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帰りはタクシーに乗った。マスターはこの後仕事なので先に静香の家へと向かう。
「この前の親戚の方はお店によく出られるんですか?お店の中を熟知しているようでお酒も作っていましたし。」
「はい。悠斗は週末によく手伝いに来てくれます。静香さんは平日にいらっしゃるので会うのは初めてでしたね。」
「なるほど!だからあんな店に馴染んでいたんですね。」
店の従業員といえば無口だが雰囲気のある若い青年しか静香は見たことがなかった。
「マスターが書道家さんってことはお客さんに内緒なんですか?」
「そうですね。もともとバーはこじんまりとやってますし。」
レトロな雰囲気のお店のマスターが実は純和の書道家だなんてイメージが違いすぎる。そのギャップを知ったら今まで以上にマスター目当てのお客さんが増えそうだ。マスターのお酒に魅了されて通う常連さん達もいるのに。
「マスターはお店をとても大切にしてるんですね。」
「えぇそれはもう。お酒に囲まれて幸せな空間です。」
そう答えたマスターの瞳は子供のように純粋に輝いていた。
(さすが酒呑童子...。)
「あ、疑問に思ってたのですが...。」
「はい何でも聞いてください。」
「マスターはいつ私が探していた人だと気づいたんですか?」
静香はタクシーの運転手さんに聞こえないくらい声を抑えて切り出した。
ふいをつかれた質問にマスターは一瞬動きを止め振り返る。
目があった静香はドキッとした。
(またあの瞳だ...。)
瞳の奥で何かが光るように意志を持つ。マスターは静香の手をそっと握った。
「その瞳です。」
「え、瞳?」
「はい。その瞳を見た時、遠い昔に叶わなかった想いが燃え上がるように激しく蘇りました。今までそんなことはなかったのに。その衝動は制御不能になる程です。」
静香にもその衝動に心当たりがあった。マスターの光る瞳を見ると静香自身今まで感じたことのない不思議な感覚に陥る。深い部分でまだ自分も知り得ない何かが目を覚ますような。
「どれほどこの瞬間を待ち焦がれたか...。」
またキラリと一瞬双眸に光が走り静香は瞬きを忘れた。にこりと優しく笑ってマスターは目を閉じる。
「でも静香さん初めて来た時は前の彼と一緒だったので嫉妬心を抑えるのに必死でしたよ。」
「え?あ...確かにそうですよね。」
するとちょうどタクシーが停まった。
「あ、もう家の前なんですね。」
あっという間に現実に引き戻され、静香は荷物に手をかける。
「マスターお仕事頑張ってください。今日は楽しかったです。ありがとうございます。」
ドアを開けようと離れた瞬間、マスターは静香の手首を掴んだ。
「マスター?」
「俺も静香さんとゆっくりお話ができて良かったです。まだほんの一部なのでいずれまた...。後ほどまた連絡しますね。」
いつもの穏やかな口調だが、手に入った力がいつもより少し強かった。マスターが惜しむように手を離すとタクシーはそのまま走り出す。
静香はタクシーが見えなくなるまで眺めていたーー。
全てを捨て鬼になる道を選ぶほどの深い愛情。
それに自分が答えられるのか静香はまだわからなかった。
マスターといると頭で考えるより先に心が動くことがある。今まで感じたことのない感情。まさか自分の中にこんな一面があるなんて。
掴まれていた手首が熱い。
笑顔の裏にある想いが腕に焼き付いていつまでも消えてくれないーーー。
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