むかしの男

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 試合終了後、入ったメッセージには近くのホテルのラウンジが指定されていた。  楓が入り口で名乗ると、フロアの端、一番目立たないゆったりとしたソファ席に案内された。さすがにシティホテルのラウンジは落ち着いた雰囲気で、有名人が居たところで騒がれることもなく、大袈裟すぎず、なるほど彼等の場合は面会には丁度良いのだろう合点がいった。  いいお値段だがさすがに美味いコーヒーをすすっていると、周囲の空気が微かに波打ったのが解る。はっと振り返ると、満面の笑顔が見えた。 「ほんとすんません、お待たせしちゃって」  大きな身体を揺すって現れた柳澤に、こちらも軽く会釈する。 「いえ、こちらこそ… お疲れでは?」 「や、明日はオレ、休みなんで。ぜんぜん平気です!」  先発投手なら翌日は休養日で、まあその通りなのだが。しかし疲れを見せるどころか、柳澤の声は妙に弾んでいる。そんなに自分との面会が楽しみだったとは思えないので、楓が内心、小首を傾げていると、 「たしかお酒好きだって聞いたんで、バーの方がいいかなって思ったんですけど、ここ、パンケーキが旨いんですよ」 「…はあ」  なんとなく頷いた楓だが、そこではたと気付く。思わずいつもの調子で応えていた。 「食え。遠慮しないでいいから」 「はい!!」  学生のような返事に、出会った頃の彼を思い出して、楓はやはり苦笑するしかなかったのだった。 「いただきます!」  ぱん、と両手を合わせて挨拶するあたりは彼と同じで、あの高校の寮生活が垣間見えた気がした。  運ばれてきたチョコバナナのパンケーキはやたら甘そうで、楓は見ているだけで満腹になったが、それに嬉しそうにナイフを入れる左腕を窺えば、何も言えることはなかった。これはあれだな、大型犬だな、と思ったりする。 「投げた日はとにかく腹が減るんですけど、脂肪が多いからいつもはダメだッて。月一くらいなんですよ、食べられるの」  生クリームをひとくちほおばると、ぱたぱたと尻尾を振るような笑顔になった左腕はそう言う。近頃のスポーツ選手は普段の食生活も厳密に管理する。カロリーは必要だが、彼や同僚たちも高タンパク低脂質を徹底していることを思い起こし、楓はなるほどと頷くと同時に、この場所のセレクトはむしろこれが理由かと思い直したりする。  などと考える間に、パンケーキは一枚減っていた。 「でもあいつ、アホみたいに食べるけど、甘いものはそんなあれですよね」  あいつ、ね。と楓は脳内で反芻するが、「そうですね」とだけ応えてコーヒーをひと口。もちろん共通の話題といえば彼のことなので、その気安さに改めて溜息を呑み込んだ。 「オレね、高校の頃の好物、から揚げとシュークリームだったんですけど」  それは楓も知っている。うっかり「今は違うんですか?」と言いかけて、さすがに止めた。 「三年の夏大の初戦が決まってから国体終わるまで、シュークリーム、食べるの止めてたんですよ。願掛けってわけじゃないけど、まあ、いちおう」  ふふっと微笑む左腕は、高校生のままにあどけなく、楓は黙ったまま彼の声に耳を傾けた。 「そしたら国体終わった後、あいつがいっこ奢ってくれるって言ったんです。よく我慢したなって、褒めてくれて」  …これは、ひょっとしてのろけ話か? と思ったが勿論、そんな訳はなく、たぶんわざわざ昔の話をしているのだ、楓が知らないエピソードがないように。またも気を遣われていると気付いて、楓はそっと息を吸い込む。 「ま、近所のケーキ屋のですけどね。俺たち当時は有名人だったから、顔出したらなんか捕まっちゃって」  いやいまも十分、有名人なのでは? とまたも突っ込みたくなったが、水を差すのは気を引けた。この話を持ち出すには、左腕にもなにか意図があるのだろうし。 「一緒にトオルもいたせいで、皆の分もお祝いだから持ってって、とかおばちゃん言うし。チーム全員って60人くらい居ますからね? あいつは自分は食べないからって遠慮するし、トオルは単純に喜ぶし。皆いっぱい食べないととか、いやそんなわけには、一個だけでって押し問答して」  その様子も容易に想像がついた。 「でも断れなくて、結局、シュークリームとエクレア、チーム全員の分、もらっちゃって。さすがにタダはマズイっしょって、コーチが出してくれたんですよね。ご祝儀価格で半額ぐらいでしたけど。あいつにはおごりそびれたとか言われました。や、でもね、借りとかじゃないですよ? あいつ、うちの実家に来たとき、おじゃましまーすの次くらいに冷蔵庫、開けてましたからね?! ちょっと待てって」  はあ、と気の抜けた相槌を打った楓だが、なんだかおかしくなって笑ってしまった。それから出会った頃の彼の所行を思い出す。遠慮とか常識とか、いろいろ欠けていたのだ、彼は。思わず楓もひと言、 「ああ、うちも冷蔵庫は開けられましたね、フツーに」 「ええっ、止めろって言ったのに!」  なんかすんません、となぜか謝る柳澤に、なるほどやはり『身内』という扱いが正しいのだと、コーヒーに口を付けながら楓は内心、肯った。自分が思っている以上に、今でも彼と彼の距離は近いのかも知れず、楓は僅かに警戒レベルを上げる。彼はどこまで知っている?  楓としては、そもそもなぜこの左腕が自分の顔と電話番号を知っているのか、聞き出すチャンスを窺っていた。いや、もちろん情報流出源は一カ所しかないのだが、 「にしても、イケメンって聞いてたけど、実物は半端ないっすね」  突然チェンジアップかというくらいな変化球に、迂闊にも吹くところだった。「いや、それは」ともごもごと言い訳めいたことを言おうとして、否定するのもバカバカしくて結局、「どうも」と投げ遣りに頷いた。一方の左腕は特に屈託もなく、あははーなどと笑っている。 「でもあいつ、楓さんの写真とか一枚も持ってないんですねぇ。いちおう、ケントにも訊いたんだけど、イケメンの物理学者以外の情報がなくて」 「…そうでしょうね」  彼の今の相棒とは実験の一環で顔を合わせ、それ以来、彼のチームメイトとは、空き家になった実家を借りている大学院生として付き合いを続けていた。ただ、そんな彼等とも一緒に写真に収まるようなミスはしていないはずだ。  それもあって、とにかく柳澤が自分に気付いた経緯が分からず、いよいよそこを質そうと口を開こうとした瞬間、 「名前しか、言わないんですよ、あいつ」  一瞬、胸を衝かれた。  そして楓は確信する。この左腕は知っているのだ。楓が何者か。 「でね、いちおうオレ、調べたんです。京都で物理って大学のホームページ見てみたりとか。それで、たぶんこの人だなーって思ってたんですけど、や、まさか東京で逢えるとは思ってなかったなあ」  この頃は研究室それぞれにWebサイトを持っているのが普通で、当然、楓の研究室のページもあり、しかも主要メンバーは写真付きで掲載されている。少々、客寄せパンダにされている自覚がある楓としてはイマイチ納得は出来ないが、そこでは顔と氏名が公開されていた。  しかし、そうであってもかなりの根気が必要な作業だ。楓のようにネットと当該分野に慣れている人間ならともかく、不案内な人間がテキトーに検索しても、正しい情報に突き当たるのは意外に難しい。つまりそれだけの手間を掛けて、彼は名前だけを頼りに楓を探したのだ。  楓はまじまじと左腕を見直す。その様子に、柳澤ははっと気付いた風に顔を上げる。 「あ、いや! たぶんね、知らないと思います。ケントとか赤谷さんはビミョウかもですが、たぶん、他の連中は知らないです」  慌てて言い募る左腕に、いえ、とだけ応えて。何を、と聞き返すまでもなかった。彼は最初から知っていたし、そのために彼は今日、自分を呼んだのだろうし。 「俺の番号は、どうして」  訊ねる声は思った以上に柔らかくなって、楓としてもほっとした。柳澤はやはり微笑んでから、すこし俯いた。 「穂高が、教えてくれました」  うん、と、予想通りの返答に楓は頷いたが、続いた柳澤の言葉はしかし予想外だった。 「緊急連絡先って、言われたんです」  ああ、と。  ため息のような呟きは、ラウンジの毛足の長い絨毯に吸い込まれた。 「ほら、俺たちの仕事だと、どこで何があるかわかんないじゃないですか。でも血縁はトーゼンとして、業界の関係者にはあんま気にしなくても伝わるんだけど、守備範囲外は届かないんで」  そうなのだ。彼と自分は誰も知らない点と点だ。それこそ昔、彼が出くわした事故のようなことがあっても、楓が知るのはニュース番組ではないだろうか。一方、柳澤は彼等の年目の中心で、情報のHubでもある。 「あいつ、家族との縁もちょい薄いでしょう。あ、逢ったことあります?」  都大路を見学しに来た双子の弟たちとは、前年、顔を合わせている。というか、楓の住居が彼の実家なので当たり前だが泊まっていった。陸上強豪校で寮暮らしの弟たちと逢うのも、二年ぶりだと彼は言っていた。とにかく弟たちにはべたべたに懐かれていたが、彼等が一緒に暮らしたのはほんの数年で、つまり家族揃って過ごした時間は恐ろしく短いのだと。両親も日本にいないことが多く、祖父母も既に他界しており、確かに小林一家はすこし縁が薄いようだった。 「だから、万が一の時は連絡してほしいって、言ってました」  その言葉の意味と、重さは。  パンケーキの最後の欠片を食べきって、柳澤は空っぽになった大きな皿を見ながら、ぽつりと。 「あいつ、というか、オレたちって、野球しかなかったんですよ」  世界は野球とそれ以外で出来ていた。  だから、お互いが一番で、唯一だった。 「でもあの時、緊急連絡先だって教えてくれたとき、穂高、言ったんです。必ず、そこに連絡してほしいって」  かならず、と楓は口の中で繰り返した。  だから、よっぽど大事な人なんだと。たぶん、家族と同じくらい大事なんだと、思って。そう、彼の親友は歌うように言って、不意に顔を上げると、夏の向日葵のように笑った。  笑って、こう言った。 「あいつに、野球以外の一番が、見つかって良かった」  その笑顔がただ眩しくて、楓は目を細めた。
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