フリーだって!」
薄れていた記憶が息を吹き返し、苦笑した。
このあと、妙な気を回した上司に囃し立てられ、同期入社の女性事務員と二人で帰らされることになる。表向きは「未成年だから」という理由だが、お節介で茶目っ気のある思惑は察していた。
案の定、一時間後には事務員を駅まで送って行くため店を出た。
会社からの近さで重宝されている居酒屋から駅までは徒歩二十分ほどだが、自宅がある住宅街とは微妙に方向が違う。その上、大して事務員とは親しくもなく、代わり映えしない景色の線路沿いを歩くのは酷く退屈だった。
「寒くなってきたね。お昼は暖かいのに」
「まあ。あんた薄着すぎねえ?」
「夕方に帰れると思ってたから。まさか急に宴会が決まるなんて考えてなくて」
日中の気候に合わせて服を選んだらしい彼女は、薄手のカーディガンに防寒を委ねている。袖を伸ばして指先を隠し、バッグを抱く姿が寒々しく、大雅は自分の着ているパーカーを脱いで肩にかけてやった。
「着とけ。ないよりはマシだろ」
「え、っや、でも兼松君が寒いし……」
「平気。ちょっと汗臭いかもしんねえけど」
「そんな、全然……すごく温かい。ありがと」
「おう」
素直に袖を通す様子を見てホッとする。出会った当初の小さくて細い諒太を思い出すから、華奢な女性が寒さに震える様は可哀想で見ていられない。愛らしくか弱い天使に何度上着を献上しただろう。自分の盲目的な献身を思い返すと、今も変わっていなさすぎて笑ってしまう。
薄ぼんやりと過去に思いを馳せていると、駅が見えたころに彼女が歩みを止めた。
「あの……彼女いないって、本当?」
過去の大雅は、ここで「恋人がいる」と先手を打った。醸し出される空気が、何を告げるつもりか語っているからだ。
だが、今は違う。
「……本当だけど」
うなずき返すと、事務員は寒さだけではない赤らみを頬に浮かばせた。
「なら私が彼女になっちゃ、駄目かな」
緊張しきっている彼女は、貸したパーカーの裾を固く握り締めている。いじらしい仕草を眺め、大雅は怪しい女の言葉を理解した。
彼女を作って、どうあっても告白「できない状況」に自分を置いてしまえばいい。期待と勘違いに対抗する理性のリミッターは多いほうがいい。つまりは、そういうことだ。
「はは……っ、なるほどな」
「兼松君……?」
込み上げるままに大雅は笑う。何も楽しくはないが、下劣な自分の思考回路が救えなさすぎて、笑うことしかできなかった。
彼女には今から、とても不誠実なことをする。好きになれやしないのにうなずいて、諒太を守るための足枷になってもらうのだ。
「ありがとな」
――いいよ、よろしく。
そう告げようとしたときだった。
「大ちゃん」
いつもは穏やかで聞き心地のいい低音が、鋭く夜の空気を震わせる。
不貞行為を暴かれたような焦りで肩が跳ね、大雅は勢いよく声のしたほうへ顔を向けた。
「なん……諒太……?」
駅を背にしている諒太は、スウェット姿で手にコンビニ袋を提げている。嬉しそうに近づいてくる足音は、駆け出す大雅の鼓動と同じ速度だった。
「偶然だね。こんなとこで会うなんて」
「ああ……ビックリした。何してんだよ」
「肉まん求めてさ迷ってたんだ。大ちゃんの分も買ったから、帰りながら一緒に食べよ」
にこやかに袋を軽く持ち上げた諒太は、視線を大雅の隣へ流す。
「こんばんは。ええと、君は?」
「あ……と、同僚、です」
「そっか。なんか話してた? ごめんね……邪魔しちゃったかな」
含みのある言い方が恥ずかしかったのか、彼女は胸の前で慌てたように手を振る。
「べ、別にそんな……! あの、もう駅も近いし一人で大丈夫です、それじゃあ……」
「え。いや待てって」
「さっきのは……忘れてください、おやすみなさい」
走り去る同僚を、大雅は呆然と見送る。内心は彼女を利用せずにすんだ安堵と、チャンスを逃した落胆で雑然としていた。
すると諒太は静かに隣へ並び、背を丸めて申し訳なさそうに大雅の顔を覗きこむ。
「大ちゃん怒ってる?」
「いや……怒ってねえよ。つーかお前なんなの。昔から俺が告られてると遭遇するよな」
「あ、やっぱり告白されてたんだ。わかるなあ、こんな肌寒い日に上着貸してもらったら、いけると思っちゃうよね。付き合うの?」
「今回も返事する前に行っちまったわ」
大雅自身も学生時代は告白の呼び出しを受けたことがあるものの、まともに返事をした例がない。
大雅へ想いを寄せる女子たちは控えめな性格の子ばかりで、百発百中の遭遇率を誇る間の悪い諒太に驚いて去っていくし、後日返事をしようにも、余程恥ずかしいのか口を揃えて「忘れて」と言うからだ。
学校内という狭いフィールドならまだしも、夜の線路沿いで出くわすなんて笑うしかない。
「お前、わざと邪魔してんじゃねえの」
「そうだよって言ったら今度こそ怒る?」
「は……?」
くだらない冗談で終わるはずの話題が躓いた。現実味のなさを馬鹿にしたいのに、あながち冗談に聞こえず言葉が続かない。
すると諒太は微笑み、上着を失って夜風で冷えた大雅の首筋を撫でた。
「冗談だよ? でも、軽い気持ちでうなずいちゃ駄目。誰も幸せになれないから」
姑息な手段として彼女を利用しようとした心の中を、細部に至るまで見透かされているような気がした。
明滅する外灯の不安定な明かりに照らされた男の目は、表情と不釣合いで一切笑っていない。その視線はゾクリとするほど冷ややかで、ふざける余地もなく痛烈に大雅へ注がれていた。
「好きな人としか付き合っちゃ駄目。ね?」
可愛らしく小首を傾げるくせに、まるで脅しだ。諒太のことならなんでもわかると思っていた大雅は、己の過信を思い知る。今この瞬間、可愛い幼馴染の考えていることがわからない。
これまで彼の手を引ける優越感に浸り、守っている気になっていた自分が情けなかった。
「言われ……なくても、わかってるっての」
気圧されて首を縦に動かすと、嬉しそうな男が大雅の左手を取って歩き出す。
「ふふ。じゃあ帰ろっか、大ちゃん」
「おう……」
つないだ手にコンビニ袋を持ち変えた諒太は、肉まんを取り出して包装を剥がし、大雅の口元へ差し出す。大きな一口でかぶりつくと、二口目を諒太が幸せそうに頬張った。
「ぬるいけど、大ちゃんと食べると美味しい」
「そんなわけあるか」
「本当だよ。はい、あーん」
機嫌よく近づけられた肉まんへ、再び大口を開けて食いつく。口内が生地と具でいっぱいになった大雅を見て、諒太は「それじゃしゃべれないね」と笑ったが、それでよかった。
下手に自由を許されてしまったら、今にも「ならお前が付き合えよ」と言ってしまいそうだったから。
それから数日が経っても占い師は現れず、大雅は十九歳の自分として過ごしていた。
アパートで怠惰な日曜を消化していると、安っぽいチャイム音がうたた寝していた大雅を起こす。
「大兄、開ーけーてー」
「愛希奈?」
玄関前で喚く声に呼ばれるまま、扉の鍵を開けてやる。すると愛らしいピンクの唇を尖らせた愛希奈が、兄にそっくりのムッツリ顔でズカズカと部屋へ入ってきた。
「どうしたんだよ。日曜はデートとバイトじゃねえの」
勝手知ったる様子でベッド横に座りこんだ愛希奈は、自分の隣を無言で叩く。従って腰を下ろすと、似合わないしわを眉間に刻んだ妹分が大雅を見上げた。
「聞いてっ。彼氏がさ、他に女作ってた!」
「シメてくるわ」
「待って! 大兄のそれは洒落になんない!」
すく、と上げた腰に抱きついて止める愛希奈は焦っている。やる気満々だった大雅はまず彼女の話を聞くため、仕方なく拳を収めた。
「いつでも言えよ。俺は常に臨戦態勢だから」
「目つきに元ヤン感出ちゃってるよ……だけどいいの、もうグーで殴ってから蹴ってきたし。話だけ聞いてほしくて」
「よくやった。なんか美味いの出してやる」
頭を撫で回してやると、愛希奈は嬉しそうに目を細める。そしてスナック菓子を摘まみながら、鬱憤を吐き出すようにことの顛末を大雅へ話して聞かせた。
「はあ……スッキリした。友だちがバイトでさ、捌け口なかったんだ。聞いてくれてありがと」
「たまには頼ってくんねえと寂しいだろ」
「最終兵器大兄ってくらい頼ってるよ。あ、お礼に……」
愛希奈は床へ放ったままだったバッグを引き寄せ、膝に乗せた。たったそれだけの動作中、金具に取りつけられた多量のキーホルダーや小さなテディベアが賑やかな音を立てる。見たところかなり重そうだ。
「ちょっと間引いたほうがよくねえか」
「ヤダ。全部お気に入りだから全部つけたいの。……と、あった。諒兄と行っておいでよ、ペアチケットだから」
面前へ、地元ではデートスポットとして有名な遊園地のチケットが差し出される。そこはかつて諒太とデートをし、願いが叶う石のストラップを買った場所だった。
「いや……気持ちだけもらっとくわ。男二人で行く場所じゃねえし」
「じゃあ彼女とか」
「馬鹿、お前がいい男捕まえて行ってこい。俺はいいから」
諒太以外の誰かと行く気にもならず、尤もらしい理由でチケットごと愛希奈の手を押し返す。しかし彼女はニッコリと笑った。
「じゃあ諒兄に渡しておくね。無期限だし」
「は?」
チケットをあっさり引き下げた愛希奈は、バッグを手に立ち上がる。
「そろそろバイトに行かなくちゃ。それじゃあ大兄、ありがと。大好き」
「お、おい愛希奈っ」
呼び止める声は聞こえているはずなのに、台風のような彼女は足を止めない。上機嫌で部屋を出て行く背を見送り、大雅はベッドへもたれて脱力した。
「あの強引さは誰に似たんだ……?」
困り果てて頭を掻くが、すぐに気を取り直す。昔から大雅と諒太はいつも一緒だったが、遊園地や水族館、夜景の望める高台の公園といった所謂デートスポットに二人だけで行ったのは、恋人になってからだ。恋人でない今、いくらペアチケットだからといって諒太が大雅を誘うとは思えなかった。
「さすがにな……ねえだろ」
「どうかなあ」
「!?」
独り言にレスポンスされる衝撃はこれで二度目だ。慣れるにはまだ場数を踏み足りない。
身体を起こした大雅は、テーブルに広げたままのスナック菓子を摘まむ女を見て溜め息を吐いた。
「やっとお出ましかよ……ビビらせんな」
「え、あたしに会いたかったの?」
「進めねえし戻れねえだろうが」
「しれっと受け入れちゃってる辺り順応性高くない? てか、これホント美味しい」
レースマスクの下へ手を忍ばせ、女は菓子をサクサクと食べている。蠢くマスクの間抜けさを眺めていると、粉のついた指先を大雅の服で拭われ、呆れて文句を忘れた。
「はあ……で、これから俺はどうなんの」
「そうだなあ、じゃあ今度は……」
シミひとつない綺麗な手が、おざなりに大雅の膝へ乗った。途端にくらりと頭が揺らぎ、後頭部がベッドへ落ちる。
「早く諦めちゃえばいいのに」
視界が閉ざされる寸前、女は寂しそうな声でそう言った。
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