1 母のため息

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1 母のため息

 ガランガラン、バタン。  ただいまが聞こえてこないのは最近ではいつも通りのこと。ただ、玄関のドアベルはいつもより激しい音を立てていた。  すりガラスの向こうを白い人影が横切る。人影はドタドタと足音を響かせながら二階へ駆け上がっていった。 「友達とクリスマスプレゼントを買いに行くから」と、ふらっと出て行った香織が帰ってきたことに、疑う余地はない。 「おかえりー!」  声が届くように大声を出したのだが、案の定返事はなかった。  香織の態度が素っ気なくなった最初のほうは、学校で何かあったんじゃないかと思った。率直に聞くと「何もない!」と怒られ、それとなく聞くと無視される。この繰り返しで、態度が豹変した理由は本人の口からは聞けないまま。  いじめだったらどうしよう。よく友達と遊びに行くようだから、うちの子は大丈夫だと思っていたけど。  単身赴任中の夫にも相談できず、思い悩んでいたときのことだ。  ある日、PTAの集まりのあとのお茶会で、子供の反抗期が話題になった。おはようやただいまを言わなくなったり、スマホにばっかり夢中になったり。会長のお子さんはちょっと注意しただけでクソババア!と捲し立てるそう。  そうか、うちの子も反抗期なんだ。安心したのも束の間、いつまで反抗的な態度が続くんだろうと不安に巻き付かれた。ただお茶会のその場では、「うちの子もねー」と話題にして同調されると、少しばかり気分が和らいだものだった。  自分も昔はそうだっただろうか。自分にも反抗期があった覚えはあるが、何がきっかけで、何が原因で反抗的な態度を取っていたのか、大人になった今となっては思い出すのは難しい。  陽子は物思いにふけりながら、マシュマロフォンダンを練っていた。溶かしたマシュマロに粉砂糖を加えると、変形自在の粘土のようになる。これに食紅を混ぜれば色とりどりの飾りを作ることができる。陽子はこれでケーキのデコレーションすることにハマっている。 「ねえ、こないだ買ってくれたブーツ、どこ」  声がしたと思ったら、香織がすりガラスのドアの隙間から顔を出していた。 「ブーツってもしかして、雪山用の?」 「そう。明日履いてく」 「明日履いてくって、あれは来月、美波ちゃん家と一緒にスキーに行くときのために買ったものじゃない。明日は由美ちゃん家でクリスマスパーティーでしょう。そのためにお母さん、香織に頼まれてクリスマスケーキ作ってるのよ?」 「そうだけど、明日も履きたいの!」 「ここらへんは雪なんてそうそう降らないでしょ。足だって蒸れるし、雪が降ってない日にあのブーツは浮くと思うけど」 「うるさい! とにかく明日履いてくの! ブーツの場所分かんないから、明日の朝までに準備しといてよね」 「うるさいってねえあんた、それが親にモノを頼む態度なの……」 「ちょっとなにそれ!」  急に怒鳴ったと思えば、香織はドアを開けて勢いよく近づいてきた。真っ赤なニットにチェックのスカート。白いポンポンのヘアゴムでツインテールをこしらえた可愛らしい格好が台無しになるほど、物凄い剣幕である。 「なんでこんなかわいいデコレーションなの!? 明日は男子も来るのに!」 「え、明日男の子もいるなんて、お母さん聞いてないわよ」  確かに、リボンやハートを基調としたピンクのケーキは、男の子が見ると少し引くかもしれない。 「こんなんじゃ恥ずかしくて持ってけないじゃん」 「香織がちゃんと言わなかったのがダメなんでしょ? どんなデザインがいいか、お母さんちゃんと聞いたわよね。そしたら適当でいいって」 「だいたい、香織たちもう五年生なんだよ? こんな可愛すぎるの、誰も喜ばないって」 「だから、あんたがちゃんとリクエストしなかったのが悪いんでしょう」 「もう……とにかく作り直して!」  ぷいと背を向け、香織は床を踏み鳴らしながらリビングを後にする。  陽子はため息をついた。あと少しで完成だったホールケーキ。クリスマスパーティーにお母さん手作りのケーキを持って行きたいって言われたときは、久しぶりに頼ってくれたと思って嬉しかった。張り切って作ったのに。  二階の大きな足音に顔を向ける。  でも、やっぱりなんだかいつもより様子がおかしい。今日ばかりは、何かあったのかしら。
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