第六話「台風到来。鉄道、運休のお知らせ」

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第六話「台風到来。鉄道、運休のお知らせ」

 富田林メロスが眼を覚ましたのは、昼下がりも過ぎた頃である。メロスは跳ね起き、南無三、嵐か、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの社長に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って、金を渡してやる。  メロスは、悠々と身支度をはじめた。妹が長細い厚手のビニル袋を渡してくる、きっと銀座か、代官山あたりの高級菓子店の包みだろう。なるほど、これで札束を包めば濡れることもない。マスキングテープで密封したこの包装は水底に落ちても耐えるらしい、そんなことにはならないだろうが、用心に越したことはない。これで身支度はできた。  さて、メロスは妹に謝辞を述べると、雨中、傘も差さずに矢の如く走り出た。道中コンビニエンスストアを見かけたが、傘を買う気にはなれない。コンビニエンスストアの傘は高いのだ。早く走ればあまり濡れずに済むはずだ。  私は、今宵、リボ払いを完済する。リボ払いの為に走るのだ。身代わりの友を救う為に走るのだ。社長の奸佞邪知かんねいじゃちを打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私はリボ払いを完済する。借金で借金を返すのだ。若い時から、約束だけは守ってきた。その名誉を守れ。守らねばならぬ。  運動不足の横腹が痛み、幾度か、立ち止まりそうになった。そいや、そいやと大声挙げて自身を叱りながら走った。道行く人が何事かとメロスを見るが、気にしてはいられない。  カードローン会社を出て、ビルを横切り、アーケード街をくぐり抜け、駅に着いた頃には、人もまばらで、不思議とあたりも静かだった。  慣れない運動をしたから暑くなって来た。メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや物事を先送りにする気弱な自分はいない。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに駅に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要もない。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り戻し、好きなアニメソングをいい声で歌い出した。  ぶらぶら歩いて何故か停止しているエスカレーターを上り、閑散とした改札口の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、メロスの足は、はたと、とまった。  見よ、前方の改札を。台風の影響で強い横殴りの風が吹き荒れ、列車が転倒するおそれがある為、ただいま運休中です。とある。運行再開の見通しは立たず、いつになったら列車が動き出すのか、或いは今日はもう動かないのかすらもわからない。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声の限りに叫びたててみたが、乗客は残らず避難して影なく、駅員の姿も見えない。不安はいよいよふくれ上がり、息が苦しくなる。びゅうびゅうと風が巻く轟音が壁を叩く音がした。  メロスは改札前にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。 「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う嵐を! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に下りかけるところでしょう。あれが沈んでしまわぬうちに、旭西金融に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私の借金を負うのです!」  嵐は、メロスの叫びをせせら笑うが如く、ますます激しく躍り狂う。風は風を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。メロスははたと何かの気配を感じた。その神聖な訪れに、震える総身を抱きしめる。 『メロスよ。本当はわかっているのではないか』  それは狂気の前触れか、遂に心が狂ったか。天からゼウスの声がする。 『台風が来れば、列車も止まる。言い訳が立てば、言い逃れができる。これも天運、セリヌンティウスよ。君には悪いが今回ばかりは負けてくれ。とな。』 『お前は列車で電子掲示板を見て、嵐の訪れを知っていた。妹の職場で疲れたと言って、休息を取り、時間を稼いでいた。知らぬふりをして黙っていても、お前の悪は誰もに見える。いずれ皆、お前を見限り捨てるだろう。それすらも、もうわかっているではないか。お前の罪は自らの悪に気づかぬ罪。知りながら、そ知らぬふりをする罪。ただ、無垢に振る舞えばすべてが許されるなど、おこがましいとは思わぬか!』  暗雲巻き込む空に稲光が起きた。轟音の後、神気を纏った強風が、窓のガラスを割り砕く。光り散るガラスの粒を避けもせず、メロスはいきり立って天に反駁した。 「否! 断じて否! 頭の毛から爪の先まで、我が身の全てに偽りはなく、我が胸底に灯る火は、竹馬の友との約束だ!! 我が友情を愚弄するなら、たとえ神でも許しはせぬぞ!!」  今はメロスも覚悟した。一頻ひとしきり天に吠えると、改札口から躍り出て、一心不乱に川へと向かう。こうなれば泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々よ! ご照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。  メロスは、ザンブと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。札束を落としてないか、時たまに確認しながら、満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐憫を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。メロスは懐に未だ在る札束の感触を確かめて、ああ、コンビニエンスストアのATMにでも入金しておけばよかったなと笑った。 次回「富田林メロスと云う男」みんな、読んでくれよな!
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