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T-1
薄青い空は、まだ夕闇の欠片もない。歩きながら見上げていて、後ろから急にまたね、と声がかかって、驚いた。クラスメイトが友花を追い越していくのに、手は上がったけれど、返事は出来なかった。
急ぎ足の級友に追い抜かされながら、二回同じことを繰り返した。塾に直接向かう人も多い。友花が目指した先は、自宅近くの緑地公園だ。ここには、ほぼ毎日来ていた。
広い散歩道、アスレチック、小さなミュージアムもある。
小高い山へ向かう遊歩道を辿って、頂上が見えたその後に、茶色の枝がつんと出る。
反対側の斜面は、梅の木が点在する梅園だ。歩道に沿って、梅の木の間を、根元や草むらに、目を凝らしながら、何度も往復する。茶枯れた葉の多くが、地面落ちていた。時折しゃがみこんで手で地面を探る。幾度となく繰り返して、結局収穫なく、引き上げる。これが日課だ。
暗くなってからの探し物は不可能で、日に日に短くなる日照時間に、複雑な思いがよぎった。
冬を待っていた。この一年、ずっと。木枯らしが吹いたと天気予報で聞いたのは昨日で、来るべき日が近づいた証だ。
秋が去る。冬の足音が、聞こえる。
白く光る、空から贈られた六花の花弁。白い空を一層白く。こげ茶の幹をしならせて白の花が積もる。
何もかもが眩しかった、あの景色が、もう一度見られるはずだ。
けれど。
最後に振り返って、りゅう兄、と呼ぶ。答えはなかった。それでも耳を澄ましてじっと立ち尽くしたまま、夕日に染まっていく斜面を見下ろしていて……かしゃん、という音に、振り返った。先には、大きな黒くて丸い物が浮いていた。
いや、浮いていたのではない。影の内にあったのは、カメラのレンズだ。
撮られた、と把握する間に、すみません、とカメラの後ろから人の顔が現れた。
「申し訳ない。思わず……」
謝られても、友花には困惑しかなかった。思わず、なんだと言うのか。
相手は、友花よりも年上の男性だ。大人の年は分からないが、大学生よりは働いている社会人だと感じた。父親よりはずっと若い。
隠し撮りにしては堂々とし過ぎているが、見知らぬ人間への警戒心が逃げろと叫んでいる。
踵を返しかけて、待って、と相手の腕が伸びた。
「ゆうかちゃん、だろ」
「違う!」
厳しい否定が飛び出した。驚いたのは、相手だけではなく、友花も同じだった。
相手が自分を知っていたことよりも、想像以上に怖い声が出たことよりも、その名前を呼ばれたことの方が驚きであり――襲ってきたのは、恐怖だった。
衝動のままに、走り出した。辿った道をローファーで力いっぱい踏みしめて駆けた。
家の玄関をもどかしく開け、扉の音に何事かと顔を出した祖母を無視して部屋に逃げ込んだ。鍵はない。部屋の内側に押し開くドアの前に、重石代わりにしゃがみこんだ。暖房の付いていない木の床は、ひどく冷たかったが、動けなかった。
放心し、真っ白だった頭に、少しずつ思考能力が戻ってくる。落ち着けば、誰も知らない呼び方だとしても、ただの偶然だと、分かる。
波多野友花。漢字だけなら、どちらとも取れるのだから。
こんな時こそ、彼に会いたかった。
りゅう兄、と呼ぶ。
何度呼んでも、大声で叫んでも決して届かないと、身をもって証明してなお、時折名前を呟くことは、やめられなかった。
彼はもう、どこにもいない。
いや、そもそも、この世にいるはずのない存在だった。
年を取らず、触れられず、物音も立てず、聞こえるはずの声も間遠で、姿かたちは風に消えそうだった。透けていないのが不思議なほど。
ゆーか、とかすかに聞こえた声は、けれど幻と同じで。
慰めに伸ばされた手が、涙をぬぐうこともなかった。
それでも、ずっとそばにいたのだ、去年の、クリスマスまでは。
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