First Day・奇跡の朝

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First Day・奇跡の朝

「さあマスター、今日こそは真実を教えてね!」  可愛らしい胸元の赤いリボンを揺らした制服姿の少女は、恵が差し出した珈琲に三杯目の砂糖を溶かした。 「真実って言われてもなあ」  カウンター内で手持ち無沙汰にグラスを磨く恵は、五杯目の砂糖をすくう姿に苦笑するしかない。  真顔でいると威圧感があると称される恵の三白眼も、細めて垂れ下げると途端に柔和さを宿す。男らしく大きな口をへの字に歪め、広い肩を竦めてみせた。 「俺はその砂糖の量が気になって仕方ねえよ。カナコ、太るぞ」 「大丈夫、死んでるから!」 「なんで自信満々なんだ」  ――ちょうど一年前、恵は死んだ。  自分が誰で、何故死んだのかすら思い出せないまま、今は名もなきこの世界で喫茶店を営んでいる。  こぢんまりとした店内は、カウンターに脚の長い椅子が三脚あるだけで殺風景だ。テーブル席を置けるだけの空間は残っているが、今のところ模様替えをする気はない。死者の魂が暮らすこの世界では、物好きのために珈琲を淹れることしか仕事がないせいかもしれない。  二カ月ほど前から頻繁に来店するカナコは享年十七歳で、高校で新聞部に入っていたそうだ。年若い彼女は短命を嘆くより、この世界の存在を解き明かすことへの探求心に燃えている。  甘い珈琲を美味そうに飲み、彼女が広げたのは見慣れたピンクのルーズリーフだ。 「えー、まずはマスターさん。あなたはこの世界に来てどれくらい?」  唐突に演技がかったインタビューが始まる。  恵は少女の微笑ましい背伸びを払いのけることなく、手を止めて向き直った。 「今日で丸一年になるな」 「そうなの? おめで……あんまりおめでたくないか。ええと、この一年で知ったことを教えてください」 「何が聞きたい?」 「そうね……やっぱり、この世界が天国なのか、地獄なのか、かな」 「どっちでもねえな。ここは死んだ魂が、新しい身体に入るまでを過ごす場所だから」  恵の視線の先で、カナコは真剣にノートへメモをとっている。終えると顔を上げ、興味津々に恵を見つめた。 「いつ新しい身体に入れるの?」 「魂が浄化されてから、だな」 「浄化って何?」 「魂を新品みたいに綺麗にすること」 「いつ浄化されちゃうの?」 「さあな。それは俺にもわからねえ」  少女の純粋な瞳が、不満げに半分閉じる。 「そこが肝心なのに……どうやって浄化されるのか知ってる?」 「知ってるよ」  今度は目を輝かせ、カウンターに身を乗り出す。華奢な手は興奮気味にノートを叩いた。 「そうよ、そういうのを知りたいの。教えてマスター、どんな風に浄化されて、どうなるのか。私もいつか浄化される?」  このキラキラした視線は何度体験しても慣れない。眩しくて、くっと喉に切なさが詰まる。  恵はそれを悟られないよう目を眇め、ニィッと口角を上げた。 「そらお前、自分で体験しねえといい記事になんねえぞ」 「あ……それもそうね」 「だろ? ジャーナリストなら、自分の目で見たものを書け。こんなわけわかんねえ世界の記事書くなら、信憑性がねえと」  素直で猪突猛進型な少女の性格は、二カ月でずいぶん掴めてきた。真実と正義はイコールなのだろう。青々しく、ひたむきなカナコは、恵の煽りを真正面から受け止めた。 「そうよね! 私はここで過ごした記憶とノートを持って生まれ変わって、絶対、超有名な記者になるの。それから……」  夢を語る少女の瞳が宙をさ迷い、不意に焦点を失った。騒がしくて賑やかな明るい声も途切れ、店内には不安なほどの静けさが漂う。  恵は彼女の手から落ちかけたペンを取り、ノートの上に置いた。すると恵の行動に一切の関心なく、カナコが席を立つ。 「カナコ」  呼び止めても、小さな背は反応しない。そのまま店から出て行くカナコを見送って、恵は置き去りにされたノートを回収した。 「もうそろそろ、だな……」  ついさっきカナコが書いたページを抜き取り、丸めて捨てる。  こうしたインタビューは何度目かに彼女が店に来て以降続いているが、この十日ほどでそのほとんどがカナコの記憶から消えた。搾りカスのように残った願いが原動力となっているのか、取材は繰り返されるものの最後にはノートを置いて出て行ってしまう。  この世界は、存在するだけで魂を自然に浄化する。どうやらそのプロセスがないと、前世の記憶が後世に引き継がれてしまう確率がぐんと跳ね上がるのだそうだ。  浄化は早ければ数週間、長くても三カ月が経てば終わり、空っぽの魂になってから新しい身体へと運ばれる。  カナコは今、自然浄化が終わる寸前の不安定な時期だ。恵は会うたびに虚ろになっていく彼女が、せめて自分の変化を悟って怯えないよう、記憶に残らない痕跡を処分し続けている。  ルーズリーフのページが減っていくにつれ、言いようのない切なさが胸を焦がした。 「……手のかかるやつだよ、ホント」  一人呟いたそのとき、近づいてくる足音に気づいた。扉越しでもわかる喧しさに顔をしかめ、それが客でないことを悟る。  数秒後、ドアベルが壊れそうな音を立てて扉が開かれた。ガランッ、ビィンッ、ゴンッ。おおよそドアベルとは思えない激しい音に交じる陽気な挨拶は、いつものことだが聞こえにくい。 「やあメグミ、ご機嫌いかがかな!」  相変わらず作り物めいた微笑みを貼りつけた役人が顔を出した。  恵は指先でこめかみを叩き、役人にもわかりやすいよう「最悪だ」と呟く。扉は静かに開閉するものだと言い続けて一年、まだ成果は得られていない。 「今日は何しに来たんだ、騒音野郎」 「君はどうしていつも怖い顔をしているんだい? 眉間に何か挟めそうだ」 「顔の造りに文句言うんじゃねえよ。締め出すぞ」  恵は精悍な顔立ちを面倒臭げに歪める。奥二重の重い睨みを受けても怯むことを知らない役人は、腹の立つニヤケ面を作った。 「いいのかなあ、せっかくプレゼントを持って来てあげたのに」 「はあ? なんの」 「まさか、知らないのかい? 今日は君の、一歳の誕生日じゃないか!」  仰々しく腕を広げる動作を見ていると、蹴り出して塩を撒いてやりたくなる。恵は毎度のことながら、実行に移さない自分を褒め称えることで苛立ちを自制した。 「ああ、うん……確かに目覚めた日を生まれたっていうなら今日は誕生日だけどな。ところで死んでも一歳ってカウントすんの? マイナス一歳じゃねえの? ちなみに俺の生きてた日本では今日を一周忌っていうんだぞ」 「お祝いの! プレゼントだよ! 人間は誕生日に贈り物をするのがマナーなんだってね? 僕も一度してみたかったんだ!」 「聞けよ……」  何を言っても聞きやしないから、諦めが先立つ。全く祝われている気のしない恵が口を閉ざすと、役人は開け放したままだった扉の外から何かを店内へ引き入れた。 「と、いうわけで、ちょっとこの子を置いてやっておくれよ」  軽く言いのけた役人が自分の前へ進み出させたのは、二十代後半から三十代前半くらいの若々しい男だった。  緩やかにウェーブした茶髪が表情を翳らせてはいるが、甘めの童顔は同性の恵が見惚れるほど整っている。大きなパッチリ二重に、丁度いい高さの鼻、厚めの唇は幼さを感じさせるものの、シンプルな眼鏡が理知的な雰囲気をプラスしていた。  つい男の顔を観察していた恵は、ハッと我に返る。 「……人身御供!?」 「ヒトミゴクウ? ……多分それだね!」 「いや、お前絶対意味わかってねえだろ!」 「とにかくよろしく」  あまりに軽い調子で言うから、恵もつい語気を強めて「いらん!」と喚く。 「しかもそいつ、間近じゃねえか」  役人が連れてきた男は、どこかを見ているようで何も見ていない。眼鏡の奥にある瞳は濁り、完全なる無表情が不気味だった。  もはや彼には浄化されるものが、ほとんど残っていないのだろう。 「もって数日だろ。なんでわざわざ俺が面倒看るんだよ」 「いいじゃないか、どうせ数日なんだから」  にこやかに揚げ足を取る役人は、自失している男の背中を押した。彼はその勢いでカウンター前まで歩を進め、動きを止める。  近づくと男の体格のよさがわかり、恵は口元を引きつらせた。 「どうせっつっても……置物にするには、ちょっとでかくねえか……?」 「そうかい? キミとそう変わらないよ?」 「俺のがもうちょいコンパクトだわ。まあ置くだけなら……いや、それは倫理的に……」 「そうかい、恵ならそう言ってくれると思っていたよ! いやあ、さすがだね!」 「は?」  一言も了承していないのに、役人は先手必勝とばかりに手を打ち鳴らす。どこで覚えたのか、人差し指と中指だけ伸ばした手を顔の横でくいっと動かした。 「じゃあ僕はこれで」 「はあ!? 待て、まだ返事してねえ……っ」  慌てて呼び止めるも、真っ黒い存在は忽然と姿を消す。来るときは扉を使うのに、帰るときは不思議な力で消えるのだ。それを見ると、いつだって恵は判然としない腹立たしさを感じる。  残されたのは無意味に手を伸ばした恵と、カウンターチェアの横で立ち尽くす、人形のような男だけだった。 「ったく、都合いい耳してやがる……つーかなんだあの仕草……」  頭を掻き、恵はしぶしぶカウンターを出る。  そして男の肩に手を置き、数センチ高い場所にある双眼を覗きこんだ。 「しっかし……整理整頓された顔してんな」  恵のきつい顔立ちとは正反対な男の容姿は、羨ましいとは思わないが興味深い。しげしげと見つめていた恵は、男の茶髪が根本から数ミリ黒くなっているのを見つけて微笑んだ。  同時に、肩に置いた手で男を引き寄せる。  息を吐いたら吸うように、眩しければ目を細めるように、恵は一連の動作を終えた。それから数秒、身体と意識が切り離されたかのような不思議な感覚を味わい――勢いよく後退る。腰が椅子にぶつかって、息をのんだ。 「俺……今、キスしたか?」  無意識に手の甲を唇に押し当てて、冷や汗をかく。そこに残る冷たくて生々しい唇の感触が、恵に自分が行ったありえない行為を突きつけた。 「初対面の男だぞ……欲求不満か?」  あるはずもない推測を呟き、胸を叩いて自分を落ち着ける。立ち尽くしたままの男は当然だが怒ることも逃げることもしないので、恵は気を取り直して彼の眼前に手をヒラつかせた。 「あー、すまん。よくわかんねえけど気にすんな。人間、死んでも色々あるもんだ。ファーストキス……じゃねえよな、さすがに」  無意味と知りつつ「ごめんな」と男の頭を撫でた恵は、混濁した瞳がささやかに動く気配を察知する。 「……あ?」  定まっていなかった焦点が、酷くゆっくりとしたスピードで恵の顔へと合わさっていく。  それは「浄化されない者」としての役割を担う恵でも、初めて目にする、奇跡だった。  一度、二度、三度。男が瞬く。  キョトンとした眼差しを一身に受ける恵は、眼鏡の奥にある澄んだ黒目の中で間抜け面を晒していた。 「お前……嘘だろ? 俺のことわかるか?」  男が頷く。その動作は間違いなく意思の疎通を証明するもので、恵は堪らず強面をクシャっと崩して笑った。 「そうか! すげえなお前、話せるか?」 「ぉ……に、れし、た」 「ん?」  小さく掠れた声を聴き取るために、恵は男の口元へ耳を近づける。すると男も同じように距離を詰めたのか、耳の縁に柔らかい感触が当たった。  その、瞬間の出来事だった。 「俺、あなたに、惚れました……!」 「あ?」  妙にはっきり吹きこまれた宣言に首を傾げたのも束の間、恵はガッシリと男の両手に側頭部を掴まれていた。  至近距離には、表情を取り戻して輝く男の顔がある。 「カッコいい! ドストライク! 付き合ってください、ってか名前教えてください!」 「……!?」  甘い目尻が赤らんだところまでは認識できた。しかし男がぶちゅっと強引に唇を重ねてきた途端、正常な思考は溶けていく。熱い舌が呆然とする恵の腔内をまさぐり始めると、驚愕を通り越して無になった。  抵抗がないのを受け入れたものと勘違いしたのか、男は濡れた唇を舐めてキスを解く。  はふ、と幸せそうな濡れた吐息が口端をかすめた。 「はあ……ふふ、煙草の味……可愛いです」  その満足そうな酔っ払い顔は、十分に恵を冷静にさせる。力無く垂れていた拳を強く握り締めると、好き勝手された苛立ちが沸々と湧いた。  先にキスをしたのは恵だが、男は舌を入れた。その時点で罪の重さは男に傾いて然るべきだろう。 「こ、の野郎……」 「はいっ、あ、名前教えてくれます?」  能天気な質問を投げられ、恵はカッと目を見開いて怒鳴った。 「まずは自分から名乗るもんだろうがッ!」  固く握ったゲンコツを男の頭にズドンと落とす。  鈍い音とともに頭を押さえた男は、しゃがみこんで店外にまで響く奇声を上げた。
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