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二十歳・冬―誕生日のさよなら―
ロウソクを抜いたホールケーキを前に、ナイフを構える兼松大雅は緊張していた。
真っ白の生クリームを飾る苺は、下手な角度で切ればつぶれてしまう。しかしクリームが見えないほど敷き詰められているせいで、ちょうどいい隙が見当たらなかった。
集中するあまり、首裏で結った毛先が肌に触れる感覚すら煩わしい。母に「今も顔だけ不良よね」と言わしめる大雅は、子どもが固まる程度の睨みをケーキへ突き刺し、肩の力を抜いた。
「母さん……やっぱ代わってくんね?」
「駄目よ。ケーキを切る担当は大雅でしょ」
ピシャリと言い切る早智子は、この度も息子の窮地を救う気がない。朝から料理の仕込みやケーキ作りに勤しんでいたことを知っている大雅も、食い下がりはしなかった。
「ったく、いつ決まったんだか」
「あなた最近までヤンキーだったくせに、変なところで肝が小さいのね」
「うるせ、卒業しただろ。苺乗せすぎだっての……つぶれても文句言うなよ」
お決まりの予防線を張ると、母子のやり取りを眺めていた幼馴染、藤野諒太が隣で呟く。
「大丈夫だよ、大ちゃん」
甘党な諒太は、整った容貌を締まりなくニヤつかせている。中学高校時代は天然ものの王子と称されていたが、甘い物を前にすると人工甘味料の奴隷だ。脂肪と糖の集合体をうっとり見つめていた男は、そのまま残念な顔で重責を負う大雅を見上げた。
「おばさんのケーキはつぶれても美味しいよ」
「僕もそう思う。苺たくさんは早智子ちゃんの優しさだよね」
諒太の父、隆史もにこやかに賛同する。
彼ら親子は顔立ちこそあまり似ていないが、醸し出す雰囲気は瓜二つだ。ほのぼの、ふわふわ、悪く言えばちょっと頼りない。大雅は昔から、いつか二人が怪しい宗教団体にでも騙されやしないかとヒヤヒヤしている。
「はいはい、気合い入れますよ、っと……」
溜め息を吐き、渋々ながらケーキにナイフを入れる。案の定、大粒の苺は柔らかな生クリームとスポンジ生地へめりこんだ。
――今日、十二月一日は、諒太の二十歳の誕生日だ。
大雅と諒太は片親家庭同士で近所付き合いを始めて十年になる。誕生日やイベント毎に寄り合い、共に騒ぐのも恒例となっていた。
「切れたぞ。もう次から諒太代わって」
「うん、わかった」
少しの躊躇いもなくうなずく諒太に、早智子がすかさず待ったをかける。
「こら諒ちゃん。言っていいのよ、嫌だって」
「んー、大ちゃんが言うなら俺は別に」
昔から一貫して大雅の言うことに逆らわない諒太は、刷りこみされたヒヨコのようだ。
盲目的な信頼は成人しても不変で、大雅に庇護欲を抱かせる。身体は大雅より大きく育ってしまったが、フォークを片手にケーキを待つ目の輝きは小学生時代から変わらない。
「冗談だから間に受けんなよ」
苦笑する大雅は母にナイフを預け、崩れたケーキの中で一番綺麗な部分を指差した。
「母さん、愛希奈のはこれな」
「そうね。零れた苺も乗せちゃおっか」
早智子はケーキと苺を皿に移してフォークを添え、諒太の妹、愛希奈の席へ置く。傍らには大雅と諒太からのプレゼントである、手の平サイズの白いテディベアが座っていた。
毎年恒例のセットを優しく細めた瞳で見つめ、隆史は穏やかに笑む。
「いつもありがとうね。あとで愛希奈に渡しておくよ」
「あ、そうそう。おじさん、これも」
大雅がポケットから出してテディベアの隣へ置いたのは、妙に気の抜ける顔をした羊のゆるキャラキーホルダーだ。
するとケーキを配っていた早智子が、これみよがしに溜め息を吐く。
「あんた毎回買ってくるけど趣味悪いわよ」
「どこがだよ、めちゃくちゃ癒し系だろ。な、諒太」
「ん、そうだね」
「愛希奈も可愛いって言ってたぞ」
薄い唇を尖らせる大雅の主張には、三者三様の苦笑が返ってくる。とはいえ満足のいく同意を得られた例はないので気にしない。
そんな生温かな空気をお祝いムードへ戻したのは、隆史の菩薩じみた笑顔だった。
「さ、僕たちも食べよう。今日のお待ちかねだ」
朗らかな音頭で、それぞれがケーキにフォークを伸ばし始める。
大雅は生クリームの少ないスポンジ部分を一口食べ、いつものように諒太へ皿を差し出す。甘いものが苦手だという理由もあるが、単純に喜んでケーキを頬張る諒太を見るのが好きだった。
「美味い?」
「ん。大ちゃん苺だけでも食べる?」
「いい、お前好きだろ。いっぱい食っとけ」
「ありがと」
幸せそうに苺で頬をふくらませる諒太を、向かい側に並んで座る二人の親が微笑ましげに眺めている。
だが和やかな空気の中、大雅はケーキにナイフを入れるのと比べものにならない緊張をひた隠したまま珈琲を飲んだ。
やがてほとんどのケーキを諒太が食べ尽くしたころに、意を決して口火を切る。
「ちょっとさ、話があんだけど。いい?」
デザート後にビールで乾杯していた早智子と隆史は、かしこまる大雅へ同時に顔を向ける。
「何よ、そんなに改まって。あ、もしかして職場の先輩殴っちゃった?」
「違えよ、もうちょい息子信じろ。じゃなくて……なんつーか」
くくったつもりだった腹の中で、怯えや躊躇が渦巻いている。力みすぎて軽く痺れた舌先がうまく動かずに、口がまごついた。
そんなときテーブルの下で大雅の拳に触れたのは、左側から伸びてきた諒太の指先だった。
「大ちゃん……」
平均三十六度の体温が甲を滑り、指の股を割って拳を開かせる。緊張で末端から冷えていたのか、大雅は温もりに覆われる心地よさに癒され、手を裏返してつなぎ合わせた。
「心配すんな。大丈夫だから」
気遣わしげな男は、曇りない大雅の強気な笑みを見て安心したのか、道行く人が振り返る王子フェイスを無邪気に綻ばせた。
大雅が、両親の離婚を期に母とこの街へ越してきてから今日まで、小中高と常にそばにいた幼馴染は約一年半前、恋人になった。
告白したのは大雅だが、今夜二人の関係を親に話そうと言い出したのは諒太だ。躊躇いはあったが、父に隠しごとをしたくないのだとうつむく彼の願いを一蹴できるはずがなかった。
そして話す役割は大雅でないといけない。彼に好きだと告げたこの口で、二人の道を切り拓き続けていく義務と責任がある。
拒絶への恐怖は土壇場になっても拭えないが、大雅は漸く自分のものになった幼馴染を、どうにかつなぎ止めておきたかった。
「俺たちが二十歳になったら話そうって決めてたことがあんだ。……実、は……」
つないだ手を互いに強く握りしめる。
そして大雅が心を決めて口を開くより早く、早智子が唐突に手を打った。
「丁度いいわ、母さんたちも話があるの。言いにくいことなら、その間に腹くくりなさい」
「早智子ちゃん、いいの?」
「いいのよ。こういうのは勢いも大事なの」
さっぱりとした性格の早智子は、清々しい面持ちで隆史の肩を叩く。それを幸せそうな笑みで受け止める男の眼差しには、優しさ以上の何かがあった。
喉にざらついた砂が絡まるような気分が込み上げ、言葉が出てこない。
重ねた手を加減なく握りしめるばかりの大雅を見かねて、諒太がおずおずと切り出した。
「ね、話って何?」
嫌な予感ほど、どうしてか的中する。
大雅の唇から発されるはずだった決意と謝罪たちは、音になる資格を失って腹の奥へ逃げこんだ。
「私たち、夫婦になろうと思ってるの」
かき集めた勇気が希望を根こそぎさらい、背をひるがえして散り散りになる。
今この瞬間から始めるはずだった諒太との未来は、幕を開ける前に結末を迎えた。
レンジの高い電子音が耳に飛びこみ、大雅はハッと我に返った。
叩き起こされた朝のように呆けたまま、辺りを見回して胸を撫で下ろす。見慣れた部屋は大雅が一人暮らしをしているアパートだ。
だがさっきまで集っていた諒太の家から、徒歩五分の距離を移動した記憶はない。
「大ちゃん、落ち着いた?」
「あ? おう……」
短い廊下に設置された、キッチンと呼ぶのも恐れ多いそこから、諒太がマグカップを手に部屋へ入ってくる。彼はパイプベッドに背を預ける大雅の隣へ腰を下ろし、何度か息を吹きかけてからカップへ口をつけた。
「う……苦い。大ちゃんにはちょっと熱いかな……飲める?」
「もらう。ありがとな」
小学生時代に諒太が小遣いで買ってくれたマグカップの中は、彼特製のカフェオレで満たされている。砂糖の少ないそれは、大雅が唯一好んで口にする甘味だ。
必ず味見をして温度と苦さを確かめてくれる諒太には、いつも癒される。だが、のほほんとしている場合ではない。
「俺、どうやって帰ってきた?」
ずず、とカフェオレを啜ると、諒太が普段通りの笑顔で膝を抱く。
「えっと……歩いて帰ってきたよ」
従順な彼は大雅に嘘を吐かない。その上、誤魔化し方を知っていても応用できない不器用さは、誠実な人柄そのもので好ましい。
今は恐らく、笑顔の下で大雅へショックを与えない言い回しを必死に探している。健気な様子がいっとう愛しく、音声検索ツールを差し出してやりたい気分になった。
「いいって。大方、俺が変な態度になったから連れて戻ってくれたんだろ」
「うん……」
「ありがとな。あと、ごめん」
しゅんと項垂れた肩を撫で、中身の減ったマグカップをテーブルへ置く。そのまま頭を後ろの布団へ落とし、目を閉じた。
早智子と隆史は、大雅の様子を見てどう思っただろう。再婚を反対していると勘違いさせてしまっただろうか。せめて祝福の一言くらい手向けてから自失できればよかったのにと自己嫌悪で黙りこめば、いつにない饒舌さで諒太が言葉を紡ぎ始めた。
「あー、その……ビックリしたね。父さんとおばさん、付き合ってんの隠すのうますぎ……でも俺たちが出会ってもう十年だし、むしろ再婚話が出るの遅すぎるくらいかも?」
「……だな」
「あのね、すぐにでも婚姻届け出すって。おばさんがうちに越してくるみたい。大ちゃんもこの部屋引き払ってうちにおいでって父さんが言ってた。えっと……なんか不思議だね。俺たち、兄弟になるんだって」
ぼんやりと聞いていた大雅は、込み上げてくる笑みを両手で隠した。人は楽しくなくても笑えるのだと、知りたくはなかった。
「だよなあ……」
「……大ちゃん」
迷子のような諒太の声が、静かなワンルームで途方に暮れている。さっきまで生き生きとしていたのは、ただの虚勢だ。
見た目も中身も優しい王子は、人より少し気が弱い。自己主張が不得意な彼の手を引いて歩くのは、いつだって大雅の役目だった。
だから、こうなったのは諒太の手を離さず連れ回した大雅の責任だ。まだ気持ちの整理はできていないが、ひとつはっきりしている。
早智子と隆史に、本当のことを話す日はもうこない。
「ちゃんと嬉しい……けど、なのに、俺は手離しで喜べねえんだ」
人並みに反抗期もあれば夜遊びと喧嘩にのめりこんだ時期もあったが、それでも惜しみない愛情を注いでくれた母の幸せを願っている。その思いは嘘じゃないのに、祝福より先に諒太との関係を危ぶんだ大雅は、親不孝者だった。
「ただでさえ男同士で、その上、兄弟? ねえよ、世間に背中向けすぎだ。お前に……謝っても謝りきれねえ」
「ま、待って大ちゃん……俺は大丈夫だよ、大ちゃんが内緒にしたいなら、ちゃんと隠せるから、だから……そんな風に自分のこと責めるの、やめよ?」
顔を覆う手を諒太がそっと外す。覗きこんでくる澄んだ瞳は不安げに揺れていた。
今時めずらしいほど素直に父を慕う品行方正な男に、なんという不実な言葉を吐かせてしまったのだろう。口にできない秘密を背負わせ、しなくていい覚悟をさせようとしている。
血飛沫のように噴き出す罪悪感は、これみよがしに大雅を糾弾していた。
「ごめん……ごめんな、諒太」
押しに弱くて寂しがり屋で、誰にでも優しい諒太が昔から心配だった。自分が彼を守るのだと使命感を抱いていた。
その純粋な友愛は成長と共に、驚くほど自然に恋愛感情へ姿を変えた。心臓が動くのと同じくらい、気づけば我が物顔で大雅の中にあったのだ。
だが幼馴染以上の関係を求めたのは、大雅の身勝手でしかない。俺がいればいいだろ、もう俺と付き合えよ、そんな傍若無人極まりない告白に迷いなくうなずいた諒太は、やはり大雅のヒヨコだった。
「あの日、本当はわかってたんだ。ああ言えばお前はうなずくって」
息をのんだ諒太が、遠慮がちに手を伸ばしてくる。恐る恐る大雅の肩に触れた指先は、いつものように頬を撫でてから後頭部を抱き寄せようとした。
「大ちゃん、……大ちゃん」
「諒太」
しかし大雅は肩から頬へと移動しかけた手を掴んで止めた。触れてもらえるのが嬉しくて制止したことがなかったせいか、諒太はビクッと固まる。
「何……?」
「もういいんだ。こういうことさせてるとき、ずっとごめんって思ってた」
「そ、そんなこと」
「けど……嬉しくてさ」
親にカミングアウトしてしまえば、諒太は容易く逃げ出せない。彼の体温と存在に味をしめた大雅は、小賢しい計算の元で今日に臨んだ。
だからきっと、バチが当たったのだろう。
「こんな目に合わせる日がくるって知ってたら、絶対好きだって言わなかったのに」
掴んだ手を解放してやると、諒太はじっと手の平を見下ろす。ポツリと落とされた声は唖然としていた。
「後悔、してるの……?」
「ああ、してる。俺が馬鹿なことしなかったら、お前に無理させることもなかった」
「無理……? 大ちゃんの気持ちは、どうなるの……」
「馬鹿お前、そんな優しいから俺みたいなのにつけこまれんだぞ」
大雅の顔色を窺いながら行うハグもキスも、肌を合わせるだけで身体をつなげようとしないセックスの真意も、見て見ぬ振りをしていたツケがまわってきているのだろう。そばにいるうちに、いつか諒太の感情にも恋が芽生えてくれないかと、卑しさ丸出しで息を潜めていたのだから当然の報いだ。
とうとう一度も彼の声で奏でられる恋人への「好き」を聞けなかった大雅は、嘘の吐けない幼馴染が可愛くて、少し憎らしかった。
「取り返しがつかなくなる前でよかった」
「た、大ちゃん? 変だよ、それじゃあ、その言い方じゃあ、まるで……」
核心を避けたがるように、諒太が言葉を濁す。
大雅は切れ長のつり目を優しく細め、黒く艶のある恋人の頭へ手を置いた。
「ああ、……そういうこった」
言うだけ言って、撫でるだけ撫でて立ち上がる。幕引きも大雅の役目であるのに、どうしても「別れよう」の一言が口にできない。
どうしようもなくなって、逃げるように床へ脱ぎ捨てていたダウンジャケットを羽織る。部屋の鍵と携帯を手に取ると、背後から空虚で寂しそうな声が弱々しく大雅を呼んだ。
「大ちゃん……俺、どうしたらいい?」
約十年かけて形作られた恋愛感情が、この数分で消滅するはずがない。今まで通りでいい。別れるなんて嘘だ。隠し通してでも一緒にいてくれ――告げたい想いは喉元で音になりたがって暴れているのに、どれも大雅には言う資格がない。選び取らざるを得ない別れを、脳以外の、理屈が通じない部分はのた打ち回って拒絶していた。
「お前は……どうしたい?」
いつもなんでも、二人のことは大雅が決めてきたくせに、こんなときに選択を委ねるのは狡い。だが、今だけは彼お得意の「大ちゃんが決めて」が飛び出さないことを願った。
しかし勝手な祈りは、凍りついて砕け散る。
「大ちゃんが決めてほしい……言うこと聞くから……お願い」
大雅は歯を食い縛って、振り向きたがる己の弱さを踏みつけた。
「今までありがとな。俺のが早く生まれたから、兄ちゃんって呼んでもいいぞ」
こんな台詞を告げるくらいなら血反吐を吐くほうがずっと楽なのに、大雅は別れのカードしか持っていなかった。この関係を貫き通したところで諒太は幸せになれない。
自分だけが幸福でいられる選択など、大雅の目には映らなかった。
「合鍵、ポスト入れといてくれ」
諒太からの返事はない。
大雅も口を閉ざしたまま、一人で部屋を出た。
あてもなく夜の住宅街をふらつき、やがて地元のアーケード商店街に辿りつく。
近頃はめっきり通らなくなったが、小学生のころはよく早智子の言いつけで諒太とお使いに行かされた場所だ。寂れていても、昼間の活気ある様子が思い出される。
尽きることのない懐かしい記憶には、必ず諒太がいる。大雅の生活の中心は諒太だったから、他所見もせず一途に育ててきた恋は寄り道の仕方を知らない。
この先、中心から諒太のいなくなった大雅はどうなってしまうのだろう。
不気味なほどの心細さで、幸福の絶頂だった恋人としての一年半を想起する。
すると誰かに話しかけられた気がして足を止めた。顔を上げると、今度ははっきり女の声が耳に届く。
「いいの持ってるね」
コロッケがべらぼうに美味い肉屋の前で、紫のベールで頭をすっぽりと覆った女が椅子に座っている。口と鼻は総レースのマスクで隠され、唯一露出しているのは目元だけだ。この寒い夜にベールと同色のドレスだけを身にまとう姿は、絵に描いたような占い師だった。
「あは、驚いてる?」
彼女は目を細め、怪しげな幾何学模様の布をかけたテーブルに肘をつく。その背後に見える閉まったシャッターとのコントラストは、奇妙以外の何ものでもなかった。
不審な人物に関わるなと口を酸っぱくして藤野親子に言い聞かせている大雅は、瞬時に何も見ていないフリを決めこむ。しかし何喰わぬ顔で歩き始めると、女は慌てた様子もなく大雅を呼び止めた。
「願い、叶えてあげようか」
無意識に立ち止まってしまい、己の正直すぎる反応を呪う。しかし再度無視をする気にもなれず、女を振り返った。
「で? 俺は法外な値段の壺とか数珠を買う羽目になんのか」
「馬鹿ね、ああいうのは金持ちのジジイに売りつけるもんなの。あたしが欲しいのはお金じゃなくて、それ」
非道な台詞を吐いた女は、声を弾ませて指を差してくる。切り揃えられた薄ピンクの爪先は、ジーンズの左ポケット付近を向いていた。
「……財布なら持ってねえぞ」
「違うってば。それ。願いを叶える石」
大雅は思わず眉間にしわを寄せた。
彼女が言ったのは、付き合い始めたばかりのころに諒太と遊園地で買った携帯ストラップのことだ。とはいえポケットの中に仕舞われている今、女から見えるはずがない。
不審な上に、只者じゃない。僅かな戦慄を覚えた大雅は身構え、睨みをきかせた。
「お前、なんなんだ?」
しかし彼女は威嚇をものともしない。指を組み、顎を乗せて支える愛らしい仕草は余裕綽々としていた。
「なんでもいいじゃん。あたしはそれが欲しい。くれるなら願いを叶えてあげる。あなたは叶えたい願いがある。違う?」
「遊園地で量販されてた安いストラップだぞ」
「価値も意味も人それぞれなの。あなたが安いそれを、いつまでも外さないように」
「……」
「自分の感情を後回しにしてでも、守りたいものがあるんじゃないの?」
図星を突かれ閉口した。千円もしないチープなストラップを外さなかったのは、単純に諒太と揃いだからだ。
願いが叶うとは思ってもいないし、祈ってもいない。大切にしていたのは、二人で出かけた日の他愛ない思い出だった。
「……いいよ。お前にやる」
取り出した携帯からストラップを外し、女に近づいて差し出す。透き通った青い石は買った当初よりくすんでいるが、欠けも割れもせず先端で揺らめいた。
「だから、俺の願い叶えてくれよ」
「もちろん。願いごとは何?」
頭巾とマスクの間から大雅を見上げる女は、諒太とよく似たくっきり二重だった。置き去りにしてきた幼馴染を思い、胸が痛む。
諒太を困らせるものから守ってやりたくて必死だった。身を挺してでも彼のヒーローで居続けたかった。幼心に芽生えたその使命感は今も、そしてこの先も変わらない。
だから大雅の願いは、困難な道へ誘ってしまった大雅自身から諒太を守ることだった。
「やり直したい」
「何を? あなたたちを兄弟にしてしまう二人を出会わないように? この街にくるきっかけになった親の離婚を止める? それとも……好きにならないようにする?」
レースマスクの向こうは見えないが、ニヤついているらしい女へ笑いかける。まるでそばで全て見てきたかのような口ぶりには、気味悪さを超えて不思議な魅力を感じた。人智を超えた能力を持っているかもしれない存在を前に、ちっぽけな人間である大雅は期待を抱く。
人生至上最悪の他力本願に縋ってでも、諒太には幸せになってほしかった。
「あいつと、ただの幼馴染として生きたい。あの日の告白を、なかったことにしたい」
女はうなずきもせず、青い石を手の平で受けた。
すると急激に耐えがたい眠気に襲われ、大雅は崩れ落ちるように地面へ膝をつく。
「なん、っ……は……?」
「大丈夫だよ、すぐに……気がつくから」
そして今にも泣き出しそうな女の声へ反応できないまま、目を閉じた。
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