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15:00 p.m. evening
残りの洗いものを済ませて、おれと璃子は二階のおふくろの部屋にむかった。おなじ家なのに、おふくろの部屋は服の防虫剤のようなにおいがこもっていて、北がわにあるせいか昼間でもすこし薄暗く、電気をつけるとやたらと眩しく感じられて目の奥がくらくらした。
「あー……」
璃子が苦笑する。ピアノのうえには綺麗にたたまれた夏服が積まれていた。そばには段ボールもあって、どうやら片づけのとちゅうだったらしい。ピアノの椅子も、ピアノのまえではなくて壁に沿って置かれ、本が積まれていた。
「ちょっと待ってて」
「え、でも……」
「弾きたいんでしょ?」
おれは夏服を段ボールに入れて、ピアノの反対がわの壁にむけて段ボールを床に滑らせた。こん、と壁にあたって段ボールがとまる。本も一度その場におろして、ピアノのまえに椅子を移動させた。
数年ぶりにあけた鍵盤の蓋は重たくて、持ちあげるごとに、きゅっ、きゅっ、と軋む音がした。鍵盤はおもっていたよりも黄ばんでいて、すこし触れると、指先に細かなほこりがついた。璃子に目配せすると、璃子はゆっくりと鍵盤に手をのばして、ひとつの白鍵に人差し指をあてた。鍵盤の位置はラだけれど、ドのような音が鳴っている。ささやかではあるけれど内部で金具のようなものがひっかかっている甲高い音と、外に響いていかないこもった音もしている。調律があっていない証拠だった。
璃子が何度もおなじ鍵盤を押す。ふふ、と笑いを漏らす。
「変な音」
こんどは音階をなぞる。たぶんドレミファソラシドと弾いているはずなのに転調しているように聞こえた。
「シゲもいっしょに弾く?」
「え、おれ、なんも弾けないって」
「きらきら星は?」
トゥインクル、トゥインクル、リトルスター、と璃子が小声でうたう。うたったときの裏声がとても綺麗で、胸の奥が震えるような感覚がして、すこし緊張した。
「まあ、たぶん」
「じゃあ、シゲはメロディー弾いて。わたしてきとうに弾くから」
「てきとうって」
「いいからいいから」
璃子はピアノの椅子にすわり、中心よりすこし左がわに椅子をずらした。シゲはこのへんね、と璃子は腕を伸ばして高音域のほうの鍵盤に手のひらをぽんと置いた。言われるがままおれはその位置に立って、鍵盤に手をのせる。
「ここがドだから」
璃子が白鍵を押す。たしかにその位置はドだけれど、ミのフラットのような音が鳴っている。
「さすがにわかってるって」
「トゥインクル、トゥインクル、リトルスター、ハウ、アイ、ワンダー、ワッチューアー」
うたいながら、璃子がメロディーを弾く。璃子はもとの音にあわせてうたっているけれど、ピアノの音が高音域で調律もずれているせいで変なハーモニーがうまれている。
「うん」
「つづき、わかる?」
そう聞きながら璃子が手をどけたので、こんどはおれが手をのせて、おそるおそる鍵盤に力を入れた。璃子は鼻歌をうたいながら、リズムをとってうなずくような仕草を繰り返している。そして、さいしょとおなじメロディーを弾くと、トゥインクル、トゥインクル、リトルスター、と璃子は声をだしてうたった。とちゅうの歌詞は覚えていなかったのかもしれない。おれが弾き終えると、璃子はちいさく拍手をした。
「うん、上手じゃん」
「そうかな」
「上手上手。じゃあ」
璃子が鍵盤に両手をだして、おれの顔を見る。おれももう一度ピアノを弾く構えになって、璃子に視線を送る。
「いち、に、さん、し」
璃子がゆっくりカウントをとって、おれはメロディーを弾きはじめた。璃子もおなじように、両手ともに低音域でメロディーをなぞっていく。三つの音域が重なってユニゾンになっているはずなのに、どことなくずれてハーモニーになってしまっている。
弾き終えて鍵盤から手を離そうとすると、璃子が右手でトリルと音階が混ざったようなものを勢いよく弾きはじめたので、おれも慌ててメロディーを追った。てきとうに弾くと言っていたけれど、どう弾くか迷っていないからこういうアレンジの楽譜があるのだろうなとおもう。鍵盤が重たくなっているらしく、璃子が指を動かすたびに、かす、かす、と雑音が混じる。きっと、ほんとうの音は、満天の夜空みたいなのだろう。けれども、この調律のずれた古いピアノから放たれる音は、光るまえに分解されて、どこにも行けず、部屋のなかに沈んでいくようだった。璃子はときどきミスタッチをしているらしく、あ、と声をだすけれど、指はとめずに、楽しげに演奏している。
璃子は、ピアノがすきなのだ。
そんなあたりまえのことを、ずっと知っていたことを、いまさらのように感じて、とたんにすこし悲しくなった。
「あ、ここちょっと待ってて」
演奏を制止されて、おれは鍵盤から手を離す。すると璃子が、短調に変化した旋律を、ふだんはそんなことをしないのに、からだを大きく揺らしながら、極端に曲想をつけて演奏する。暗い曲調なのにわざとらしさのほうが際立っていてなんだかおかしかった。
ふっと、璃子のおかあさんのことをおもいだしていた。ほんとうにあったできごとだとはおもっているけれど、あまり自信はない。璃子のおかあさんはうちのおふくろと大学の同級生で、おなじピアノ科出身で、ピアノを弾くひとだった。いま、こうやって、璃子が弾いているみたいに、からだが揺れるひとだった。そしてあいちゃんも、ピアノを習っていたころはからだが揺れていたようにおもう。
「いいよ。弾いて」
璃子にうながされて、演奏に戻る。ちらと璃子に目をむけると、短調を弾いていたときとは違って、背筋を伸ばしたまま弾いている。璃子はむかしからこの弾きかたをしていた。腕や手首はやわらかく動き、重心移動ですこしからだが左右に傾くけれど、まっすぐすわったままでいる。それはしっかりとからだを椅子に据えているようでいて、それなのにときどき指先からピアノに溶けこんでしまうんじゃないかとおもってしまうくらい、危なっかしくみえた。
アレンジをすべて弾き終えたらしく、璃子が鍵盤から手を離したのを見て、おれもピアノを弾くのをやめた。十回以上はおなじメロディーを弾いた気がする。しばらく黙っていると璃子がくすくすと笑いだして、おれもつられて笑って、いつのまにかふたりして笑いあっていた。
おふくろに呼ばれて璃子がお風呂に入っているあいだ、おれは午前ちゅうにやっていた楽譜のコピーのつづきをやることにした。ここまでコピーして、と璃子に指示されていたところまでのページ数をかぞえると、あと二十ページくらいある。プリンターの給紙トレイをあける。コピー用紙が充分入っているのを確認してからトレイをとじ、楽譜の印刷を再開した。
三十分くらいかけて印刷を終え、コピーした楽譜を整えようとしてはっとする。いちばんうえに、ごみ箱のうえにかけていたはずのバンドスコアの原本があった。無意識のうちに璃子の楽譜といっしょくたにしてしまっていたらしい。おれはプリンターのそばに置きっぱなしにしていた携帯電話をつかんで北上にメールを打った。返信はすぐにきて、原本はサークルの備品だから返してもらえると助かるけど、顔をだしづらかったら別にいい、と書かれていた。メールとバンドスコアを交互に見る。北上の気遣いが、すこしつらい。
部屋の扉をノックする音がして、シゲ? と璃子が呼ぶ声がした。おれは立ちあがって扉をあけた。璃子が、あ、とおれの顔を見て言った。髪は濡れたままで首にタオルをかけていて、服はお風呂に入るまえに着ていたものとおなじだったけれど、黒いタイツは履いていなくて素足だった。
「楽譜、わたしもやるよ」
「おう、コピー終わってるしあとは画用紙貼るだけだよ」
「ほんと? ありがとう」
「髪、乾かしたら?」
「ん、いい。どうせあとでセットするし」
入るね、と璃子がそろそろと部屋に足を踏みいれる。握ったままだった携帯電話をベッドに放ると、璃子がぎょっとしたような表情をうかべた。
「え、シゲってまだガラケーなの?」
「ああ、ぜんぜん使えるしいいかなって」
「へえ。だからアプリに連絡先ないんだ」
璃子はベッドのほうに歩みより、じぶんだってむかしはおなじような型の携帯電話を使っていたはずなのに、物珍しそうにおれの携帯電話を指先でつついた。
「スマホにしないの?」
「まあ、そのうち」
「ふうん。あ、台紙、これ?」
ベッドのうえに置いていた画用紙に気づいて、璃子は携帯電話をつつくのをやめてレジ袋の持ち手に手をひっかけた。
「うん。あ、そのへんすわって」
楽譜のコピーを置いているあたりを指で示す。璃子はレジ袋を持って床に膝をつく。
「これは?」
「ん?」
璃子が紙を一枚つまんで、ひらひらと揺らしておれに見せてくる。さっきまでどうするか困っていたバンドスコアだった。
「ああ、貸して」
ん、と差しだされたバンドスコアを受けとり、ふたたびごみ箱のうえにかぶせる。
「バンド、してるの?」
「言ってなかったっけ? 璃子の下宿に行ったときに……」
あれ、とおもってことばの端をのみこむ。なにを口走っているのだろう。璃子とさいごに会ったのは、高校三年の終わりの引っ越しのときのはずだ。璃子のおとうさんの車が下宿のある町へと走りだしたのを見送ったのがさいごのはずだ。
「ん? シゲ、どうかした?」
璃子が首をかしげる。濡れた髪もいっしょに傾いて、左耳があらわになる。
大丈夫。シゲのすきなところにあけてよ。
「あ……」
脳裏で璃子の声が蘇る。
違う。
さいごに会ったのは、引っ越しのときじゃない。璃子の下宿だ。
「ええ、なに?」
「いや、その……」
ずっと忘れていたことに戸惑って、会話の収拾のつけかたがわからなくなる。いま、おれが言うべきことはなんだろう。
記憶という映像がたったいま見ている光景とすり替わって、璃子の耳輪につけられた銀色のピアスの周りに赤いしずくが膨らんでいく。
「耳、大丈夫だった?」
「え?」
「あの、ピアスの」
「えっと……」
璃子の視線が宙をさまよう。おれがなんのことを言っているのかわからなかったらしい。数十秒くらい経って、あれかあ、とぽんと両手を胸のまえであわせた。璃子も忘れていたらしかった。
「うん、大丈夫」
「痛く、なかった?」
「どうだろ、覚えてないや」
ふいに璃子が視線を床に落とした。
「あ……えっと、ごめん……」
言うべきことを間違えたのだとようやく気づく。でも、もう遅い。
「ううん、ありがとね。もう、大丈夫だよ、わたし」
璃子が顔をあげて微笑むので、そのわりに声が震えていたので、おれは後悔した。撤回したいことばとじぶんの声が耳もとで鳴り響いていた。
「楽譜、やろっか。シゲ」
「……うん」
包装のフィルムから画用紙を取りだし、せっせと手を動かす璃子はそれ以上なにも話さなかった。おれも黙ったまま、画用紙に楽譜を貼りつけるのを手伝った。
きょねんのちょうどいまくらいの時期に、おれは璃子の下宿を訪れていた。璃子がインターネットで購入して、間違えて実家に送ってしまった新しい楽譜を持って。おもえば宅配で下宿まで送ればよかったのに、持ってきてほしいと頼まれたことにちっとも疑問を抱かなかった。おれは璃子に会いたいとおもっていたし、璃子がひとりで住んでいる下宿を見てみたいとおもっていた。もしかしたら璃子とふたりで、なんて想像も、すこしはしていて、たぶん舞いあがっていたのだとおもう。
アパートの玄関をあけてもらった瞬間から、すでに違和感はあった。璃子の髪はずっと美容院に行っていなかったのかごわついていて、頬もすこしこけているようにみえた。室内に入ると違和感は増した。璃子の家のにおいではなく、璃子が嫌いなはずの煙草のにおいがした。踏みこんでみるとますます胸のなかがざわついた。たたまれていない服や大学のプリントが床に散らばっていて、ローテーブルには煙草の吸い殻が溜められた使い捨てのプラスチックのコップがいくつも置かれ、ごみ箱は丸められたティッシュで溢れ返っていた。璃子ではない何者かの気配が肌を刺してくるような部屋だった。
下宿にきた目的である楽譜を渡したあと、璃子はシーツがぐちゃぐちゃになっているベッドに腰かけると、ピアスホールをあけてほしいと言った。けれども、そのとき璃子の耳にはすでに五つくらいピアスがついていて、もうピアスホールをあけられるところなんてないように見えた。
大丈夫。シゲのすきなところにあけてよ。
断ろうとするおれの手にピアッサーを握らせて、璃子は口角をあげるだけの笑みをうかべたのだった。おれはまだ穴があいていない耳輪の一部にピアッサーを当てがい、手の震えをこらえてから、一気にピアッサーを押しこんだ。んん、と璃子が呻いたのと同時に、ばちん、と音が鳴って、璃子の耳に穴があいた。ピアッサーを引くと、璃子が慣れた手つきで穴があいたところに残されたプラスチックの部品を取り除いた。その下には銀色のファーストピアスがすでに装着されていた。そして、ファーストピアスの隙間から血が淡くうかびあがってきた。手から力が抜けて、ピアッサーが床に落ちた。喉の奥が冷たくなっていくような感覚とともに、手も足もすくんで、おれはその場から動けなくなった。傷口となったピアスホールに触れた璃子の爪の白い部分に血がにじんで汚れていく。からだが動かないわりにあたまはいやに冷静で、璃子が爪を切っていないことと、ベッドの横にあるグランドピアノに埃がかぶっていることに気づいていた。
そのあとどうしたのかは覚えていない。さいごはたしか、早く逃げて、と璃子が慌てだして、ほとんど追いだされるようにおれは部屋から帰された。アパートの建物を出るときに、背の高い、璃子の部屋でかいだのとおなじ煙草のにおいがする男とすれ違った。
楽譜の裏にスティックのりを滑らせていく璃子の耳を、気づかれないようにそっと確認する。あのときとは違って、璃子の耳にはひとつもピアスがつけられていない。おれがピアッサーをあてた左耳の耳輪も穴がふさがっているらしく、瘡蓋もなく綺麗だった。
よかった、傷痕になっていなくて。
ほっとしそうになったのを慌てて打ち消して、それはいけないことだと言い聞かせる。傷痕が残っていないからっていいわけがなかった。おれはこの手で、璃子を傷つけたのだから。こんなことまで記憶の奥底に埋もれさせてしまえるなんて、じぶんが信用ならなくて悔しかった。ピアッサーの針で肉を突き破った感覚も、しばらく覚えていたはずなのに、いまはもう手から消えてしまっている。
「なんのはなししてたっけ」
もうすこしで台紙貼りが終わるというところで、璃子は口をひらいた。
「あ、バンド。やってるの?」
「やってたけど、こないだ辞めた」
「え。なんで?」
「ちょっと、いろいろあって」
「いろいろって?」
「うん……いろいろ」
なにそれ、と笑いを吹きだすようにつぶやいて、璃子はまた黙る。無言の時間から抜けだしたかったはずなのに、バンドのことはなんとなく言えなかった。バンドを抜けたのはほんとうにしょうもない喧嘩がきっかけで、そんなことで音楽をやめてしまったなんて馬鹿げているし、璃子が聞いたら呆れるに決まっていた。
台紙貼りが終わると、璃子は完成した楽譜ともとの楽譜が入ったファイルを抱きかかえて、一度隣の家に帰っていった。おれは深く息を吐いて、ベッドに仰向けに寝転がった。背中になにか当たった感触がして、すこしからだをうかせて右腕を差しこむと、携帯電話があった。寝返りをうって携帯電話を掴む。バンドスコアを返すのは授業で会ったときでもいいかと、北上にメールを打った。画面の上部の時計を見ると、もう十五時になっていた。おれは起きあがり、おふくろがきのうのうちに箪笥から引っぱりだしていた喪服に袖をとおした。大学の入学式に着ていくスーツを買ったときについでに揃えていた喪服は、一度も着ていないのに箪笥のにおいが染みついていた。
十五時半になると、おふくろが呼んだタクシーが家のまえにやってきた。後部座席に乗りこもうとすると、すでに黒いドレスを纏った璃子が乗っていた。濡れたままだった髪は乾かされて、お風呂に入るまえとおなじように毛先が内がわにむいていた。メイクもしているらしく、さっきよりも目鼻立ちがはっきりとしていて、睫毛も長くなっている気がする。綺麗だな、とおもった。璃子はノースリーブでむきだしになっている腕を支えるように、もう片方の手を添えた。
「……上着、着る?」
ピアスのことのせいで口をきくのがすこし怖くなってしまって、ことばではなく文字をひとつひとつ発音するような、たどたどしい言いかたになってしまう。
「大丈夫。ありがと、シゲ」
おれを一瞥して、璃子は車窓に目をむけた。
「あ……」
璃子が声を漏らして、車窓のへりに手をあてる。ぽつ、と雨粒がひとつふたつと窓にあたって、雨の痕跡になった。
「降ってきたね」
予報どおり、と璃子がつぶやいた。助手席におふくろが傘を持って乗りこみ、タクシーは葬儀会館にむかって走りだした。雨足は強くなっていく。璃子も、おふくろも、おれも黙ったまま、雨に濡らされつづける窓と背後に流れ去っていく街を眺めていた。
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