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月と鼈と雨と無知
知れば知るほど、世界が鮮明に見えてくる。
鮮明であればあるほど、見たくないものが見えてくる。
私は、何を知っていただろう。
私はどうして、何も知らないのだろう。
私はまだ、何も知らない。
『台風19号は未だ猛威を振るっています』
昨日はすごい嵐だった。
傘が壊れて、立っているのがやっとなほどの風と雨に打たれながら帰った。
途中で看板が飛んできたり、木が倒れていたりして、正直死なないだけよかったと思えるほどだった。
今朝はもう台風が過ぎ、外を見れば散らかった落ち葉を掃除する人や、干せなかった洗濯物をかけている人が見える。
私も少し散歩でもしようかと、適当な服を着てアパートを出た。
曇りない青空の下、いつもより山がくっきりと見える。
私は橋から小川を見下ろした。昔はよくこういう川で川遊びをした。
ふと脇に目をやると、鳥が川で溺れていた。
私はそれを見て、少しだけ昨日の事を思い出していた。
通り行く人々は、みんな見て見ぬふりをする。
「これも自然の摂理なんだ」
「弱肉強食の世界だね」
あちこちから、そうつぶやく声が聞こえる。
本当にそう思っているのだろうか。
関わりたくないから。責任が持てないから。川に入りたくないから。濡れたくないから。
自分の行いをまるで正しい事であるかのように説明しているだけじゃないのか。
これが自然の摂理であるなら、自然と戦ってはいけないのか。
これが弱肉強食の世界なら、私たちが住む世界はここじゃないのか。
疑問に思っているのは私。
ここにいて、違う世界に住んでいるのは私。
周りの人たちの、悪気のない悪意に吐き気がした。
昨日は自然の恐ろしさを知った。今日は、自然の残酷さを知った。
最も恐ろしくて、最も残酷なのは自然でなくてはならない。
裏を返せば、それは私たちであってはならない。
私たちは、戦うものでなければならない。
自然とは別の世界に身を置くものとして。
じゃああの鳥を救うのは?
答えは、私だ。
少しだけ、怖かった。強い流れに逆らえず、この手を放してしまいそうで。
「これに捕まって!」
「みんなで引き上げよう!」
私は、川の上から見ていたおじさんが垂らしてくれたロープに捕まり、何とか小川から出ることができた。
溺れていた鳥は、私の腕の中で凍えるように震えている。
私は鳥を、もらったタオルに包んで、抱えたまま近くの公園に移動した。
日の当たる芝生はまだ濡れていたが、今更気にせずそのまま仰向けになった。
おなかの上に乗せたままだった鳥は、タオルから顔を出して一緒に空を眺めてる。
もうしばらくしたら、この鳥は元気になって飛び立っていくだろう。
それまでの間、もう少しだけ。
知ったばかりの、この暖かさを私に教えてよ。
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