序章

1/4
前へ
/32ページ
次へ

序章

世界は、6時半に設定された目覚まし時計のけたたましいアラームで始まる。 目を開けることもなくタオルケットからニューッと腕を伸ばして枕元のスイッチを止めた。そして、腕はそのままだらしなくその場で力尽きる。身体が鉛のように重たくて起き上がることすらしたくない。 「まだ寝てたいよぉ…」 ゆりかはもう睡眠欲に屈伏したかった。白旗を上げたいくらいに。 そうやって、この温かみに包まれた中でダラダラまどろんでいると5分ごとのアラームが起床しろと言わんばかりに追撃してくる。ゆりかはようやく白い天井と対面した。 「2時に寝たけどもうこの時間か……。しんどいけど行かなきゃ…」 重い腰を上げて、ベッドから立ち上がる。カーテンから差し込んでくる柔らかい日差しでさえ憎たらしい。そんな生活がもう3年も続いている。身体の疲労が抜けないことにも慣れてしまっていた。 それでも、やはりルーティンは欠かせない。ゆりかは出掛ける準備が終わった後、ガラスのローテーブルの下からメモ帳を引っ張り出してシャープペンシルでこう走り書きした。 fc319b1b-b28d-4514-810c-3c81d36abbe4 勤務先のエレベーターを待っていると、カバンの奥底でスマホのバイブが鳴る。高校卒業する時にみんなに合わせてとりあえずアカウントを作ったきり、更新をしていないFacebook。開くと婚姻届と仲良く並ぶエンゲージリングの写真がやけに眩しく感じた。 『ご報告です。本日、5月30日にかねてからお付き合いしていた大学時代の後輩である片岡樹さんと入籍する運びとなりました。まだまだ未熟者な私たちではありますが、どうぞこれからもご指導よろしくお願いいたします』 高校の同級生の菜摘だ。スクロールすると菜摘と結婚相手の人とツーショットも載せられている。幸せに満ち溢れているのが写真からでも分かる。 ゆりかは社会人4年目で先週26歳になったばかり。相手がいるなら、ましてや学生時代からご縁があるならそのままゴールインしてもおかしくない年代である。こんな投稿、この一年で三回は見た。幸せいっぱいな画面の向こうと今これを恨めしそうに見つめる画面に映る自分の落差に乾いた笑いしか出てこない。 私何年彼氏いないんだっけ? とゆりかはふと我に返る。しばらく考えてみたものの思い出せない。いた事はある。でもあれ何歳の時だっけ? そんなことを思うくらいに随分いないんだなと納得するしかなかった。 コツンと後頭部に当たった軽い衝撃。それがゆりかの自問自答から解き放つ。 何かが入ったビニール袋? 振り向くと同じ部署で同期の長澤紘人(ながさわひろと)が背後に立っていた。部署きってのエースでスラリとした背格好。グレーの薄いストライプスーツでも黒のリュックサックがよく似合っている。 目の前に掲げられたのはやはりコンビニで買ったであろう代物。 「これお前にやるよ」 「え、いいよ。受け取ると高くつきそうだし」 ゆりかが一瞬渋い顔をする。その言葉を聞いてか、長澤は強行突破を始めた。 「俺が言ってんだから有難くもらっとけ!」 長澤はゆりかの通勤用トートバッグにコンビニ袋を無理やり押し込む。量が多くなかったのでするりと隙間から入り込んでしまった。 「ちょっとやめてよ!」 「俺、健康志向だから階段な。また後で」 満足したのかニヤリと笑いながら手を振る長澤が見えなくなった後、ゆりかはゆっくりトートバッグを開いてみた。袋の中にはエナジードリンクとパウチに入った栄養ゼリー。 社畜として文字通り身を粉にして働いている自分に対して、ましてや女子への差し入れとしてのセンスの無さを、ゆりかは嘆かずにいられなかった。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加