End of the World

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End of the World

 光太郎が脱サラして移動式コーヒーショップを始めたのは、今から五年ほど前だ。  軌道に乗るまでは金銭的に苦しい日々が続いたものの、今ではようやく固定客もついて、一般的なレベルの生活ができている。  春風が吹くと、ワゴン周辺に漂う珈琲の香ばしさが人通りの落ち着いてきたビル街へ運ばれる。ランチ後の時間帯は昼食帰りの会社員が続々と珈琲をテイクアウトしていくのだが、季節柄、微笑ましい光景をよく目にするようになった。 「ちわっす。マスター、一昨日ぶり」 「いらっしゃいませ。今日は……お一人じゃないんですね」  顔馴染みのサラリーマンが、若々しい青年を連れてやってきた。真新しいスーツをまとう青年は、ペコリと光太郎へ会釈する。  そんな彼の肩を、先導する男が気安く抱いた。 「そうそう、こいつ俺の部下。マスターの珈琲教えてやろうと思ってさあ」 「ありがとうございます。いつもので?」 「おう。こいつも同じで」 「先輩、僕ココアしか飲めないんスけど」 「はあ?」  眉を寄せた男は、抱き寄せた肩をポフポフと叩いている。 「だーからお前はナヨナヨしてんだ。ここの珈琲飲んでみろ、絶対いけっから」 「ココアと軟弱さは関係ないと思います」 「るせえ」  力関係はともかく、後輩のほうが口達者だ。  光太郎は砕けていて和やかな会話に時折参戦しつつ、ギリギリ足りたミルクを多めに注いだカフェラテを青年へ差し出した。 「どうぞ。まずは飲みやすいものから挑戦するのがいいと思いますよ」 「あ、ありがとうございます」 「先輩さんはエスプレッソですね」 「サンキュ」  カップを渡し、代金を受け取る。他の客がいないからか、二人はその場で珈琲に口をつけた。 「結構いける……」  青年が思わずといったふうに呟くと、男は得意げに口角を上げる。 「だっろ?」  再び肩を叩かれた青年は顔をしかめた。 「やめてください。これパワハラですよ、っていうか痛いんですよね」 「そんな睨むこたねえじゃん……」  しゅんとする様子が妙に愛嬌を持っており、つい声を出して笑ってしまう。  するとカフェラテを半分ほど飲んだ青年が、光太郎に目を向けた。 「僕、移動販売車って初めてです。なんで店舗持たなかったんですか?」 「おいゆとり……お前には遠慮とかねえのか……?」 「え、訊いちゃ駄目なことでした?」  先輩は気を揉んでいるが、後輩はキョトンと目を丸めている。  吹聴することでもないが隠す必要もなく、光太郎は純粋な好奇心へ答えを返した。 「人を探してたんです」 「へえ、人を……」 「僕も元はサラリーマンだったんですけどね。毎日会社と家の往復ばかりで……これじゃあ探せないし、見つからないと思って」 「だから移動ショップですか」 「ええ。それでも全国津々浦々を巡るわけにはいかないんですが……社内に缶詰状態よりは、出会える確率が高いかと」 「ロマンチックだなあ。マスター、それって女?」  馴染みの男は小指を立て、ニヤニヤと唇を歪めている。古臭いその仕草に苦笑した光太郎だったが、否定はしなかった。 「離れ離れになった恋人です」  軽快な口笛で囃し立てる男を、青年は横目で引き気味に見ている。  まるでコントか何かのようでもっと見ていたくなるが、車内に置かれた時計の針はそろそろ午後一時に迫ってきていた。 「ところで、お時間大丈夫です?」 「ん? おあ、そうだな。帰るぞ」 「はいはい。マスター、また」 「はい、は短く一回で! ……待てって!」 「ありがとうございます、また来てくださいね」  急ぎ足で去って行く後輩を追いかける男は、偉そうに振る舞っているが尻に敷かれているようだ。  仲良さげな姿に癒され、ふうと一息つく。 「さてと」  午後の始業時間を迎えれば、ほとんど客は来ない。今日はこのまま直帰する予定なため、光太郎は自分用の珈琲を淹れて飲みながら片づけ始める。  すると、タッタッタッと走る足音が聞こえてきた。 「マスターっ!」  光太郎と揃いのエプロンをつけ、コンビニ袋を抱えた青年が息を切らせて駆け寄ってくる。彼はカウンター部分へ齧りつき、悲壮感たっぷりの表情で光太郎を見上げた。 「お、遅かったです……?」 「そうだな。牛乳一本のお使いにどんだけ時間かかってんだ」 「だ、だってだって! あそこのコンビニ、成分調整牛乳しか売ってなくて!」 「ゆーいーと?」 「ごめんなさい……」  唯人が両手で差し出す牛乳を受け取り、「嘘だよ、怒ってない」と笑ってやる。しかし彼はしょげ返り、成人男性のくせに妙な愛らしさのある上目遣いで光太郎を見つめた。 「今日、ここで最後ですよね?」 「ああ、そうだ」 「俺……やっぱり不採用ですか……?」 「そういや今日で一週間か」  唯人とは、数カ月前に別の場所で出店しているときに出会って今に至る。なんでも光太郎の珈琲に惚れたとかで、有り余る熱意を持って「一緒に働かせてほしい」と迫ってきたのだ。  ちょうど雑用と接客のできる人員がほしかったのと、彼が職探しをしているタイミングが合致し、再三迫ってくる勢いに根負けしてお試し期間を設けたのが一週間前。  今日が最後の日だった。 「まあ、たまの失敗が可愛いと思えるくらいにはよく働いたよな」 「はいっ、いつも言われます」 「厚かましいけど」  冗談であることをわかっているのか、唯人は「ありがとうございます」とニコニコ笑っている。しかしすぐ悲しげに目を伏せ、チラチラとあざとく光太郎を窺った。 「マスター、駄目? 俺駄目? マスターと一緒に仕事したいです……」 「んー、あー」 「でもでも、好きなのは珈琲だけじゃないですよ? マスターに一目惚れしたのは、本当ですよ?」 「そんなことも言ってたな」 「忘れないでくださいよう……」  めそめそとカウンターに顎を乗せる仕草はまるで子どもみたいだが、唯人の図体が平均より大きなせいで不恰好さは否めない。  けれど光太郎には、唯人のすることなすこと、全てが愛しく見えた。 「唯人」 「はあい。……あ」  飲みかけの珈琲を差し出してやると、目に見えて唯人の表情が輝く。美味しそうに飲む姿を眺める光太郎は笑っていたが、不意に目頭が熱くなった。  ボロリと音がしそうなほど大粒の涙が、調理台の上へ落ちる。唇が震えてうまく息ができなくなり、手の甲を口元に押し当てた。  十も年下の青年は呆気にとられたように、店主を見上げて息をのむ。 「俺が、あなたを泣かせてますか?」 「や、違えよ。なんでもねえんだ」 「好きって言わないほうがいい? マスターが嫌なら、もう絶対に言わないよ。だから泣かないで、お願い」  笑顔を仕舞いこみ、車内へ手を伸ばしてくる唯人は真剣だった。下まぶたを超えたばかりの滴を指へ滲ませ、固く唇を噛んでいる。  彼は光太郎が「嫌だ」と頷いたら二度と好意を口にしないだろうし、態度にも出さないだろう。出会って数カ月だが、光太郎にはわかる。  珈琲に目がないのも、よく働くのも、無鉄砲で真っ直ぐな好意を惜しげもなく伝えてくれるのも――あのころと同じだからだ。 「そうじゃない」  彼にいつもの柔らかい笑みが戻るよう、光太郎は唯人の指先を袖で拭う。 「ずっと、会いたい人がいたんだ」 「マスター……?」 「そいつを探すためにこの仕事を始めた。そいつの好きな味を忘れないように、珈琲を淹れ続けてきた」 「……その人は見つかりましたか?」 「ああ。だからもう、移動販売は辞めようと思ってる」  告げた瞬間、唯人の顔が悲痛に歪んだ。  光太郎に触れかけた指先は行き先を失い、拳となって引き下がっていく。  だが光太郎はその拳を両手で包みこみ、体温があることに安堵した。 「今日が来たら、お前に話そうと思ってた」 「嫌です……言わないでください。まだ、あなたといたい」  今にも泣きそうな顔は、彼がうつむくにつれ見えなくなった。カウンターに額を乗せた唯人は鼻を啜っている。  包んでいた手を離し、柔らかい唯人の髪を撫ぜた。ビクリと跳ねた幅の広い肩が、今はとても狭まって見える。  手に馴染む柔らかい髪の感触を、一体どれだけ渇望しただろう。  歳をとるごとに曖昧になっていくのは、ずっとずっと昔の記憶だ。それこそ光太郎として産まれる以前の、人生、そして死後の記憶。  それらは物心ついたときから光太郎にたったひとつの指標を示してきたけれど、薄れていることに気づいて迷いなく会社を辞めた。  いつだったか、「可能性はないに等しい」と言った不思議な存在の友人を思い出すたびに諦めかけて、どうしても諦めきれないで――ようやく、唯人と出会えたのだ。  彼は自分が「恵」であったことを覚えていない。奇しくも光太郎に一目惚れしたらしい唯人が、本当は全て覚えているのではないかと疑いもしたが、どうも違う。  とは言え今更、光太郎には唯人を手離す気が微塵もなかった。 「ここじゃなくて、俺の店で働かねえか」 「……え?」  顔を上げた唯人の頬が濡れている。生まれ変わっても治らない泣き虫に苦笑して、涙の痕を親指で拭ってやった。  あまりに痛くて愛しい記憶に縋る日々も、彼の生を願ってさ迷い探す日々も、もう終わりでいい。  光太郎はこの先を、今度こそ二人で生きていく日々にしたかった。 「お前は鈍臭いけど手先が器用だから、ラテアートの練習しろよ。きっと女の客がわんさか来るぞ」 「マスター、待って……」 「少しずつフードメニューも増やしていって、ゆくゆくは夜だけバーもやりてえな。面白そうじゃねえ?」  微笑みかければ、唯人が切ない呻きを喉で殺す。眉を寄せる表情は似合わないけれど、言葉よりも饒舌に彼の心情を教えてくれた。 「まあ、軌道に乗るまでは給料も安いけど。それでもいいなら」 「マスター」 「一緒に来ないか、唯人」  言い終えた途端、彼は電池切れを起こしたように再びカウンターへ伏せた。微かに嗚咽が聞こえ、光太郎は声を出して笑う。 「返事くれよ。俺の一世一代の告白だぞ」 「だ、ぁって、さあ……っ」 「インパクトあったか?」 「……っり、すぎて、惚れ直、……っした」  く、く、としゃくり上げて泣いていた唯人は、やがて泣き腫らして真っ赤な顔を上げる。 「……ん、行く」 「おう。安月給だって文句言うなよ」 「ふへ……俺は、あなたがいればいいです」 「そうか」 「だから……もう置いてかないで」  胸の中心にズクンと心地のいい痛みが走る。  途轍もない愛おしさが、光太郎から言葉を奪った。 「……なんてね。じゃあ俺、周り片づけてきます」  ほんの僅かに幼さの残る笑みは照れくさそうだ。唯人は濡れた顔を袖で拭い、数席だけ置いてあるテーブルと椅子をたたみにかかる。  せっせと働く長身を目で追う光太郎は、笑いも、涙も堪え切れなかった。気づくのが遅い自分に呆れ返る。  最初から唯人は、光太郎にシグナルを送り続けていたのだろう。それを「恵と同じだ」と片づけていたせいで、きっと言い出せなかったのだ。  ないに等しい可能性を実現させた愛情といじらしさを知って、これ以上彼に、何を望むだろう。 「ジョン」  決して大きくはない声だったが、唯人は椅子をたたむ手を止める。  光太郎がその背中にかけた囁きは、吹き抜けた春風が根こそぎ攫って彼の元へ届けてくれた。 「愛してる」  振り返った唯人は幸せそうに目を細める。  雑多なもので溢れた名前のない世界が、鮮やかに色づいた。
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