12:45 p.m. afternoon

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12:45 p.m. afternoon

「ちょ、まだ」  十時になってないだろと注意するまえに、えっ、と璃子が意図せず出たような声を漏らしたのが聞こえて、喉まで出かかっていたことばをひっこめた。とっさに鍵盤から指を離したのか、手の動作が宙の不自然なところでとまっている。  璃子はその手を、もう片方の手でさする。 「……どうしたの?」  なにを言うべきかわからなくて、とりあえず質問してみる。 「なんか、びっくりしちゃって」 「びっくり?」 「なんでだろ、鳴るっておもってなくてさ。そんなわけないのに。けど……」  璃子はふたたびピアノに手をのばし、ゆっくりと鍵盤を押す。さっき出たのおなじ音が、こんどはささやかに鳴らされる。 「ちゃんと調律してある。わたし、ずっと帰ってこなかったのに」  指の力を弱めたのか、押されてへこんでいた鍵盤がうえに戻る。もう音は鳴っていないはずなのに、耳の奥でピアノの音がずっと鳴っているような錯覚がした。 「あいちゃん、ピアノ弾いてた?」 「さあ? でも、調律の音はしてたよ。このあいだもシュウコウさん来てたし」 「そうなんだ。シュウコウさん、ひさしぶりに会いたいな」  きょう来るのかな、と鍵盤を撫でながら璃子はつぶやいた。シュウコウさんとは顔見知りで、家のまえですれ違えば挨拶もするけれど、どういう漢字でシュウコウと書くのか、ましてやその呼び名が名字なのか名前なのかもいまだに知らなかった。シュウコウさんは半年に一度、璃子の家のピアノを調律しにくる。春のはじめと秋のはじめに調律の道具が入った黒いケースを持ってやってきて、ピアノの音をぽつぽつ鳴らしながら、素人ではわからないような音のずれを直していく。二週間まえにも調律に来ていて、作業をひととおり終えたあと、試しになにかクラシックの曲を一曲弾いてから帰っていった。 「まだ弾いちゃ駄目だよね」  璃子が壁掛け時計を見ながら言う。時刻はまだ九時をすこし過ぎたところだ。この家では朝の十時になるまでピアノを弾いてはいけないという決まりがあった。近所に住むひとたちを気遣って、夜も十九時以降はピアノの音を出さないようにするということになっていた。 「うん」 「どうしよっかな」 「曲、決めるんじゃないの?」 「うん。じゃあ、決めよっかな」  鍵盤の蓋をとじて、璃子は勉強机の横に置いておいたスーツケースをあけた。なかには分厚いクリアファイルが二冊と、名曲集と書かれた本が三冊、音符のマークがついているポーチと、それから黒いドレスと下着らしきものが無造作に入れられていた。スーツケースの大きさのわりに物はそれだけしか入っていなかった。どうりでスーツケースが軽かったわけだ。璃子は薄いピンク色のクリアファイルを取って、カーペットのうえにすわった。クリアファイルに入っているのは楽譜で、それぞれの曲の一ページめに書かれている曲名を確かめながら璃子はページをめくっていく。 「それ、ぜんぶ弾けるの?」 「ううん、弾いたことはあるんだけど、毎日弾いてるわけじゃないし……」  口ごもっているところを見ると、日々専門的にピアノの勉強をしていてもそうかんたんになんでもかんでも弾けるわけではないらしい。すくなくとも、璃子はむかしからそうじゃなかった。どちらかというとこつこつと練習をして音楽を身につけていくタイプのひとだ。 「どうしよ」  ゆっくりとクリアファイルをとじて、璃子はうつむいた。 「じぶんで弾くって言ったのに、なんか不安になってきちゃった」 「大丈夫だって。璃子、上手じゃん。ピアノ」 「そんなことないよ。学校のひと、みんなわたしより弾けるし」 「素人が聞いたらわかんないって」 「それ、なぐさめてるつもり? ……まあ、そんなもんか」  かんたんな曲にしよ、とつぶやいてから、こんどは『ピアノ名曲110選B』と書かれた本をひらいた。きょう弾くと言っていたショパン以外の作曲家の曲も収録されているみたいで、璃子は目次ページのさいごのほうの、おそらくショパンの曲の曲名が書かれているところだけを指でなぞっていく。 「子犬のワルツ、ワルツ64の2、ワルツ69の2、マズルカ7の1、ノクターン9の2……」 「そっちのは弾けるの?」 「うん。子犬のワルツとノクターンは暗譜してる。ほかも楽譜見たら弾けるかな」 「ふうん」  自信を取り戻したのか、璃子の声色は明るくなっていた。きもちの切り替えのはやさもむかしのままだなとおもう。ちいさいころ、おれが余計なことを言って璃子の機嫌をそこねたことが何度かあったけれど、いつも気づいたときにはなにごともなかったかのようにいっしょに遊んでいた。感情の高低差があまりないのかもしれない。いや、そういう小難しいことではなくて、ただ気まぐれなだけなのかもしれないけれど。  きょう使うぶんの楽譜をコピーして台紙を貼りたいから必要なものを買いにいくと璃子が言いだしたのをとっさに引きとめて、おれが買いものに出かけることにした。楽譜をひととおり預かって璃子の家を出て、一度自宅に戻った。玄関をあけると、出かけようとしていたのかおふくろがすわって靴を履こうとしていた。ただいま、と声をかけたおれに気づくなりおふくろは顔をあげて睨んできた。 「あんたこんな朝っぱらからどこ行ってたの? きょう、わかってるわよね?」 「わかってるって。隣だよ。璃子、帰ってきたから」 「あら、そうなの。……璃子ちゃん、どうだった?」 「どう、って……」  きっとおふくろもどう聞いたらいいのかわからなかったのだろうけれど、抽象的すぎるにもほどがあるだろとおもう。 「まあ、ふつうだとおもうけど」  すこし迷って、けっきょくこっちもこっちで漠然としたことばで答えた。ふつうってなに、と聞き返されるかとおもっていたけれど、おふくろは、そう、とだけ言った。案外、答えとして正解だったのかもしれない。 「じゃあ、おかあさん買いもの行ってくるから。和音は夕方まで家にいるの?」 「ん、おれは楽譜のコピーと買いだし頼まれてるからそれやる」  実際は頼まれたわけではないのに、言いようがなかったので頼まれたことにしておく。 「買いだしってなに買うの?」 「黒い画用紙だけど。楽譜の裏に貼る用の」 「ああ、台紙にするのね。じゃあそれおかあさん買ってくるから、あんたは楽譜のコピーさっさとやって璃子ちゃんといっしょにいて」 「え。なんで」 「璃子ちゃんのことだから大丈夫だとはおもうけど……ね?」  おふくろはまた、ね? の一言に言いたいことを集約した。璃子自身は、大丈夫なのだ。けれども、おふくろが心配だから、璃子をひとりにさせたくないのだろう。  靴を履いて立ちあがり、おふくろは買いものに出かけた。入れ違いで靴を脱ぎ、じぶんの部屋に直行して、プリンターのスイッチを入れる。せっかくスキャナーつきのプリンターを買ったのに出番がほとんどなくて後悔していたけれど、きょうばかりはスキャナーつきにしてよかったとおもう。こんなに大量の楽譜をスキャンするなんて、コンビニの複合機でやったらとんでもない額になってしまう。  スキャナーのカバーをあけると、A4の紙が一枚挟まったままになっていた。紙を取って表を見る。バンドスコアの原本のさいごのページだった。こんなところにあったのか、というよりも、そういえばバンドなんてやっていたのだなという驚きのほうが強かった。さいごのページだから曲名は書かれていなかったけれど、かろうじてボーカルのリズムにあわせて書かれた「そんないたみもかんげいじゃん」という歌詞でYUIの「again」だとわかった。バンドを辞めるまえにやろうとしていた曲だった。なんの曲かわかってすっきりしたのですぐそばにあったごみ箱のうえにかぶせるように置いて、璃子の楽譜をスキャンしはじめた。五線譜はある程度読めるけれど、璃子が持っている楽譜はどれも音符がたくさん書いてあって、このとおり指が動くなんてすごいなと率直におもう。たったひとりで、たった十本の指でひとつの音楽を奏でるなんてことを、璃子はやってのける。ずっとむかしからだ。  楽譜の順番を間違えないように黙々と手を動かして、ようやく半分が終わったころで階下から玄関がひらく音がした。おふくろが帰ってきたらしい。階段をのぼってくる足音がしたので、立ちあがって自室の扉をあける。ちょうど扉をノックしようとしていたらしいおふくろが驚いたのかすこし呻くような声を出した。 「びっくりした。はいこれ」  おふくろに差しだされた近所のショッピングモールの袋を受けとる。袋を大きくひらかなくても黒い画用紙が入っているのが一目見てわかった。 「どうも」 「のりはあるの?」 「うん、スティックのり持ってる」 「そう。あ、おかあさん十二時になったら」  お昼、と言いかけた声がおふくろの口のなかで消えていった。  璃子のピアノの音がする。  朝食のときにテレビで聞いた曲だ。けれども、けさ聞いたばかりの曲なのにもうタイトルをおもいだせなくなっている。テレビで聞くよりも音が空気を震わせていて重みがあって、けれども璃子が弾くピアノは曇り空から地上をめざして降りてくる淡い陽射しのように遠く、儚いもののように感じられた。 「パヴァーヌか……」  おふくろがつぶやいた。 「璃子ちゃん、きょうこの曲弾くの?」 「さあ。なんで?」 「ああ、和音は覚えてないのか。まだ三歳だったもんね、あんたも璃子ちゃんも」  覚えていないとはなんのことだろう。ふと、璃子のピアノの音が、古い記憶のなかでかすかに聞こえているピアノの音と重なったような気がした。三歳のとき。脳裏から、完全ではないけれどひとつの静止画に変化したあの日のできごとが打ち寄せてくる。 「璃子ちゃんね、おかあさんのお葬式でこの曲弾いたのよ。原曲じゃなくて、すごくかんたんなアレンジだけど。ピアノの先生と連弾でさ」  止まっていた記憶がゆるやかに動きだしていた。あのときおれはお葬式がなんなのかまだわかっていなくて、非日常的な風景のなかで璃子がグランドピアノを弾いているのを、ただじっと見ていた。璃子は黒いワンピースを着て、いつもどおりピアノを弾いていた。泣きもせず、笑いもせず、楽譜と鍵盤を交互に見ながら、夢中になって指を動かしていた。 「もう、ずっとまえのことなんだよね。むかしはよくお線香あげに行ってたなあ」 「おれ、朝あげてきたよ。お線香」 「そっか。和音もそういうことするようになったのね」  曲のさいごかきりのいいところまで弾き終えたらしく、璃子のピアノがやんだ。十二時になったらお昼の用意をするからとさっき言いかけたことを言っておふくろは階下に戻っていった。おれも作業を再開することにして、おふくろが買ってきた画用紙をベッドのうえに置くと、こつん、と窓ガラスになにかが当たる音がした。癖ですぐに窓のほうを見たけれど、カーテンをしめていて外の様子はわからなかった。窓のほうに歩いていく。  カーテンをあけると、おもっていたとおり隣の家の窓から璃子が顔を覗かせていた。赤い毛糸を握っていた。ダブルクリップに毛糸をくくりつけて、毛糸の端を手のうちに持ったままダブルクリップを相手の家の窓ガラスにめがけて投げて音を鳴らすというのが、おれと璃子の合図だった。窓ガラスに傷がつくからと璃子のおばさんに諌められたこともあったけれど、おふくろが気にしなくていいと言ってくれたから、話したいときはいつもこうして合図を送っていた。  窓をあける。 「どうかした?」  先に声をかけると、璃子はおれの顔をじっと見据えた。 「さっきの曲ね」 「ああ、パブ……えっと、なんだっけ?」 「亡き王女のためのパヴァーヌ。あれ、おかあさんの曲だった。おかあさんのお葬式で弾いたの」 「うん。おれもさっきおふくろから聞いた」 「すっかり忘れてたよ。悲しかったけど、大事なことなのにさ」  また璃子が口の端だけで微笑んでいる。そんな表情をされてしまって、こっちはどんな顔をしていればいいのかわからなくて、変に表情が出ないように奥歯に力を入れた。ちいさいときのことなのだから忘れてしまっても仕方がないなんて、悲しいことは忘れてしまったほうがいいなんて言えるほど、おれは弱くなかった。だからといって強くもないから、璃子を許さないでいるようなこともできなくて、なにも言えなかった。  風が窓辺にやわらかく吹きこんでくる。鼻腔をかすめた風は冷たいだけで、秋のにおいはない。すこし寒いな、とおもった。 「ごめん、それだけ。じゃあね」 「あ、待って、璃子」  璃子が窓のふちに指をかけるのをとっさに引きとめる。 「ん、なに?」  引きとめたくせに、じぶんでも理由がわからなくてことばが出てこなかった。ここで会話を終えたって璃子はしばらく家にいるはずなのに、なんとなく、離れていってしまうのが怖いような、変な不安にかられる。 「えっと……」 「どうしたの?」  もうすこしこうやって話していたい、というのは理由になるだろうか。しばらく窓辺から顔を見せていてほしい、というのは。実際、それはたしかに理由ではあったけれど、ことばにしてしまって璃子にきもちわるがられるのは嫌だったし、なにより恥ずかしかった。璃子は首をかたむけながら、丸っこい目でおれをじっと見ている。  なんでもなかったことにしようと口をひらきかけたら、うどん茹でるよ、と階下からおふくろが呼ぶのが聞こえた。 「そうだ、昼飯。うち、来いよ」 「え。わたしは嬉しいけど、いいの?」 「うん。いっしょにたべよう」 「ふふ、ありがと」  そっち行くね、と璃子はひらひらと手を振って、ずっとふちにかけていた指に力を入れて窓をしめた。カーテンはあけられたままで、窓越しに璃子が部屋を出たのが見えた。おれも窓をしめてじぶんの部屋を出た。  リビングにおりると、おふくろがちゃぶ台がわりになっている布団のないこたつにどんぶりを置いているところだった。 「あのさ、お昼、璃子も……」  おふくろの背中に言いかけて、口をとじた。こたつにはどんぶりが三つあって、どれもおなじように天ぷらうどんが湯気をたてていた。油揚げも入っている。どうやらおふくろはさいしょから璃子を昼食に呼ぶつもりでいたらしい。  インターホンが鳴って、はいはい、と大声で返事をしながらおふくろが玄関にむかった。玄関がひらく音とほぼ同時に、あら璃子ちゃん、とおふくろが大きな声を出したのが聞こえた。璃子はふだんどおりの声で話しているらしく、なにを話しているのかは聞きとれない。おふくろが、すっかり大人になって、べっぴんさんねえ、と璃子の見ためを褒めることばだけが耳に入ってきた。  おふくろが先に戻ってきて奥の台所に行き、あとから璃子がリビングに入ってきた。 「わあ、懐かしい。あんまり変わってないですね」 「そうかな? 璃子ちゃん、すわってね。あんたも突っ立ってないですわりな」 「はーい」  璃子はおふくろのことばに従って、リビングに入っていちばん近いこたつの一辺に腰をおろす。おれはその右の一辺にすわって、こたつの中央に置かれたどんぶりのひとつをまずは璃子のほうに寄せた。 「ありがと。わあ、天ぷらのってる。おばさん、ありがとうございます」 「どういたしまして。スーパーの安いやつだけどね。……あれ、あんた、そこすわるの?」 「え?」  おふくろがまだ真んなかに置かれているふたつのどんぶりをすこし動かして、きのうの残りの筑前煮を置く。なんとなくですわっていたけれど、いますわっている場所はテレビが背になってしまうから、この席は家族三人で食事をするときにもだれもすわらない。 「こっちすわりなよ。おかあさんテレビ見たいし。さ、うどん伸びちゃうしたべて」  おふくろはまたキッチンに戻っていく。言われるがまま、もうひとつ右に移り、璃子の正面にすわりなおしてうどんのどんぶりを引き寄せた。璃子とおれは手をあわせて、いただきます、と言った。えびの天ぷらと油揚げをよけて、そのすきまから箸でうどんを引っぱりだす。うどんを啜りつつ、璃子のほうを見る。璃子は箸で引きあげたうどんに何度も息を吹きかけて、啜らずにもぐもぐと口を動かしている。食事ちゅうの璃子を正面から見るのははじめてのような気がして、そういえば、璃子といるときはたいてい璃子が左がわで、おれが右がわにいることが多いのだと気づく。それは璃子の家で食事をするときの席順といっしょだった。  おふくろがこたつにコップをならべて、やかんのお茶を注いだ。ありがとうございます、と璃子が口早にお礼をのべる。やかんをこたつの空いているところに置き、おふくろはおれと璃子がすわっている間の一辺にすわってリモコンでテレビをつけた。ワイドショーで、けさすこしだけ見たのとおなじ大女優の訃報のニュースをやっていた。おふくろはすぐにチャンネルを変えて、なにかの番組の天気予報が映しだされる。 「あー、夕方から雨かあ。めんどうくさいね」 「ですよね」  うどんを咀嚼しつつ、口もとをおさえて璃子がうなずいた。おれはうどんのつゆに天ぷらを沈めて、筑前煮のこんにゃくに箸をのばす。 「タクシー呼んで三人で行こうか。璃子ちゃんは喪服持ってるの?」 「いや、ドレス着るんです。黒の。ピアノ弾くって言ったらおばさんが……えっと、志津江おばさんがドレスのほうがいいんじゃないかって」 「そっか、ピアノ弾くんだよね。なに弾くの?」 「ショパンにしようとおもってて、ノクターンとか子犬のワルツとか、かんたんなのがいいかなって」 「ええ、璃子ちゃんなら幻想即興曲とか革命とか弾けるんじゃないの? 黒鍵とかさ」 「あー、弾けないことはないんですけど、自信なくて」 「いいじゃん、弾きなよ。格好良いし。璃子ちゃんピアノ上手だし、みんながみんな音楽やってるひとじゃないんだから間違ったってわかんないって」 「それ、和音くんもおなじこと言ってましたよ」 「あら」  下の名前で呼ばれたことにどきっとする。おふくろがこっちを見たので、なんとなく視線をそらしてお茶を飲んだ。音大のピアノ科出身のおふくろが言ったほうが、おなじことばでも説得力があるようにおもえた。ふっとテレビの音が途切れてそっちに目をむけると、視聴予約を入れていたのかチャンネルが切り替わってドラマがはじまった。 「ああ、ごめんね」 「あ、いいですよ、気にしなくて」  おふくろが慌ててリモコンを握ろうとするのを璃子がとめる。あら、そう? と申し訳なさそうに言いながら、おふくろはリモコンから手を離した。ドラマでは結婚式をしようとしているらしい男女とその結婚式の担当者らしき女性が話している。ダミーの新郎さまとか、おとうさんには結婚式に出ていただかなくていいんですかとか、不穏な台詞がつぎつぎと出てくる。おれはさいごまでつゆに沈めてとっておいたえびの天ぷらをひとくちたべて、つゆのなかにほろほろとほどけていった衣をひとつひとつ箸でつまんで口に運んだ。力強い女性ボーカルが聞こえてきたので顔をあげてアーティスト名を確認する。沖縄っぽいうたいかただな、とぼんやりとおもっていたら、やはり沖縄出身のHYだった。璃子に視線をうつす。璃子のどんぶりにはまだうどんが残っているらしく、箸と口を動かしつづけていた。おふくろはもうたべ終わったらしく、頬杖をついてテレビを直視している。さっきおふくろが気を遣おうとしたのは、きょうのことだけじゃなくて、璃子の両親のことも含まれているのかもしれなかった。璃子のおとうさんと璃子のおばさんの再婚を、おふくろは反対していた。うちの家では璃子もあいちゃんもわたしが面倒をみると宣言していたけれど、けっきょく本人たちには言えずじまいだったらしい。あのころは、璃子のおばさんと仲がよさそうに話しているときのおふくろの姿と、家に帰ってからおばさんの悪口をこぼす姿の、その差を理解できないでいた。いまはもう隣の家との関わりも密ではないから悪口を聞くことはなくなったけれど、おふくろがおばさんのことをどうおもっているのかはわからない。  ドラマは十五分しかなくて、すぐに終わった。璃子はどんぶりのうえに箸を置く。 「ごちそうさまでした。おばさん、ありがとうございました。美味しかったです」 「いいのよ。いつでも遊びにきていいんだから。璃子ちゃんはこのあとどうするの?」 「ううんと、そうですね、いったん帰ってシャワー浴びようかなっておもってます」 「じゃあうちで入っていきなよ。お風呂わかしてあげる」 「え、そんな、いいですよ」 「いいのいいの。甘えてよ、璃子ちゃん」  おふくろは立ちあがると、じぶんのどんぶりと璃子のどんぶりを持ちあげた。台所にむかってそろそろと歩きつつ、おれのうしろを通ろうとしたときに、和音、手伝って、と爪先でほんのすこしだけ背中をつついた。おれも立ちあがってじぶんのどんぶりと筑前煮が入っていた器を台所まで持っていった。 「じゃあ、おばちゃんお風呂洗ってくるね」 「すみません、ありがとうございます」  いいのいいの、とおふくろはさっきとおなじように返事をして、すぐさまリビングを出て浴室のほうに歩いていった。 「シゲのおばさん、優しい」 「そうかな」 「優しいよ、むかしからずっと。わたしにも、あいちゃんにもさ。あ、洗いもの手伝うよ」 「いや、いいって。おれやるから。璃子はそこにすわってて」  立ちあがろうとする璃子をとめる。じぶんの家でまで璃子に食器を洗わせるわけにはいかない。えー、と不満そうな声を漏らしながら、璃子はもう一度その場に腰を落ちつけた。おれはシンクの隅に置かれたスポンジを手にとって、三本ある食器用洗剤に貼られたラベルの文字を目で追った。食器洗いなんてずいぶんとひさしぶりで、どの洗剤を使っていいのかがわからない。 「シゲの家ってさ」 「え?」  スポンジを持ったまま璃子のほうを振りかえる。 「うん、なに?」 「シゲの家のにおいがするね」 「璃子、いっつもそれ言うよな。おれん家くるたびに」 「だってシゲの家のにおいだなあっておもうんだもん」 「どんなにおいなんだよ、それ」 「ううん……透明、みたいな感じ?」 「わかんねえ」  おれはシンクにむきなおって、ふたたび洗剤のラベルを読んだ。背後で、わかんないかなあ、と璃子が拗ねるような声を出している。おれからすると、璃子の家のほうが、璃子の家のにおいがする。長年何度も供えられてきた仏壇の線香のにおいが家じゅうの壁や畳や床にしみついて、それらがまた解き放たれているような、だれかがいなくなったあとの静けさとしてのにおいが鼻をかすめるのだ。  けっきょくラベルを読んでも違いがわからず、いちばん中身が減っているものをスポンジにつけて揉みこんだ。白い泡が溢れだして、スポンジを覆っていく。 「そういえばさ」 「なに?」  また璃子が話しかけてきたけれど、こんどは振りむかずにそのまま食器を洗いつづけた。 「シゲの家のピアノってさ、まだあるの?」 「ああ、うん。うえの部屋にあるよ。おふくろの部屋」 「弾いてもいい?」 「え。けど、あれ音変じゃん」 「あれがいいんだって。シゲの家のピアノ、すきだよ」  いいのかよ、とおもったけれど口には出さないでおいた。うちの家のピアノは親戚の家から引きとってきたピアノで、ここに運ばれてきたときから音程が狂っていた。長年調律していなかったせいで、下手にさわると壊れかねないということで音程を直すこともできないまま現在にいたる。おふくろと璃子によると全体的に短三度ぶんくらい音が高くなっているらしいけれど、聞きそびれたままでいるせいで短三度がなんなのかおれにはわからない。
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