白井さん

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数年前、祖母が一ヶ月ほど市内の病院に入院した。 家から病院までの距離は車で三十分ほど。 三日に一度は母と二人で、祖母の着替えを届けに病院へ行った。 祖母の入院していた病室は大部屋で、六つあるベッドのうち四つが埋まっていた。 窓際に祖母のベッド。 その隣には高峰さんという70代のおばあさん。 とても気さくで話好きな人。 病室ではいつも祖母と二人で楽しそうに話をしていた。 お見舞いに行くと、必ず高峰さんはお菓子やフルーツを私にくれた。 家族にたくさん強請って、病院のみんなに配っているらしい。 その隣のベッドには田辺さんという20代の男性がいた。 いつも仕切りカーテンが閉まっていて、顔は一度ぐらいしか見たことがないが、時々友人がお見舞いに来ているらしく中から話し声が聞こえた。 祖母の向かいには白井さんという50代前半の女性がいた。 その名の通り、とても肌の白い人だった。 白井さんは昼も夜もカーテンは全開だったが、特に誰かと話すこともなくただただベッドの上で本を読んでいた。 話しかけても本に夢中で、挨拶をしても視線は本のページのまま軽く会釈する程度だった。 けれど、黒縁メガネがとても似合った人だった。 どんな本を読んでいるのか気になったけど、本にはカバーが掛けられていてわからなかった。 白井さんは一日の大半をベッドの上で読書しているが、昼過ぎになると点滴スタンドを転がしながら病室から出て行く。 どうやら病院の中を散歩した後、ナースステーション前のソファに腰掛けて、看護婦さんの様子を観察しているようだった。 私もナースステーションの前で、白井さんを見かけたことがあった。 白井さんが険しい顔でずっと見ているから、看護婦さんたちはとても気まずそうに働いていた。 祖母の話では、別の階でもナースステーションの前で白井さんの姿を見かけたそうだ。 変わった人だなと思った。 祖母は検査をしたのち、予定通りに手術が行われた。 術後は五日ほどICUに運ばれ、安定したところでまた同じ大部屋に戻ってきた。 手術も成功し、術後も良好で祖母も私たちも安堵していた。 大部屋に戻ると、少し来ない間に高峰さんだけになっていた。 田辺さんは、祖母が手術をする日の午後に退院したらしい。 友達がたくさん来て喧しかったと、高峰さんは言った。 そして、白井さんはその翌日に個室に移されたそうだ。 高峰さんは自分が煩かったからかも、と少し申し訳なさそうに言った。 「でも、病院内でもナーステーションの前でも見かけていないということは、個室がよっぽど快適なのかしらね」 と高峰さんは言った。 私や母も白井さんを見かけたのは、祖母が手術室に運ばれた日が最後。 祖母も同じ。 白井さんはきっと、読書に夢中なのだと私は思った。 それから数日経ったある夜。 私たちもすでに帰り、高峰さんは祖母に挨拶をすると仕切りカーテンを閉めてテレビをつけた。 二人はテレビを見ながら寝るのが日課だった。 白井さんがいた時には、祖母はカーテンを閉める際に本を読んでいる白井さんに向かって「おやすみなさい」と声をかけると、白井さんも軽く会釈をして「おやすみなさい」と返してくれていたという。 今は誰もいないガランとしたベッドを見て、無性に寂しさと悲しさが込み上げて来たという。 消灯の時間が過ぎ、病室の電気が消された。 祖母はイヤホンをつけながらテレビを見ていると、巡回にやって来た看護婦の多田さんに声を掛けられ、テレビを消して就寝した。 しばらくして、祖母はふと目を覚ました。 ぼんやりとした頭で薄目を開けると、病室の白いカーテンが見えた。 枕元にあった時計を見るとまだ一時半。 祖母は再び寝ようと目を閉じた。 すると、目を閉じているというのに目の前が明るくなった。 電気がついたのかと思い目を開けたが、病室は薄暗いままだった。 その時、病室のドアが開く音がした。 巡回の時間かしら。 そう思ったが、部屋に入ってくる足音がしない。 音は気のせいだったのかしら。 祖母は気にせず、再び目を閉じた。 カチカチカチ 僅かに秒針の音が聞こえた。 目を開けると、ベッドの横で看護婦が祖母の方を見ながら立っていた。 さすがの祖母も、それには驚いたという。 看護婦のポケットには、小さな懐中時計をつけていた。 祖母はその看護婦を見て違和感を覚えた。 この病院のナース服は全員ピンク色だった。 なのに、目の前にいる看護婦のナース服は白色のようだった。 それに形も少し違う。 「ドコカ痛イトコロハゴザイマセンカ」 看護婦は祖母に顔を近づけそう尋ねた。 その時、祖母はあることに気が付いた。 看護婦の顔が白井さんにそっくりで、その目は真っ白だった。 祖母は戸惑いながらも、「い、いいえ。何もないわ」と答えた。 すると、その看護婦は「ソウデスカ」と言って少し微笑むと、祖母のベッドから出て行った。 足音は聞こえず、ただドアの閉まる音だけが聞こえた。 祖母はその看護婦が気になり、病室から廊下を覗き込んだ。 すると白井さんに似た看護婦が、今度は隣の病室に入って行く姿が見えた。 祖母は気づかれないようにこっそりと隣の病室に近づいた。 「どうしましたか?」 背後から突然声を掛けられ、祖母はビクリと肩を震わせた。 振り返ると、そこには懐中電灯を持った多田さんが立っていた。 「こんな時間に何をしているんですか?」 そう聞かれ、祖母は隣の病室に白井さんに似た看護婦さんが入って行った事を伝えた。 白井さんという言葉を聞いて、多田さんは「えっ?」と声を出して驚いた。 その表情は少し強張っていた。 多田さんは、自分が様子を見てくるからと、祖母には病室に戻るように促した。 時間はすでに深夜二時。 祖母は多田さんの言うことを聞いて、大人しく病室に戻った。 かつて白井さんが寝ていたベッドには、真新しい枕とシーツの上に月明かりだけが横たわっていた。 翌日、祖母のところに多田さんが検温にやって来た。 昨夜のことを尋ねると、隣の病室には白井さんはもちろんのこと、他の看護婦の姿もなかったそうだ。 「確かに見たんだけどね。それに白井さんそっくりの看護婦さんだったわ」 祖母がそう言うと、多田さんは急に表情を曇らせた。 「白井さんに似た看護婦なんていませんよ」 「だったら、白井さんだったのかしら。なんて、そんなわけないわよね」 「白井さんは……」 多田さんは何か知っているようだった。 「亡くなったんじゃない? あの人」 祖母と多田さんの様子を見ていた高峰さんが言った。 「個室に移動しただけじゃないの?」 「あの人顔色悪かったでしょ。あたしもここに入院して長いけど、来た当時はあんなに肌も白くなかったし。ご飯もあんまり食べてなかったからガリガリだったじゃない」 そう言うと、多田さんは悲しげに俯いた。 やはり白井さんは亡くなっていた。 別の看護婦さんから聞いた話では、白井さんは入院する前まで地方の病院で看護婦をやっていたらしい。 看護婦長にまでなった人だった。 だからよくナースステーションに来ては、看護婦同士の私語を注意したり、患者さんへの対応が悪いだのと説教をしたりしていたとか。 いつも読んでいた本は、看護やターミナルケアに関するものだったそうだ。 その話を聞いて、やはりあの夜に見た看護婦は白井さんだと祖母は思った。 「自分がこの病院の看護婦だと思っているのかねぇ」 「そんなことはないと思いますけど」 多田さんは少し怯えた様子で言った。 「だって、夜中に巡回しているんだろう? 多田ちゃんも、巡回している白井さんに出会うかもねぇ」 高峰さんが意地悪そうに言った。 「やめてくださいよ!」 泣きそうな多田さんを見て、高峰さんは笑っていた。 そして、祖母は無事退院した。 結局、看護婦姿の白井さんを見たのは、一度きりだったそうだ。
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