Day 4・止まらない歯車

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Day 4・止まらない歯車

 ジョンが恵の元へ来て四日目の朝。  今朝は一人で店に降り、久しぶりに自分の手で掃除をしていた。 「まあだ起きてこねえな……」  ジョンは毎朝恵より先に起きて人間拘束具と化していたが、今朝はどうも起きられなかったようだ。幸せそうな寝顔に声を掛けるのが心苦しくて寝かせたままにしたが、そろそろ起きてもいいころだろう。  雑巾を洗って干し、寝坊助を起こすために二階へ上がる。  寝室の奥に鎮座するベッドを覗くと、布団の中心がこんもりと盛り上がっていて、和やかな光景に思わず笑ってしまった。 「おーい、ジョン。まだ寝る気か?」  ベッドに腰かけて不自然な山のてっぺんを軽く叩けば、中で身じろいでいるのか布団が動く。  端からひょっこりと顔を出したジョンは、寝惚けまなこで恵を見上げた。 「あれ……? おはようございますー」 「はよ。そろそろ起きろよ」 「はあい……」  大きな欠伸を零し、ジョンが布団から這い出てくる。そし座る恵の腰辺りを、いつものように抱き締めた。 「マスター、掃除もう終わっちゃいました?」 「ああ」 「うあー、すみません」  頭を撫でながら「いいよ」と返してやれば、くふくふと幸せそうなジョンが起き上がって伸びをする。  ベッドを降りる背を眺めていた恵は、物足りなさを感じて吹き出した。 「今日は朝のやつ、訊かねえの」  サイドテーブルに置いていた眼鏡をかけ、振り返った男が首を傾げる。 「何をです?」 「俺の名前。訊かれねえと落ち着かなくなってきた」  目覚めてすぐから、眠りに落ちる寸前まで、暇さえあれば名前を問われていたのだ。たった四日で慣らされ、一回問われないだけで違和感を覚えてしまう自分が可笑しい。  しかし茶化す恵とは対照的に、ジョンは青褪めて口を押さえた。ただならぬ雰囲気に、恵の笑みも固まる。 「……ジョン?」  ジョンの呼吸が浅く早くなっていく。いつも恵を真っ直ぐに見つめる瞳は酷く狼狽し、あちらこちらへ泳いでいた。 「……み、ませ……っ」 「あ、おいっ」  青白い顔に絶望感を滲ませて、ジョンが寝室を飛び出した。  慌ててあとを追うが、階下ですぐにその背を見つけて安堵する。だが微動だにせず立ち尽くしている姿に、焦りが生まれた。  彼の宿した悲壮感の正体が何かはわからないが、原因が恵の一言であるのは理解できる。あんな顔をさせるつもりは露ほどもなかったから、声をかけるのを少し躊躇った。 「大……丈夫、か?」  怖々と男の肩に触れるも、反応はない。  恵は足先から這い上がるような不安を感じた。ついさっきまで、忘れていたのだ。  ジョンの魂は、出会った時点で既に浄化が進んでいた。いつ「ジョン」でなくなっても、不思議ではないほどに。 「ま、まだ……だよな? ジョン……」  この世界にやってきた魂と出会い、浄化されていく様を見守り、やがて別れる。その一連の流れは幾度となく繰り返され、恵はその都度切なさを覚えていた。  だが今、目の前にいる男を失う想像は、切ないどころの話ではない。息が苦しく、胸が痛く、そして震えるほどに恐ろしい。  恵は奥歯を噛み締め、反応のない男の背を抱き締めた。 「ジョン……ッ!」 「はいっ!」 「え?」  ――背後から抱き締めたはずのジョンに、気づけば恵は正面から抱き締め返されていた。  フライングして滲みかけた涙が、白けて涙腺へ還っていく。ポカンと口を開いて間抜けな顔をする恵の額には、自分勝手な唇が何度もリップ音を立てて押しつけられた。 「はああ……まさかマスターが俺を抱き締めてくれるなんて! 今日は記念日ですね!」 「いや……」 「でもっ、俺も抱き締めたい派なんです! もうもう、ずっと抱き締めてたい……!」 「勘弁してくれ」 「ほっぺ意外と柔らかいんですよね……」  何事もなかったかのように、ジョンは恵に頬ずりしている。拍子抜けした恵は押し返す気力もなく好きにさせていたが、あまりのしつこさと、ゴリゴリ当たる眼鏡の地味な攻撃に耐えかねて普段通り彼の腹を軽く殴った。 「俺の顔を摩擦熱で火傷させる気か」 「まさか! あ、でもそしたらお揃いの火傷ができますっ、すごいラブラブ……!」 「アホか心配させやがって……おら、離れろ」  殴った部分をさりげなく撫でてやり、ジョンを押し離す。痛がるフリで恵からのよしよしをゲットしたジョンは上機嫌で腰を折り、下から顔を覗きこんできた。 「なんです? 心配してくれたんですか?」 「当たり前だろ。あんだけ毎朝名前訊いてきたくせに、急に訊かねえし、部屋飛び出すし」 「んん? ……飛び出す?」  丸まった瞳が、あざとい上目遣いで瞬く。 「まさかー。俺が訊かないわけないですよ」 「……あ?」 「ふふ。でもついでだからもう一回訊いちゃいます。マスター、今日は名前、思い出しました?」  緩み切っていた緊張の糸が不意に張り詰め、キィンと嫌な音を立てる。  恵は唇を震わせてジョンを熟視するが、彼が冗談や嘘を言っているようには見えなかった。 「まだ……思い出せて、ねえけど」 「ざーんねん。明日に期待、ですね」 「ああ……」  ご機嫌な様子で恵の頬へキスをしたジョンは、「外掃いて来ます」と言って箒と塵取りを手に店先へ出て行く。  一人残された恵は放心し、着実に迫りくる「そのとき」を思い、怯えていた。 「いなくなる、のか」  気のせいではない。間違いなく、ジョンの記憶がたった今、一部切り取られて溶けた。  この世界の無情さを改めて実感する恵は、震える手を握って焦燥感を押し殺した。  それから数人の客が珈琲を飲みに来ては帰り、窓から差しこむ日差しがオレンジがかってきたころ。  朝の動揺もどうにか落ち着き、恵はジョンと二人きりの店内で暇を潰していた。とはいえ娯楽道具があるわけでもなく、手持ち無沙汰に煙草へ火を点ける。一応口に入れるものを提供する店であるから、喫煙時の定位置はカウンターの隅だ。  肺を煙で満たし、ほう、と吐き出す恵を、ジョンは怖いほどじいっと見ていた。 「んだよ、お前も吸う?」  視線の強さに負けて声をかけるも、いやに生暖かい目で恵を観察する男は表情を変えないまま首を振った。 「いえ、見てるだけで満足です」 「意味わかんねえぞ」 「煙草になりたいなあって」 「やめろ気持ち悪い!」 「マスターに吸われたい……」 「どこを! あ、いや言うな、絶対言うなよ」  焦る恵をからかっているのか、ジョンは怪しげな笑い声を零している。  調子に乗って茶化されてはかなわないから、半分ほどまで吸った煙草を灰皿代わりの器へ押しつけた。 「一目惚れって普通、中身知ったら幻滅するもんじゃねえのかよ」 「え、しませんよ? 俺のマスターはしゃべっても動いても最高でっす」 「勝手にお前のもんにすんな」  反射的に否定はしたが、隠す気のない好意を真正面から見せつけられるのは悪い気分じゃない。むしろ込み上げるくすぐったさは、心地いい部類に入るだろう。  相手は同じ身体の造りをした男であるのに、特に嫌悪感もない。キスがちっとも不愉快でない時点で、恵は自分が異性愛者でない可能性に気づいていた。 「お前、男が好きなのか」 「さあ……?」 「わかんねえのかよ」 「あんま考えたことないです。好きになったのはマスターだけですもん」 「はいはい……」  幼きころの淡い初恋も学生時代の甘酸っぱい思い出も、恵を口説くためなら白紙にされてしまうらしい。  なんとなく申し訳なさを感じて苦笑したとき、突然店の入口が乱暴に開かれる。  目を丸める二人の視線が捉えたのは、不変の笑顔を浮かべた役人だった。 「やあ、お二人とも生きてるかい?」 「とっくの昔に死んでるわ。何度も言うけど、扉はもう少し静かに」 「今日はね、ちゃんとお仕事だよ!」  役人は基本的に恵の話を聞かない。嫌がらせでないことは理解しているが、もはや溜め息も出ない。 「ああ、そう……今日は誰だ」 「この子さ」  役人が店の中へ足を踏み入れると、背後にいた少女が見える。恵は人知れず息をのんだが、切なさを表に出すことはしなかった。 「ジョン、鍵閉めて閉店札出しとけ」 「もうですか? っていうかあの子、どうかしたんですか……?」  ジョンは、無表情で棒立ちの少女、カナコを心配そうに見ている。説明すべきかどうか迷った恵は、「気にすんな」と答えた。  カウンターを出て、役人のそばにいるカナコの肩を抱く。そして開かずの間となっている扉へ歩を進めると、ジョンが慌てたように恵の服を掴んで引き留めた。 「ど、どこ行くんですか」 「ちょっとな。お前はあいつと待ってろ」  安心させるように「な?」と微笑みかけるが、ジョンはやけに顔を引きつらせて拒絶する。 「嫌です、マスターが行くなら俺も行きますっ、置いて……置いてかないで、ください……お願い」 「ジョン……?」  何がそんなに不安なのか、服を掴む男の拳には力みすぎて血管が浮かんでいた。連れて行く気など一切なかったが、あまりの切羽詰まった様子に「離せ」と言えなくなる。  困り果てる恵を後押ししたのは、勝手知ったる態度で椅子に腰かけ、足をぶらつかせている役人だった。 「いいじゃないか、連れて行っておあげよ」 「馬鹿言うな、こいつは何も知らねえんだぞ」 「なら教えてあげればいいよ。一人にして、あとで追いかけて来られたほうが困るだろう?」 「けど」 「ああもう、いいから早くしておくれ。魂は常に不足しているんだから、もたもたしていると出生管理部から苦情がきてしまう」 「……お前らって部署分けされてんの?」 「僕は死者統括部のヒト課だよ」  胸を張る役人から、手を離す気のないジョンへと視線を移す。  恵は眉を寄せて悩んだが、長い息を吐くことで了承した。連れて行ってもらえることを察して目を輝かせるジョンを見上げ、人差し指を立てる。 「いいか。絶対俺から離れるんじゃねえぞ」 「はいっ」 「あと、これな」  扉のそばへ置いてある面積の狭い台には、瓶詰の飴が常備されている。恵はその中から飴玉を二つ取り出し、ひとつをジョンに握らせた。 「入る寸前に口に入れろ。でも舐めるな。噛むな。食べていいのは店に戻ってからだ」 「どういう意味です……?」 「理解するまで説明してる余裕はねえんだ。いいか、約束できるなら連れて行く。どうする?」  ジョンは戸惑うが、すぐに真面目な顔で頷いた。恵は拭えない不安を抱きながらも冷えきったカナコの手を握る。  すると役人はその様子が見えているかのように、朗らかな声で言った。 「もう鍵は開けてあるよ。行ってらっしゃい」  その言葉を待っていた恵は飴玉を口に入れ、躊躇なくノブを回して扉を開けた。  そこに広がる異様な光景に、背後で息をのむ気配がする。 「嘘ですよね……?」  目の前へ広がるのは、先の見えない、恐ろしいほどに真っ白な空間だ。曇りひとつない無彩色の中へ足を踏み出すと、平衡感覚が失われそうになる。  扉が閉まって店内と遮断されると、地面を浅く満たす水の涼やかな音が耳についた。 「残念、嘘じゃない。飴は入れたか?」 「はい……あの、ここは……?」 「巡り廊下っていうんだ。俺の服、絶対離すなよ」  返事代わりか、エプロンの結び目をジョンが握り締める。恵はその感覚をしかと覚え、カナコの手を引いて歩き出した。 「色々訊きたいことはあるだろうけど、見てたほうが早いだろ。飴さえ食わなきゃ問題ねえから、気になることがあるなら言えよ」 「わかりました……え?」  十数歩進んだところで、どこまでも白かった空間に透けた映像が浮かび上がる。ジョンは驚いて背後に張りつくが、カナコの足取りが重くなったのを感じた恵は立ち止まった。 「これな、カナコの記憶」 「記憶……?」 「ああ。カナコ、産まれたときは小さかったんだなあ……」  たくさんの親戚らしき人に代わる代わる抱かれる赤ん坊を、カナコはぼんやりと眺めている。やがて赤ん坊がお宮参りのために着物を着せられ始めると、自ら歩き出した。  彼女が歩けば手を引いて、立ち止まれば見守る。そうやって寄り添いながら、恵はジョンが知りえない真実を話して聞かせた。 「この世界にやってきた魂は、生まれ変わるために浄化されていくんだ。今のカナコは、自然浄化が終わった状態。最期はこの巡り廊下を通って転生する」 「巡り廊下の役割って……」 「幸せな走馬灯を見せて、最期の浄化をしてる。後ろ、見てみろよ」  言われるまま振り向いたジョンが「ない」と呟く。 「なんで……? また真っ白……」 「通り過ぎたら消えるんだ。記憶ごとな」  そうして、全ての記憶が消えた魂は本当の意味で死を迎え、ようやく生への道を進む。  恵はあえて言わなかったが、ジョンは察したようだ。カナコの記憶から目を逸らし、恵の後頭部ばかりを見つめている。 「なんで、そんなに詳しいんですか。役人さんが言ってた……お仕事って」  真新しい制服に身を包み、満面の笑みで姿鏡の前に立つ少女を眺めて微笑む。たった二カ月ほどの付き合いだったが、夢と希望に溢れたカナコを、恵は妹のように思っていた。  だからこそ切なくて、このあとを思うほどにやるせない。それでも自分が彼女の手を引けてよかったと思う。恵の担う役割には、そんなジレンマがつきまとっていた。 「俺みたいに記憶がない人間は、自然浄化されねえんだ」 「え……?」 「個人を形成する主軸は記憶だからな。そういう人間はこの世界で半永久的に存在する代わりに、こうして浄化された魂を見送る仕事をするんだ。いわば水先案内人ってやつか」 「でも……役人さんがいるじゃないですか」 「あいつらはこの廊下に入れねえんだと。よく知らねえけど」  そう言って無理に笑ったとき、エプロンの結び目からジョンの手が離れる。ハッとした恵は「離すな」と言いかけるが、その前に空いた右手を男の体温が包んだ。 「見送るのは、つらくないですか」 「――……」  確信めいた問いかけは、恵を頷かせにかかる。許されるのなら、何度だって首肯したかった。そしてこの男は、恵が何を口走ろうと危ういほど無防備に許してしまうのだろう。  そう感じるのに、恵は穏やかな気持ちで繋いだ右手に力をこめた。 「一人で逝かせるより、ずっといい」 「……言うと思いました。あなたは、そういう人だ」  苦しげに顔を歪めるくせに、ジョンは表情を笑みへ近づけようと必死だった。  だから恵はそのおかしな顔を指摘することなく、歩き出したカナコに合わせて足を踏み出す。  しばらくすると、ジョンが記憶の中にいるカナコの姿を見て驚いた。予想通りの反応を微かに笑い、恵は説明を加える。 「大人になったカナコだよ」 「カナコちゃんは……女子高生ですよね?」 「ああ。カナコが寿命で死んだわけじゃねえってこった」 「当たり前です。十代ですよ?」 「この世界で言う『寿命』ってのは、予め決まってた死期ってことだよ。言い換えれば……運命か」  ジョンはその一言を耳にした途端、穴が空くほどの勢いで花嫁衣裳のカナコを見つめた。 「じゃ、じゃあ……本当ならまだカナコちゃんは、生きて……?」 「そういうことになるな。ここに映し出されてるのはあくまで未来のひとつだけど、こうやって……幸せな家庭を築いてたかもしれない」 「もし、死んだのが寿命だったら?」 「未来は映らない」  言い切ったのと同時にカナコが孫達に看取られ、ふつりと浮かんでいた映像が途切れた。  そして、三人の目の前には簡素な造りの扉が現れる。  恵は背筋を駆け抜けた戦慄をなんとか堪えるが、ジョンは後退り、怯えた様子で水の中へ尻もちをついた。 「ふ……っふ、ふ」  辛うじて呼吸しているが、顔を強張らせて震えるジョンを長居させるのは得策ではなさそうだ。 「動かないでじっとしてろ。大丈夫だから」  恵は引っ張られる右手をそっと離し、一年経っても慣れない恐怖を押し殺す。震える指先で扉の取っ手を引くと、カナコがゆっくりと進み出た。 「じゃあな、カナコ。……元気で」  少女には届かないが、慈しむ心で囁いた。  目に痛い白を発光させる場所へ誘われるように、カナコが身を投げる。扉を越えた部分からほろほろと溶けていく少女は、残滓のような光の粒を白金色に煌めかせた。  完全にカナコが見えなくなってから、扉を閉じる。すると跡形もなく扉は消え、元の白い空間が広がった。  恵は緊張していた肩を撫で下ろし、ジョンのそばで膝をつく。 「大丈夫か? 立てるか?」 「大丈夫……です」  扉が消えて冷静さを取り戻したジョンは、自分の反応を心底不思議がっていた。 「マスター、さっきのは?」 「始まりの扉って役人は呼んでたけど、俺らからしたら恐怖の扉だよなあ」 「なんで、あんなに怖い……?」 「あれをくぐると個が失われるから、自我のある魂には恐怖なんだと。ほら、早く戻るぞ。飴がなくなる」 「え? あ」  短い母音を耳にした瞬間、嫌な予感が駆け抜ける。  ジョンと目が合い、恵は問いかける一秒を惜しんで男の口を指で開かせた。  予想どおり、飴は欠片も残っていない。 「……っの、馬鹿! 無意識に食うなよ!」 「ご、ごめんなさ……っ」 「いいから立て! 走るぞ!」  ジョンの腕を無理に引っ張り上げ、恵は大慌てで白い空間を駆け戻る。酷い悪寒と体験したことのない焦りが精神を揺さぶって、どっと嫌な汗をかいた。 「ほら、もう少……っジョン」  しかし店へ続く扉が見えたとき、ジョンが膝から崩れ落ちる。浅い水の中へ片手をつく横顔は虚ろで、掴んだ腕も脱力していくのがわかった。  このままでは浄化されてしまう。恵の目の前から、ジョンという存在が消えてしまう。 「……ッまだ駄目だ」  恵はジョンの頭を抱きこんで、半開きの唇を自分のそれで塞いだ。舌を使って腔内に残った小さな飴を男へ与え、肩に腕を引っかけ直して扉を目指す。 「く、そ……重すぎんだろ……っ」  扉だけに向けた視界の端で、透き通った記憶が浮かび上がった。赤ん坊を抱く若い夫婦が両親であることを悟ったが、見ている余裕などない。  恵はジョンを支えて扉を蹴り開け、店内へと勢いよく雪崩れこんだ。 「つ、いた……」  二人の身体が完全に店へ戻った途端、ひとりでに扉が閉まる。恵は安堵して、腹の上でグッタリと伏せるジョンの肩を叩いた。 「おい、大丈夫か? 俺がわかるか?」 「わかります……」 「どうしたんだい? そんなに慌てて」  扉が見える位置まで勝手に椅子を移動させていた役人が、床に転がる二人をニコニコと見下ろしている。  仰向けになって脱力する恵は、ジョンを指して役人を見上げた。 「こいつ、飴食い終わりやがってさあ」 「すみません……」 「それは大変だ。浄化されてしまったかい?」 「多少な。途中で俺の飴食わせたから、それほどでもねえと思うけど」  始まりの扉までは長くとも、店内への扉までは短いという、説明のできない現象がなければどうなっていたかわからない。  嫌な想像で顔をしかめる恵を笑い、役人はひょいと椅子から降りた。 「しばらく休めば落ち着くだろう。僕は行くよ。お疲れ様、メグミ、ジョン君」  手を振ると、黒ずくめの概念が消える。  若干回復したらしいジョンがその瞬間を見ていたようで、力無く頬を恵の腹へ預けた。 「消えましたね……」 「概念だからな」 「もうなんでもこいです……」 「だろうな」  ただでさえ不思議な世界に存在していて、魂が溶けていく様をその目で見ているのだ。  今更、役人が一瞬で消えたからと言って驚くことでもない。 「とりあえず……上に行くか」 「はいい……」  間延びした声で頷いたジョンを連れ、二階の寝室へ向かう。ベッドへ放り投げてやると、男はいそいそと恵の腰にへばりついた。 「マスター、あの飴ってなんなんですか?」 「役人が言うには、巡り廊下に浄化されずにいられるとっても素敵なアイテム、らしい。あいつらに支給されるんだ」 「浄化されないアイテム……?」 「巡り廊下の浄化には例外があってな。生きるための行為を嫌うんだ」  肉体という概念ごと自我を魂から削ぎ落すあの不思議な空間は、「生」に興味がない。ほとんど人ではなくなった魂にのみ、優しい施しを与える巡り廊下を、恵は甘い香りで獲物をおびき寄せる食虫花のようだと思っていた。 「つまり、食べること……ですか? あの飴でなくてもいいんですか?」 「試したことがねえから、なんとも。何せこの世界にいると、珈琲は飲みたくなるけど、何かを食べたいとは思わねえからな。食い物が他にない」 「じゃあやっぱり、支給される飴は特別なものなんですかね……」 「かもな。まあ、口ん中に何もなくなった途端、すぐに浄化され始めるってのは俺も初めて知ったけど」 「そうだったんですね……」  ジョンに飴を渡してから数秒も経たず、赤ん坊の恵が浮かび上がるとは思っていなかった。記憶のない案内人とて、巡り廊下の手からは逃れられないらしい。とはいえ今もそれを憶えているのは、自然浄化の完了していない恵だからだろう。  結局両親の顔すら落ち着いて見れなかった、という口惜しさを、数時間のうちは感じていられる。  苦笑する恵はふと今になって、不自然な現象に気づいた。 「なんで……お前の記憶は出てこなかったんだ……?」  恵よりジョンのほうがずっと、飴のない時間が長かったはずだ。しかしカナコの記憶が途切れて以降、目にしたのは自分の記憶だけじゃなかったか。  腰にしがみつくジョンを見下ろし、柔らかい茶髪に手を置く。肩をビクつかせた男は、疑問に対する答えを知っていて、隠しているように見えた。 「なあジョン、お前……何か知ってるのか?」  男は返事をしないまま顔を上げる。ポロポロと涙を零す様は憐れで痛々しく、追及などとてもじゃないができなかった。 「マスター」  おもむろに身体を起こしたジョンが、無抵抗の恵にキスをする。似合わないしわを眉間に刻み、唇を噛んだ男は縋るように恵の首筋へ顔を埋めた。 「名前、教えてくださいよ」 「ジョン……」 「早く、しないと……もう時間、時間ないんです、マスター、意地悪しないで……」 「……してねえよ」  切実に願われるほどの価値が己の名前にあるとは思えないが、叶えてやれない自分を責めた。罪悪感で息が止まりそうだ。 「なんで思い出せねえんだろうな」  この世界にきて初めて抱いた悔しさをどうすることもできず、大きくて頼りない男の背を抱き寄せる。  ジョンは小さな声で、泣きながら「ごめんなさい」と繰り返した。「謝るな」と言うのは簡単だったが、吐き出すのを止めればジョンが壊れてしまいそうな気がして、謝罪が止むまで背を撫で続ける。  心が千切れそうなほどか細い声は、ジョンが泣き疲れて眠るまで続いた。  その夜、恵は初めて夢を見た。
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