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「だめですよ静香さん。貴方から私に触れるなんて。」
「え?」
マスターは静香の手をすんでのところで掴んだ。
「...なぜ触れてはいけないんですか?」
「気持ちが高ぶると鬼だった時の想いが蘇るからです。愛しくても叶わなかった人を今目の前にして、自分が何をするかわからない。だからこの熱情は出してはいけないんです。」
「マスターはどのくらい酒呑童子の記憶があるんですか?」
「記憶は断片的にね。でも貴方への強い想いは変わらず...いや、それ以上に増して焼き付いています。」
マスターの瞳が一瞬また光って見えた。しかしハッとしてすぐに目を伏せる。
「...?」
「なんだか人の多さに当てられましたね。少し座りませんか?」
話を逸らされた気もしたが、よく見るとマスターの顔色が悪いことにすぐ気付いた。
静香は周りを見渡し休める場所を探した。すると少し離れた土手の下に、一本の大きな桜の木があった。
土手を降り木の根元に2人で腰をかけた。
「桜の木の下は落ち着きます。」
木の幹に体重を預けて目を閉じたままマスターが言った。静香は芝生の上に広がる散った薄紅色の桜の花びらを見つめる。
「“桜の木の下には”ってよく聞く少し怖い話思い出しちゃいました。」
《桜の木の下には死体が埋まっている》
学生の頃そんな話が流行った時期があった。クラスの男子が女子を脅かそうといじわるしていたのだろう。
マスターがニコリと笑って口を開く。
「それは迷信です。」
「ですよね。そんなこと言ったら他の真っ赤な花はどうなるんだって話ですもんね。」
「でももう一つは本当だと思います。」
「もう一つ?」
(他に何かあったかな?)
静香が横を見るとマスターの顔色がさっきより良くなっていることに気付いた。
「桜の木の根元には鬼が住んでいる。」
マスターが浮かべた奇麗な微笑にぞくっとする。
「鬼が...?」
「はい。桜には不思議な力があるんです。こうやって座ると気分がよくなりますから。」
(それは桜の木の根元にいるという鬼たちが力を分けてくれるとか?)
「さて、そろそろ行きますか。」
マスターがついと立ち上がり、いつもの穏やかな顔で手を差し出す。静香は目の前の優しいマスターを見てホッとした。
そのあともしばらく2人でのんびりと手を繋いで並木道を歩いた。わかってはいたがすれ違う女の人たちが必ず振り返る。中には静香が見えてないような態度で堂々と話しかけてくる人もいた。
しかしその都度マスターの溺愛モードが発動。呆気なく返り討ちにされていく。静香自身もドキドキで限界だった。
(うぅ。2人きりで平和に過ごしたい......)
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