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深海
船が沈んだ。
私は客船で、これから始まる演奏会の最終調整をしている所だった。
突然船全体に走る衝撃。瞬く間に船は絶叫が飛び交う地獄絵図と化した。
救命ボートへ向かう最中、私は甲板で足を滑らせた。
手すりにしがみついた私は必死に助けを求めた。しかし、私の声は外の音にかき消され、届くことはなかった。
そしていよいよ力尽き、私は海へ放り出された。
船が沈む際に生まれるエネルギーは凄まじい。私は抗いようもなく、深い海へと沈んでいった。
泳いでも、泳いでも水面へは届かない。
私の体は深く、深く沈んで行く。
美しい珊瑚たちを脇目に見た。
あたりはまるで雪が降っているかのように、ピンク色の粒で覆われている。
ちょうど珊瑚の産卵の時期だったらしい。
珊瑚の卵を求めて、多くの魚達が寄ってくる。
黄色い魚や青い魚。赤い魚や、銀色の魚。
色とりどりの魚達が、この豊かな場所に集まってくる。
彼らの織り成す風景は、光に包まれて、まるで桃源郷のように幻想的だった。
私もあそこに行ってみたい。あの場所で、魚達と一緒に踊ってみたい。
手を伸ばそうと思ったが、届かなかった。届くはずもなかった。後少しなのに、その後少しで届かない。
いつもそうだ。後少しのところで、私の手に入れたい物は去ってしまう。あっさりと誰かに奪われていってしまう。
私が喉から出るほど欲しかったそれは、目の前でまるでゴミの様に捨てられてしまうのに。それをもう一度拾う事すら、私には叶わないのに。
言う事を聞かない私の体は、さらに深く沈んで行く。
徐々に薄暗くなっていく最中、うっすらと声が聞こえてきた。
どこまでも響き渡るような、それでいて私を優しく包み込むような声。
そして現れたのは、見上げるほどの巨影。
クジラの群れだ。
親子だろうか、一回り小さなクジラを抱えるように、大きなクジラは私の隣を過ぎていく。
その巨大な瞳を見つめると、クジラの親は応えるかのように大きな声を上げた。
次々と仲間達がやって来る。きっと皆、家族のように仲がいい仲間たちなんだろう。
そして仲間が集まると、彼らは螺旋を描くように、私の元を離れて、上に上に泳いでいく。
あれほど余裕のある仕草で、人々に感動を与えられる。
その想像を絶するほどの雄大さに、ほんの少しばかりの嫉妬を覚えた。
泣くほど悔しいのに、どこか清々しさまであった。きっと私は、彼らのようにはなれない。
私の体は、さらに奥深く沈んで行く。
ついに、私の体は砂の上に横たわった。
何も見えない、何も聞こえない。もはや光は届かず、時折体に魚か何かがぶつかるのがわかるだけ。
もしかしたら、巨大な魚がすぐそこにいるかもしれない。でも、不思議と何も怖くはなかった。
こうして横たわっていると、だんだん眠くなってくる。いっそのこと、もうこの深い海のそこで眠ってしまおうか。
暗くて冷たい海底の砂で、私は何も考えずに眠った。
「おはよう」
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