第九話「無敵の人」

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第九話「無敵の人」

 青いビニールシートで拵えられた小屋の中、欠けた茶碗に注いだ水を、両手で受け取って一くち飲むと、ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。  ふと横を見ると、嵐に巻かれて揺れる小屋が今にも壊れてしまいそうだった。隙間から鉄道が見える、この小屋が壊れてしまっても、あの鉄道に乗る人たちはきっと気にしないだろう。 「住所が無いと生活保護を受けられないというのは本当か。」 「本当でございます。皆、身寄りがないからここに居るのです。」  つまりは誰かに殺されても、訴えるものがいない。  何があっても泣き寝入りする他ないのだ。 「不思議なもので、罪を犯せば刑務所に入れてもらえます。あそこは雨風を凌げますし、明日の食い扶持に困ることもない。今の生活と比べたらどれほどよいか。」  老爺は笑った。悪事を成せば生き残れる。正しく生きれば飢えて死ぬ。と。  メロスは食い入るように老爺を見つめていた。邪悪に人一倍敏感な男に堪えきれるわけもなく。必然、メロスは泣き出した。老爺は困惑し何か涙を拭く布はないかと探すが、どれも土埃で汚れている。メロスはメロスで自分が何故泣いているのかよくわかっていなかった。  ああ、なぜこの世界では正しく生きようとすると馬鹿をみるのだろう。  自分から札束を奪い取った彼らだって別に最初から悪人になろうと志していたわけではないはずだ。やむにやまれぬ事情があり、ここまで落ちぶれてきたに違いない。おそらくは自分が豊かになろうとクレジットカードを作ったのに、いつの間にか借金を返すためにさらなる借金をしているのと同じ理屈である。幸せになろうと足掻けば足掻くほど、多くを失っていくのだ。それにしても、この老爺も老爺である。私のようなものは捨て置いておけばいいものを、わざわざ介抱して、家の中にまで連れてきているのだ。どこの誰ともわからぬ者を……。  私が途方もない悪人で、老爺を殴り川に沈め、金目の物を奪っていったらどうするつもりだったのだ。とんだお人好しである。この老爺は命が惜しくは無いのか。  メロスはおいおい泣きながら、鼻水をすすって紙と何か書くものを……と老爺に言った。老爺が使い古してインクの出が悪くなったボールペンと拾ったチラシ束を渡すと、メロスはみみずののたくったような汚い字で住所と電話番号を書き散らした。 「住所があれば生活保護を受けられるのだろう? ならばこの住所を使うがいい。私が住むボロアパートだ。ここらに住んでいる浮浪の民にも教えてやれ。役所にシェアハウスだと言い張り、社会福祉を得るのだ。」  法的にどうかはわからないが、やってみる価値はあるだろう。ダメなら他の手を考える。そう続けるメロスに、老爺はおろおろして言った。 「そんなことをすれば、あなたは私物を盗まれます、きっと誰かに騙されます」 「既に多くに騙された、これからも騙されるだろう、金は奪われ借金を返すあてもない。もはや守るべき約束もなく、得るべき未来は失われた。」 「事ここに至れば、何ものも私を縛れはしない。もうこうなれば吠え猛る一陣の風となって嵐のように生き、好きに死ぬのだ。さしあたってまずは、やりたいことを成してやろう。まずは、ここに住む者たちに住所を与え社会福祉の恩恵を授ける。健康的で文化的な、最低限度の生活を謳歌してもらうのだ。ああ神々よ、ご照覧あれ。私はやると言ったらやる男だ。」  メロスは拳を握って、風吹き荒れる空を見上げていた。  老爺はメロスを見つめる。人がここまで人を信じていられるわけがない。ここまで追い詰められて、なおも誰かの為にと思えるわけがない。この男はある種、無敵である。事ここに至ればと言うが、そんなことはない。追い詰められたこととは無関係に、この男は生まれた時からずっと無敵だったのではなかろうか。どんな破滅も絶望もメロスを悪に落とすことはできないのではないか。これほどに煌めく魂が本当に存在するのか。阿呆に見えるのが本当に残念だった。  老爺は薄汚いレジ袋の中から100万もの札束を取り出すと、メロスに差し出す。「うちの若いもんが悪いことをした。金は返すよ」妹の包装が中身の無事を教えてくれた。  この時、メロスは混乱の極みにあったが、ひとまず礼を言うと札束を受け取り、外を見た。夕暮れである。だが、まだ日は落ちてはいない。今から走れば間に合うだろう。メロスは今度はぼろぼろ泣いた。大の男がこれ以上泣き顔を晒すのは流石に憚られたのか、小屋から飛び出て振り向いた。雨は既に上がっていた。  不思議なことに小屋の周囲にたくさんの浮浪の民がいる。皆、薄汚れているが、確かに生きていた。メロスは涙を拭いて叫んだ。 「お爺さん、ありがとう! あなたは本当に佳い人だな!」  老爺は小屋から慌てて出ると、負けじと叫んだ。 「何もかんもうまくいかなかったら、ここに来なさい! 生き方くらいは教えましょうや!」  その言葉はまっすぐにメロスの胸をつんざいた。  すべてを失っても、帰るべき場所がある。  その事実のなんと心強いことか。  あまりのことに、声も出ない。  人は、報われなくても、それでも正しく生きようとするのだ。正しく、生きていいのだ。苦境にあっても、人に優しくできるのだ。正直者が報われることも、いつもではないが、たまにはあるのだ。  ああ、今日はなんと素晴らしい日だろう。  メロスは一頻り泣き、感謝を述べると、夕日に向かって走り出した。向かうは竹馬の友との約束の地。旭西金融の応接室である。  メロスはついぞ理解することがなかったが、この老爺はここ一帯の浮浪者を取り仕切る浮浪の王であった。  メロスを叩きのめした浮浪者を諫め、メロスを雨風の凌げる場所へ移すと、メロスが浮浪者に復讐しないよう情に訴えるつもりだった。ただ、うまくいかないなら。復讐に走り、暴力に訴え、仲間を殺そうとするなら、浮浪者総出でメロスをコテンパンにし、金を山分けする算段だった。  傷害の罪を犯しても、生きてはいける。しかし、殺されたらそこで終わりだ。故に罪を犯してでも生存を選ぶのは当然の帰結である。  小屋の周囲に浮浪者がいたのは、メロスが暴れた際に数をもって制圧するためであった。  もっとも、そんな必要はなかったらしい。 「それにしても、気持ちのいい男でしたね」  以前、白洲町でクレジットカードをぶちまけて倒れ伏していた青年がそう言うと、浮浪の王は「ですな」と頷いた。 次回「元カノ、常識ステンノの誘惑」みんな、読んでくれよな!
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