第十話「元カノ、常識ステンノの誘惑」

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第十話「元カノ、常識ステンノの誘惑」

 嵐は過ぎ去り、暗雲が晴れてゆく。  行こう。我が身をもって、名誉を守ろう。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を待っている人がいるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれる人がいるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題では無い。死んでお詫びなどと気のいいことは言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス!  路行く人を押しのけ、跳ね飛ばし、時折、職務質問されながら、メロス黒い風のように走った。合コン帰りの大学生たちのまっただ中を駆け抜け、年若い女子高生を仰天させ、トラックに轢かれそうになった犬を助けながら走った。  ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。だが、見える。はるか向こうに小さく旭西金融のビルがある。ビルは、夕陽を受けてきらきら光っている。 「ああ、メロス様。」うめくような声が、風と共に聞こえた。 「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。 「常識ステンノでございます。貴方のお友達、セリヌンティウスの妻でございます。」  そこまで聞いた途端、メロスは石畳に蹴躓いて盛大に倒れ伏した。動揺も斯くやの有様である。それもそのはず、この常識ステンノ。旧姓、月野ステンノはメロスのかつての恋人で、それもとびきりの食わせ者であった。  転んだメロスに駆け寄ると、甲斐甲斐しくしゃがみ込み。悲しそうに、しかし、どこか心の底では面白がっているかのような、わざとらしさをもってステンノは続けた。 「もう、駄目でございます。無駄でございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」  語尾にわざとらしいハートマークを感じて、メロスは早鐘のようになった心臓を鎮めつつ、顔を伏せる。どうにも昔から妙に気恥ずかしくて、直視するのが苦手なのだ。 「いや、まだ陽は沈まぬ。」 「ちょうど今、老後のために貯蓄していた定期預金を解約してきたところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」 「いや、まだ陽は沈まぬ。その金はまた積み立てるのだ」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。この女は危険である。走り去るより他はない。 「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお身体が大事です。早く病院へ行って治療を受けて下さい。借金はひとまず私が一括で立て替えますから、その後ゆっくり分割で返せばいいではないですか、余計な利子も払わずに済みます」  確かに、私は浮浪者に殴られ怪我をしている。夢中で走っていたものだから気にしていなかったが、君はこんな時でも私のことを気にかけてくれるのか。メロスの心が揺らいだ瞬間をステンノは見逃さない。獲物を見つけた猫のように、爛と瞳を輝かせた。  何を隠そう、メロスを侍詐欺事件やねずみ講詐欺事件に巻き込み、情報商材を売りつけてきたのは他ならぬ元カノ、ステンノである。ステンノはメロスの正義が気に食わない。正しさが、まっすぐさが気に食わない。人がそのように生きられるわけがないのだ。故に彼女は、ありとあらゆる手段をもって、メロスを悪に落とすことを生きがいとしていた。 「ああ、かわいそうなメロス様。誰よりも誠実でまっすぐなのに、こんなに酷い目に遭うなんて、これはきっと某かの陰謀にちがいありません。人生とは世知辛いものです。ああ、メロス様も少しくらい佳い目にあってもよいじゃないかと思いませんか?」  ぐいと迫るステンノから視線を逸らし、メロスは距離を取った。メロスの心臓はどうもなかなか鎮まらない。 「よ、佳い目というと……?」 「悪事です、悪事を働くのです。あの方、セリヌンティウスを裏切って、手に持つ金を握りしめ、どこか遠くで穏やかに暮らすのです。これまで重ねた善行を思えば、たった一度くらい、悪事を成したって罰は当らないとは思いませんか?」  メロスは顔を見ていないが、きっとステンノはにやにやしているのだろう。いや、そういうわけにはと口ごもるとダメ押しがやってきた。 「今ならおろしたての定期預金と一緒に、私もついてきますよ?」  人妻から発せられたその一言は、途方もない破壊力を持っていた。かつての恋人、それも心から好いた女である。メロスの心は一瞬で、打ちのめされた。  ああ、一人では不安だが二人ならきっと乗り切れるのだろう。あらゆる責任を他人に追いやって、竹馬の友を見捨て、幸せになる。その共犯者になってくれるというのだ。  メロスは自分の意志の弱さを悔いた。ああ、自分はこの女が今も好きなのだ。こればかりはどうにもならぬ。人の思いというものは自分自身にも変えることはできない。ああ、しかし、セリヌンティウス。セリヌンティウスよ。私はお前を裏切らぬ。 「ステンノよ」「はい?」  メロスは顔を伏せながら、しかしステンノの両肩をしかと掴んでこう言った。 「私は、信じられているのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題では無いのだ。金も人生も、未来すら、問題ではないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。」 「お前は昔、私がこの生き方を変えるなら。正義に頓着せずに、力の方向をお前が言うままに傾けるなら、どんな願いも叶えてみせると言った。それだけの熱量が私にあると。」 「ならば、より一層に、正しく在りたいと思う。私はそういう男なのだ。わかってくれ。」  今度はステンノが手を振りほどき、目を逸らした。その魂は彼女には眩しすぎた。 「ああ、もう。あなたという人は、ちょろい癖に、なびかないのは変わりませんね。ずっとそうやって走っていればよろしいのでは。」  呆れたような人妻に、呆れたようにメロスが告げる。 「何を言っている。ついて来い、ステンノ」  ――愛と誠の力を見せてやる。  メロスはそう一瞥すると、有無を言わさず走り出した。  常識ステンノは何か言いかけたが、諦めてメロスの後を追った。  彼と彼女はいつだってこうなのだ。 次回最終話「勇者の凱旋」みんな、読んでくれよな!
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