1

1/1
前へ
/43ページ
次へ

1

   青年は以前、青を塗り重ねて蒼にしたような、深くて透き通るような瞳を持っていた。 その瞳は多くの人間を虜にした。多くの金が動き、多くの血が流れた。  青年がまだ少年であったころ、彼は実の両親に売られた。 相手は貴族だった。以前少年が母親と街を歩いていたところを見て「欲しい」と思ったらしい。  両親は、この子どもの瞳は金になると早いうちから気づいていたらしく、届けられる申し出のなかで最も高値を出すと言った相手を選んだ。  ある朝、いつも通りに硬い布切れの肌触りと漂うアルコールの臭いのなかで目覚めた少年は、華美な服装をした両親を見て目を丸くした。 どこからか美味しそうな食べ物の匂いも漂ってくる。 この家のどこにまだそんなお金があったのだろう。それに父さんまで着飾っているじゃないか。  ひさしぶりの朝食と、いつぶりかの両親の笑顔を見て、自分はまだ夢のなかにいるのだと思った。 夢から醒めたくないと思うのはいつものことだったが、今朝は格別に目覚めたくないと思った。  けれど夢はいつか醒めるもの。 おわりはあっけなかった。現実はいつも近くにいた。  どこからか馬の蹄の音が聞こえてくる。 「あら、子爵様がいらしたわ!」  母が昔に戻ったように笑う。 母はもともと男爵家の娘だった。その上品な笑顔を見るのはいつぶりだろう。  母は、生家の庭師をしていた父と駆け落ちも同然に結婚して、ぼくを産んだらしい。  初めの数年はうまくいっていたらしいが、母は貴族の頃からの浪費癖が治らず、父は脚を怪我してまともに働けなくなってから一日中酒ばかり飲むようになった。しだいに家族仲は悪くなっていったし、その日一日の食べ物にも困るようになっていった。  両親は顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた。 「おまえが実家に頼めば……!」「あんたが怪我さえしなけりゃ……!」 そんな不毛な言い合い。父も母もよく言えば自尊心の高い人間であった。  父は(自称)職人気質で、怪我により昔のように働けなくなったことが我慢ならないらしかった。「俺だって怪我さえしなけりゃあ……」そう言いながら飲んだくれていた。  母は生家の家格に見合わず気位だけは高かった。祖父にあたる男爵家当主は、母の浪費癖の補填のために必死に働いていたので、娘にはどこかの貴族と結婚してもらおうと考えていた。そのはずでいた娘が安い賃金で雇えた出来の良くない庭師と結ばれたと知ったとき、これでしまいだというように纏まった金を渡して縁を切ったらしい。ご丁寧に書面まで作ったそうだ。  父は実家の稼業を継ぎ、庭師になった、というだけだった。雇ってくれる宛もほとんどなかった。ちょうど母の浪費癖で生活の質を下げなくてはいけなかった男爵家に雇われたらしい。  こうして考えてみると、両親は出会うべくして出会ったのだろうか、とも思う。仕事の出来は悪くても顔の造形が整っていた父は、男爵家の娘であった母の心を射止めた。そのとき父は「これで楽な暮らしができる」と思ったらしい。母の浪費癖のことも知らずに。  そんな打算だらけの恋人たちの間に新しい命が宿るのは早かった。 母は自分が金持ちで好色家の醜悪な老人のもとへ嫁がなければいけないことに我慢ならず焦っていたため、妊娠に気づいたときは大層喜んだらしい。 しかし、資金繰りに困っていた男爵家からしてみると、とんでもない話である。以前から密かに話には上っていた娘との縁切りを実行に移した。 晴れて男爵家の婿養子だと思っていた父も大層驚き、失望した。  ふたりは男爵家を追い出され、貧しい暮らしを余儀なくされた。 ぼくは物心がつくようになると、近隣の店を手伝い、働くようになった。  建てつけの悪い木戸が鳴る。 「やあやあ、約束の子どもは?」 趣味の悪い洋服にでっぷりとした腹を隠し、脂ぎった顔を歪ませた男が現れた。 「これはこれは子爵様。ようこそ。この子です」 父が媚びへつらった態度で、ぼくをその男の前に立たせた。 男の値踏みするように怪しく光る目と歪む口元が気持ち悪い。 「よろしい。約束の金だ」 男がそう言うと、後ろから現れたお仕着せを着た痩せぎすの老人が、膨らんだ麻袋を机の上に置いた。 「それでは」とでっぷりとした男は、ぼくの腕を引っ張り、乗ってきたらしい馬車に乗せた。 男の太い指に並ぶ大振りの指輪が当たって痛い。  母は見送りをするように木戸の前まで笑顔でついてきた。そして男に向かって頭を下げる。 「父さん……? 母さん!」  理解できずに助けを求め叫んだ。 馬の嘶きと蹄の鳴る音。 母がにっこりと笑う。  馬車の窓からは、今にも崩れそうな慣れ親しんだ家が遠くへ小さく流れていくのが見えた。 「まだわからないのか? おまえは金で売られたのだ」 下卑た笑いとともに男が告げた。  今朝の朝食は、高価そうな服は、両親の笑顔は、ぜんぶこれだったんだ‥…!  短かったけどほんとうに夢のような時間。 どうして? って思ったけど、深く考えちゃだめだってどこかではわかっていたんだ。  少年は茫然とした。  
/43ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加