潮 壱

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 高校二年に上がる年の三月、俺は久しぶりに日本に帰ってきた。外資系貿易会社に勤める親父の仕事の関係で、ついこの間までオーストラリアに住んでいたのだ。  戻ってくるのは七、八年振り――知り合いといえば、昔同じマンションに住んでいた有田(ありた)健太郎(けんたろう)という一つ下の男くらいだ。  健太郎の母親と俺の母親は親同士がとても仲がいい。日本を離れていた間も度々連絡を取り合っていたようだ。  高校から日本の学校に通うための資格は得ていたが、カリキュラム上途中からの編入はできないらしい。  健太郎と同じ学年になるのも悪くないだろう、むしろその方が安心だと母親は健太郎と同じ学校への入学を進めてきた。  そうして通うことになった日本の学校――正直、上手くやれる気がしていない。もともと社交的な性格ではないのだ。オーストラリアに引っ越した時も周りになじむのに苦労した。  だが、オーストラリアの気風は思いの外俺に合っていたようで、一度溶け込んでしまえばとても居心地が良かった。やっと慣れたというのに――それがまた日本に帰ってくることになって正直辟易している。  入学式の日、俺は桜の散る校内で、どこか浮いたような気分でうろうろしていた。新入生だけでも二百人近くいるのだ、健太郎の姿も見つからない。いいかげん教室にいかないといけないなと掲示板を見に行くと、後ろの方でぴょんぴょんと飛び跳ねている変な女がいた。  人だかりで自分の名前を見つけられずに困っているのだろう。他の奴を押しのけて前に行けばいいのにな――なんて思いながらも、俺はそいつに声をかける。 「おいウサギ、おまえ何て名前、見てやるよ」  小さな体でウサギみたいに飛び跳ねていた女は俺の声に振り返ってきた。大きな瞳が、俺を捕らえる。暗い海のように深い色の瞳──  一瞬、どきりと心臓が鳴った。 「おいウサギ、名前、何ていうんだよ」  思わず愛想のない口調になってしまう。いや、もともと愛想なんて持ってなどいないのだが―― 「ひの なぎさ」  小さな口がゆっくりと言葉を紡ぐ。透明な水のような声だと思った。まっすぐな髪がさらさらと風になびく。思わず触れたくなる髪だ。 「ひの……って日にちの日に、野原の野?」 「そう」  俺は脳内に描いた文字を探す。その名前は俺の名前の上にあった。「日野渚」と書いてある。「なぎさ」っていうのか。彼女によく似合う名だと思った。 「おまえ、二組だよ。俺と一緒、よろしくな」  教えてやると、大きな目を更に大きくして俺を見た。この瞳にじっと見つめられるとなんか照れるな――  俺は日野渚をその場に残して一人講堂へ向かうことにする。歩きながら、行く先は同じなのだから一緒に行っても良かったなと少し後悔した。
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