3人が本棚に入れています
本棚に追加
7:58 a.m. morning
目をとじたら着信メロディーが鳴った。その曲が「月の光」という名前であることを、いまのいままで忘れていて、そしてたったいまおもいだした。電子音に変換されて安っぽい響きになってしまっているけれど、ほんとうはクラシックの曲で、たしか璃子が、水面にうつる月の光がゆらゆら揺らめくだけの、ただ美しいだけの音楽だよ、と言っていた。
だからあんまりすきじゃないんだよね、ドビュッシーって。よくわかんなくてさ。
そう言っていたのに、璃子からのメールの着信音をこの曲にした理由はなんだったかおもいだせない。それくらい、長いあいだこの着信メロディーを聞いていなかったのだった。
すこし寝返りをうって、枕もとに置いていた折りたたみ式の携帯電話を掴んだ。暗い部屋のなかで、着信があったことを知らせるランプだけが青く点滅している。ほかのひとはデフォルトの白だけれど、璃子から連絡がきたときだけは青色に光るように設定している。これにはちゃんと明確な理由がある。璃子のすきな色が青色だからだ。璃子は海がすきだった。携帯電話をひらく。画面が明るすぎて目の奥が痛くなるような、くらくらするような感覚におもわず目をとじて、手のひら全体でそっとまぶたをおさえた。
うっすらとまぶたをあけて、すこしずつ画面の明るさに目を慣れさせてから新着メールをひらく。
〈明日ピアノ弾くから来て〉
ひさしぶりに連絡がくる予感はしていたし、内容もきっとそういうことだろうなとはおもっていた。どこで、が抜けているのは、書きたくなかったからなのだろう。どっちにしろ、あしたの行き先は決まっているから、「分かった」とだけ打って返信した。送信ちゅうのバナーが表示されて、すぐにもとのメール画面に戻る。璃子はいまどこにいるのだろう。もうこっちに帰ってきているのだろうか。いや、帰ってきているのだとしたら部屋の窓をあけて直接話そうとするはずだから、まだなのか。
携帯電話をとじる。光源がなくなって、さっきよりも部屋の暗さが際立った気がする。夜だった。どこにもいけない、闇に足をとられるような、どうしようもない夜だ。携帯電話の液晶画面をつける。午前一時十二分。メールを送ってきたということは、璃子も起きているのだろう。ふたたび携帯電話をひらいてアドレス帳から璃子の電話番号を探す。
けれど、とちゅうでやめた。なにを話せばいいのかわからないし、璃子にはすこしでもいいから眠ってほしかった。おれですらうまく眠れないのだ。璃子はもっと、眠れないでいるはずだ。
画面をひらきっぱなしのまま携帯電話を置いて、天井を見た。しばらくすると携帯電話の画面が消えて、また部屋が暗くなった。
ふと目をあけると、外からスーツケースのタイヤがコンクリートに擦れる音が聞こえた。璃子だ、とまだ寝ぼけているのにあたまのなかでそうはっきりとおもって、寝間着のジャージのまま、髪も梳かさず靴下も履かずに薄暗い部屋を飛びだした。こんなことがまえにもあったような気がしたけれど、具体的にいつのできごとかはおもいだせなかった。
裸足でスニーカーをつっかけて、玄関をあけた。ちょうどそこにはスーツケースをひいている璃子がいて、急にこちらをむいて立ちどまった。璃子はスーツケースの持ち手から手を離して胸をおさえる。
「びっくりしたあ、シゲか」
「あ、ごめん。……えっと、おかえり」
「ただいま」
あくびをこらえようとしたのか、璃子は目をぎゅっとつむって下をむいて、それからすぐに顔をあげた。さいごに会ったときは胸のあたりまであったはずの髪が、肩につくかつかないかくらいの長さに切りそろえられている。
「夜行バス?」
「うん。もう、まえの席のひとがすっごいシート倒してきてさ、ぜんぜん寝れなかった」
最悪だよほんと、とつぶやきながら右耳に髪をかける。一目では気づかなかったけれど、髪の毛は焦げ茶色に変わっていて、パーマでもあてているのか内がわに軽くウェーブしていた。それだけでおれがよく知っている高校生までの璃子ではなく、女子大生という感じがした。服も、白いタートルネックのニットに黒とグレーのチェック柄のプリーツスカートという清楚な組みあわせでいままでよりも大人っぽいなとおもう。
「朝ごはんたべた?」
「おれ? は、まだだけど」
「じゃあいっしょにたべよう。うち、あがりなよ」
「え……」
「嫌?」
璃子が首をかたむけて、おれの目を覗きこむ。
「そういうわけじゃないけど……いや、こんなときにわるいよ」
「いいの」
璃子はそのままの表情で口角だけをあげる。この表情はむかしから何度も見ている。この顔のときの璃子におれはなにも言えないし、なにか言ったところで璃子は聞いてくれない。
「あがって」
「うん……」
すなおに従うことにして、立ちばなしを終えてようやく玄関から出て扉をしめた。璃子もじぶんの家のまえまで行って、扉に鍵を差しこんだ。
璃子はただいま、おれはお邪魔しますと言って家に入った。璃子の家にきたのはかなりひさしぶりだったけれど、靴箱のうえに置いてある花瓶にきちんと花が飾られているのも、廊下とリビングの境に青いビーズの暖簾がかかっているのも、リビングの家具の位置も、なにも変わっていなかった。リビングに入るなり、璃子はなにか見つけたのか暖簾をくぐったところでスーツケースを置いて、ダイニングテーブルにむかった。どうやら書き置きがあったらしく、黙読するとスーツケースの横で突っ立っていたおれのほうに顔をむけた。
「会館に泊まってるってさ。わたしは四時に行けばいいみたい」
「へえ。けっこう時間あるんだな」
「だね」
朝ごはん用意するね、と璃子はキッチンにむかった。おれはこれといって料理もできないから、テーブルで待っていることにして椅子にすわった。キッチンは対面式で、コーヒーメーカーに水を入れたり、冷蔵庫のなかから食材を出してきたり、リビングがわにいても璃子がなにをしているのかがよく見える。手際よく支度しているのを見ると、調理器具や食器の場所もむかしと変わっていないのだなとおもう。
璃子がフライパンで炒めものをしている。ベーコンが焼ける香ばしいにおいが漂ってきた。ふと、隣の部屋のふすまがすこしあいていることに気づいた。そのすきまから、むかしからずっとある仏壇が見えた。
「お線香あげていい?」
「え? なんて?」
調理をつづけたまま、璃子がこちらに顔をむける。
「お線香、あげてもいい?」
「ああ、おかあさんに? ちょっと待って」
かち、とコンロの火をとめる音とともに油がはじける音が弱まって消えていった。フライパンから白い丸皿にベーコンをうつすと、璃子はキッチンから出てきて隣の部屋に通じるふすまを完全にあけた。璃子につづいて部屋に入る。
リビングの隣は和室で、大きな仏壇と背の低い箪笥以外はなにもなくてがらんとしている。リビングと比べると生活感がなくてあまり使っていなさそうな部屋だけれど、つねに掃除してあるのか埃っぽさはない。璃子は仏壇のまえに正座して、仏壇のひきだしをあけてマッチ箱と線香の束を取りだす。
「はい」
線香を二本渡されて、折らないように右手の親指と人差し指で慎重につまんで受けとった。
「あいちゃんは会館にいるし、まだいいよね」
火、つけるよ、と言って璃子はマッチを擦った。ぼ、と短い音をたててマッチ棒に火がついた。おれはマッチでうまく火をつけられないけれど、璃子はむかしからやっているせいか細くて綺麗な指で上手につける。爪は変わらず短い。深爪なんじゃないかっておもうくらい。それだけで、ピアノを弾いている指だなとおもう。璃子がマッチ棒の先を線香に近づけて火をうつしたので、線香を振って火を弱めた。璃子もマッチ棒を振って火を消す。線香の煙のにおいとマッチの火が消えたあとのにおいが和室にたちこめる。
璃子の隣に正座して、鈍く光っている黒色の線香台に線香をたてた。細い煙が天井にのぼっていく。璃子と顔を見あわせて、それから、目をとじて手をあわせた。
「おかあさん、和音くんがきてくれたよ」
下の名前で呼ばれたことにびっくりして薄く目をあけてしまったけれど、すぐにまぶたに力を入れた。
「あいちゃんのこと、これからよろしくね」
それだけ言うと、璃子は黙った。リビングの鳩時計の仕掛けが動く時間になって、パッポーという字幕がうかんできそうなつくりものめいた鳩の声が聞こえた。璃子が身じろぎするを気配を感じて目をあける。璃子はすっと立ちあがってスカートの裾を尻に撫でつけ、時計の小さな扉から出てきている白い鳩を見ている。
「ありがとね」
振りむいて、璃子が言った。
「なにが?」
「お線香」
「ああ、ここにくるたびにお線香あげてたから。おふくろが」
「そういえばそうだよね。シゲを迎えにきて、帰るまえにいっつもお線香あげてくれてた」
呼びかたがあだ名に戻って、さっきのはおかあさんと話していたから下の名前で呼んだのだと気づいた。たしかに、名字の茂山からとったシゲというあだ名は中学に入ってからつけられたものだから、璃子のおかあさんはこのあだ名を知らない。
飛びだした鳩が時計の小屋に帰っていく。起きてからだいぶ時間が経った気がしていたけれど、まだ七時だった。
「戻ろう」
そう言って璃子は和室を出た。その言いかたがあまりにもぽつんとしていたから、一瞬「戻りたい」と聞き間違えたし、リビングに戻るという意味だともわからなかった。
璃子が調理を再開したので、ふたたび椅子に腰をおろした。これといった大きな変化がないリビングでこうやってすわっていると、懐かしさであたまの奥のほうがくすぐったくなる。璃子のおかあさんがいたころのことはおぼろげで、うまくおもいだせないことのほうが多いけれど、璃子とふたりでここにすわって、ケーキが焼きあがるのを待っているのがすきだった。おかあさんがいなくなってからも、おばさんが食器を洗う音を聞きながら、璃子とあいちゃんとおれの三人でしょっちゅう遊んでいた。
海沿いの街を吹く風が潮の香りをさらっているようなあたりまえさで、この家にはむかしから悲しみが流れている。幼いころはよくわかっていなかったけれど、いつのまにか璃子のおかあさんがいなくなって、あいちゃんが産まれて、おばさんがいるようになって、おふくろが仕事から帰ってきておれを迎えにくるときに仏壇に手をあわせるようになった。理解が追いついたのもいつのまにかだったけれど、璃子のおかあさんはあいちゃんを出産したときに亡くなって、おばさんはあいちゃんの乳母で育ての親でもあり、のちに璃子たちのおとうさんと再婚したのだった。
熱されたバターの重たいにおいがする。すこし首をのばしてフライパンを覗き見ていると、璃子がボウルにといた卵を流しこんだ。スクランブルエッグをつくるらしい。トースターから焼きあがったパンが飛びだす。璃子がフライパンを傾けて皿にスクランブルエッグをうつし、トーストも皿にのせる。朝食が完成したらしい。
「これ、テーブルに置いてくれる?」
キッチンがわから差しだされたふたつの皿を受けとってテーブルにならべる。璃子はまだこちらがわには回ってこずに、あ、あ、と慌てるような声を出しながらなにかしている。
「どうかした?」
「ん、おかあさんのごはん盛ってる」
キッチンのほうを覗きこんでみる。璃子の手もとには仏壇のごはん入れがあって、そこにはスクランブルエッグが白ごはんのように盛られていた。おもわず吹きだしてしまって、しまったとおもってすぐに口をむすぶ。
「いいよ、笑っても。おかあさん怒らないし」
璃子はひきつづきスクランブルエッグをうずたかく盛ろうとスプーンで表面をぺたぺた叩いて固める。笑いをこらえたのはおかあさんのことが理由ではなかったけれど、いまは頬骨があがってしまうのを許すことにした。いまうかんでいるであろうじぶんの表情とは反対に、鼻の奥がつんと痛くなった。よし、と璃子がつぶやく。スクランブルエッグの盛り具合に納得したらしく、ごはん入れを仏壇まで持っていった。
璃子は和室から戻ってくると、キッチンからコーヒーが入ったマグカップをふたつ持ってきて席についた。ふたりしかいないのだからむかいあわせですわってもよかったはずなのに、先にすわっていたおれにあわせたのか璃子はむかしの席順を守って左隣にならんですわった。料理を受けとる役目があるから璃子の席はキッチンのすぐそばで、もてなされるがわだからおれは璃子の隣の、キッチンから離れた席にすわることになっていた。
「サンキュー」
「おいしくできてるかわかんないけどね。さ、たべよたべよ」
手をあわせて、いただきます、と言った声が、示しあわせたわけでもないのに綺麗に重なった。璃子がテーブルに置いてあったリモコンをとって、おれのからだを避けるようにしてリモコンをテレビにむける。なにも変わっていないとおもっていたけれど、テレビは地デジ化があったからさすがに薄型のあたらしいものに買いかえられていた。もしかしたらほかの電化製品も不調があったり型落ちしたりしていて、気づいていないだけであたらしいものになっているのかもしれない。
「えー、夕方から雨だって」
ニュース番組の終盤の天気予報のコーナーを見て璃子がうんざりといった声を出した。天気予報の最高気温と最低気温をながめながら、トーストにベーコンとスクランブルエッグをのせてかじる。スクランブルエッグのバターの香りが口にひろがった。そのあとからベーコンとトーストの味があわさる。璃子がつくった朝食は調理ちゅうのにおいから想像したとおりの味だった。
「会館まで歩くのやだなあ」
「そんなに遠くないじゃん。せいぜい二十分とか三十分とかじゃないの?」
「それでも嫌なの。傘さすの下手だし」
「そうだっけ?」
「そうだよ。半身ずぶ濡れになるんだもん」
記憶にない情報にピンとこなくてうまく反応できないでいると、やだなあ、ともう一度ため息の混ざった声で璃子が言った。がんばっておもいかえしてみても、傘をさしている璃子は記憶のなかにいなかった。小中高とおなじ学校に通っていたから、学校の行き帰りでいっしょになったことはいくらでもあったはずなのに。
天気予報が終わって、星座占いのコーナーがはじまる。一位は魚座だった。璃子の家にもおれの家にも魚座のひとはいない。つづいて二位から五位が発表される。三位に璃子とおれの星座である蟹座がランクインしていた。ラッキーアイテムは辞書らしい。
「辞書かあ。きょうはさすがに持ってないなあ」
「いつもは持ってるの?」
「学校のときはね。英語とかじゃなくて、音楽記号のだけど」
「ふうん」
辞書なんてここしばらくひらいていない。使うにしても、せいぜい電子辞書でちょっと英単語を調べたりするくらいだ。そういえば、けさみた夢に辞書が出てきたなとおもって、夢をみたことをおもいだした。辞書を探す夢だった。夢だと自覚していた気がするのに、なんで辞書なんてしまっていなさそうなひきだしのなかをひっくり返していたのだろう。しかも、おもいかえせばかばんのなかに電子辞書があったのに、ずっと紙の辞書を探していた。変なものだなとおもう。璃子はじぶんの星座が出たあともランキングを目で追っている。きっといまこの場にいないひとたちの順位まで確認しているのだろう。こういう占いは結果よりも、じぶんのをふくめて、だれが何位なのかを見ているのがたのしい。
番組が切り替わった。同時に鳩時計の鳩が飛びだした。あの時計はずっとこの家にある。だれから聞いたか忘れてしまったけれど、鳩時計は璃子のおかあさんの嫁入り道具だった。家のかたちをしていて、鳩が出てくる扉と、文字盤と、振り子がついている鳩時計。「大きな古時計」みたいな厳かな雰囲気はないけれど、一時間ごとに仕掛けが動くからか、それほど大きいものでもないのに存在感がある。
いつか、この鳩時計も壊れて動かなくなるかもしれない。もしそうなったときは、どうするのだろうか。ショートケーキからいちごをつまみあげるように、取り外して、そこに鳩時計があったことすら忘れてしまうのだろうか。
暗い声色の鬱陶しいナレーションが入ってから、大女優の訃報が流れた。璃子がチャンネルを変える。いまはテレビで番組表が見られるのに、璃子はリモコンの数字ボタンをいちいち押してザッピングする。ほんの一瞬映っただけの場面で見るか見ないか判別して、やがてクラシック音楽の番組にとどまった。緑色で、ふくらみがなくてすらりとしたドレスを着た女のひとがグランドピアノを弾いていた。画面の右上に「ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ」と表示されている。聞いたことがあるような気がしたけれど、いつどこで聞いたのかまではおもいだせない。
「いい曲」
璃子がつぶやく。
「すきなの?」
「そうでも。けど、はじめていい曲っておもった」
演奏が終わり、テレビのなかで拍手がおこる。画面が切り替わり、若い男性アナウンサーが癖の強い口調で曲の解説をしゃべりはじめる。
ええ、亡き王女のためのパヴァーヌというこの曲、実は亡くなった王女さまに捧げるための葬送曲ではなくてですね、いにしえの、スペインの宮殿で小さな王女さまが踊ったような行列舞踏曲、という意味なのです。
へえ、ととくに興味があるわけでもないのにおもう。璃子が淹れてくれたコーヒーを飲む。もうブラックでも飲めるようになったのに、むかし飲んでいたときとおなじように牛乳と砂糖がたくさん入っていて甘ったるかった。マグカップも、たぶんむかしとおなじものだ。ちいさいころからたべるのが遅い璃子はまだトーストをかじっている。璃子のマグカップをちらと覗いてみる。こっちのマグカップに入っているのとおなじような色合いのコーヒーが入っていた。
ラヴェルはこの曲について自ら酷評しているのでありますが、晩年、記憶障害を患ってからこの曲を聞いて、とても美しい曲だ、だれがつくった曲なのだろう、と語ったという逸話があります。
「きょうは、なに弾くの?」
聞いてもわからないだろうなとおもいつつ尋ねてみる。
「とりあえずショパンかな。あいちゃんすきだったし。けど、まだ決めてない」
璃子はトーストの耳を口に押しこんで、指先についたパン屑を皿のうえに落とす。しばらく咀嚼して飲みこんでから、マグカップの持ち手に指をかける。
「決めるの手伝ってくれる?」
「え。でもおれ、クラシックはわかんないよ?」
「選んでるの、見てるだけでいいからさ。だれか……いや、なんでもないや」
なにか言いかけたのをやめて、璃子はマグカップに口をつけた。
だれか、なんだったんだろう。
璃子は言いさしたことなんてもう忘れてしまったかのようにテレビを見ている。番組ではさっきの曲の弾きかたの解説をやっていて、ピアノの鍵盤とピアノを弾いている手がアップで映しだされていた。
ごちそうさま、と璃子が手をあわせる。おれもまだ言っていなかったごちそうさまを言った。璃子が食器をさげる。片づけくらい手伝わないととおもって椅子からお尻をあげてみたものの、璃子はあっというまにキッチンに移動していて、食器を洗いはじめていた。
「璃子」
「え?」
気の抜けた声とともに、璃子が顔をあげた。スポンジを持った手がとまっている。
「……ああ、わたし?」
なんだその反応は、とおもう。
「そうだけど?」
「シゲってわたしのこと下の名前で呼んでたっけ?」
「呼んでたとおもうけど」
「そうだっけ」
「うん」
「そうなんだ」
「……うん」
そう改めて聞かれると自信がなくなってくる。幼稚園や保育園のころは男女関係なく下の名前で呼んでいても、小学生や中学生になると異性のことを名字で呼ぶようになったりする。だから、璃子と呼んでいなかったというのもない話ではないだろうし、もしかしたらほかの女子とおなじように名字で呼んでいたかもしれない。考えてみる。さいごに会ったのは、たしか璃子の引っ越しのときだから高校を卒業した三月だ。引っ越し当日だった。璃子や璃子の家族に頼まれたわけではないけれど、おふくろに手伝ってこいと尻をたたかれるかたちでインターホンを押した。家のまえにはすでに引っ越しセンターのトラックが停まっていた。璃子は要領がいいから引っ越し当日に慌てて荷造りをするようなことはなく、部屋には整然と段ボールがならんでいた。家具はあいちゃんがそのまま使うことになっていたからほとんど動かされていなかったけれど、勉強机が一台と木製の二段ベッドのうえの段がなくなっていた。ピアノには緩衝材で覆うなどの動かす用意がされていなくて、聞いてみると引っ越し先がピアノ科専攻の奨学生用の部屋で、ピアノは備えつけられているのだと言っていた。けっきょく、手伝うといっても段ボールを玄関先におろすくらいのことしかすることはなくて、トラックが出発したあとは璃子のおとうさんが運転する車であたらしい街へと発つ璃子を見送った。
あの日は、璃子のことをなんと呼んでいたのだろう。できごととして引っ越しの日のことは記憶しているけれど、なんのはなしをしたとか、細かいところまでは覚えていなかった。もしかしたら、璃子のことは一度も呼ばなかったのかもしれない。
「で、なんだっけ? なんか言おうとしてたよね?」
「あ、なんか手伝うことないかなっておもって」
「ううん……とくにないかな。ごめんね、待たせて」
さっさと洗っちゃうから、とふたたび手を動かしはじめる。ほんとうは謝らないでほしいのに、むしろこっちがなにもしてないことを謝りたいのに、璃子にごめんと言わせてしまって自己嫌悪した。
璃子は言ったとおりすぐに食器を洗い終えてキッチンから出てきた。うえの部屋に行くことになって、璃子のうしろをついて階段をのぼった。ここぞとばかりにおれが持つと宣言して持ちあげたスーツケースはおもったよりも軽くて、片手で持ちあげられるくらいだった。二階には三つ部屋があって、それぞれ璃子のおとうさんとおばさんとあいちゃんの部屋にあてられている。璃子は迷わず、もとはじぶんも過ごしていたあいちゃんの部屋の扉をひらいた。部屋のレイアウトはさすがに変わっていて、引っ越しのときは璃子が持っていく家具がなくなって不自然なスペースがあったのが、いまは隙間がなくなっている。扉から見て右がわの壁にあった勉強机は扉のすぐ横に動かされていて、勉強机があったところには白い枠のあたらしいベッドが置かれていた。扉の正面にある窓の下には窓枠よりも低い、これもまたあたらしい白いクローゼットが設置され、もともと窓の左半分を隠すように二段ベッドが置いてあったところは本棚に変わっている。けれど、左がわの壁にそって白いレースのカバーがかけられたアップライトピアノが置かれているのは変わらなかった。部屋の中央に敷かれた水色の丸いカーペットはむかしからこんなだったか覚えていない。
階下から鳩時計の仕掛けが動く音がかすかに聞こえた。璃子はあいちゃんのベッドのまえに膝をついて、へりに肘をのせた。それから綺麗に整えられた布団を撫でる。
「あいちゃん……」
まるで、温度を与えているような、ゆっくりとした優しい手つきだった。主を失った家具や私物は、かたちは変わっていないはずなのになぜだか色褪せて、冷えきってしまっているように見えた。この部屋だって掃除してあるはずなのにどことなく埃っぽいのは、いるべきひとがいない寂寥感のようなものが降り積もりつつあるからなのかもしれない。
璃子は立ちあがると、こんどはピアノのまえまで行き、カバーをあげて、黒い蓋をあけた。おれも部屋に入り、勉強机の横にスーツケースを置く。勉強机とベッドのあいだに丸い椅子がひっそりと置かれているのを見つけて、これはむかしはなかった気がするとおもいつつ、カーペットのすぐ近くまで引きだした。
そのとき、ピアノの音が鳴った。
最初のコメントを投稿しよう!