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Midnight Dream・夢よ覚めないで
午後の麗らかな日差しが、枠の洒落た出窓から店内に差しこんでいる。少々ごちゃついている印象を受けるその店は、あまり広くはないものの落ち着きのある喫茶店だった。
その中心で立ち尽くし、「これは夢だ」と自覚した。
何故ならカウンターで珈琲を飲んでいるのは、年若い恵だったからだ。左端の席で、恵は文庫本のページをめくっている。
まるで映画を観ているような感覚を覚え、窓辺のテーブル席へ腰かけた。
『先輩、まだ飲まないんですか?』
恵の隣に座っている青年が弾んだ声で話しかけると、恵は顔を上げないまま頷いた。
『もう少し冷ます』
『ふふー、猫舌可愛い……あ、でも先輩はカッコいいです』
『どっちだよ』
『どっちもですよう』
構われて嬉しいのか、男はふやけた声で笑っている。
それは聞いている者まで照れさせる甘ったるい囁きだったが、すぐ隣にいる恵は再び、冷静にページをめくって鼻を鳴らした。
『お前さあ、まだ飽きねえか』
『何にですか?』
『俺のストーカー』
眺めているだけのつもりだったのに、思わず吹き出してしまった。慌てて口を抑えるが、夢の中の二人は気づかない。
『違いますう、求愛行動ですう。そろそろ先輩の名前、教えてくれません?』
『同じ大学通ってんだから、その気になりゃわかるだろ』
『とんでもない! 先輩のご友人方が面白がって、俺から先輩の名前を隠すんです。知ってますか? 教授もですよ?』
『ははっ、そりゃ面白がるだろ。目が覚めた途端、一目惚れしました! だぞ』
『インパクトはバッチリでしたね』
『恋が芽生える気配は感じねえけどな』
『うわああん、酷い!』
泣き真似をするくせに諦める様子のない青年は、いじらしい指先で恵の袖を軽く摘まむ。
『幸せにしますから、俺に恋してくださいよう。好きです』
『本日八回目の告白どうも』
二人のやり取りを見守りながら、頬を濡らした涙が顎から落ちる前に袖で拭った。
記憶にもなく、憶えもないのに、どうしてこれほど懐かしいのだろう。切ないのだろう。失ったものにようやく出会えたような充足感が、とても怖い。
目が覚めたら、また忘れてしまうのだろうか。
こんなにも、愛しくて堪らないのに。
「馬鹿だなあ」
駆け引きも何もなく、ただ好意を押しつけることしか知らない男だった。欲しいと声を上げるのが、精一杯だった。今なら、わかる。
「お前が先に名乗らねえから、いつまで経っても教えてくれねえんだぞ」
無意識に呟いたアドバイスは、恵を見つめながら幸せそうに珈琲を飲む青年へ届かない。
一目でいい。彼の顔が見たい。
立ち上がり、しゃくり上げながら青年の背へ手を伸ばす。一歩ずつ確かめるように床を踏みしめ、近づいていく。
だが視線の先で、本を閉じた恵が青年の頭を撫でた。そして振り向き、困ったように笑う。
『駄目だろ。これは、俺のだ』
――夢から醒めた恵はしばらく呼吸を止めていた。苦しくなって息をする。息をしたのに、ずっと苦しいままだ。
見慣れた天井の中央には、無表情で恵を覗きこむジョンがいる。彼はぐっしょりと汗をかいた恵の額を、手の平で拭い撫でた。
「怖い夢でも、見ました?」
「夢……?」
頭の中が散らかっていて、見ていたはずの夢が朧げにしか思い出せない。困惑していると、目尻をジョンの指先がすべっていった。
「だって泣いてる。マスターを泣かせたのは誰?」
「……誰でもねえよ。幸せな夢だった」
「じゃあ、どうして泣くんです?」
「悲しかったから」
それ以外の言葉が浮かばなかった。
誰かの隣で、着実に絆されていく幸せな夢だった。しかしそれが誰なのか、判然としない。あれは間違いなく恵の記憶なのに、辿ろうと足掻けば足掻くほどに輪郭が曖昧になっていく。空の箱を何度も開けては落胆し閉めるような、空虚な気分だった。
「もう少しで……あいつに、会えた」
「……あいつじゃないと駄目?」
ジョンらしからぬ低い声が恵を驚かせた。
豆電球の明かりを背負った表情は、翳っていて仄暗い。
「マスターを一人にするような奴が、そんなにいい?」
「何言ってんだ、ジョン」
「俺がいるじゃないですか……っ」
泣きそうに顔を歪めたジョンが、恵の右腕をシーツに押さえつけて唇に噛みついた。
勢いがあったせいか、歯が唇にぶつかって痛みが走る。恵は眉を寄せたものの、必死になって舌を差し入れてくる男を黙って受け入れた。
分厚い舌が、唇の内側から歯へ。上あごのぼこぼこした部分を丹念に舐められると、ゾクンと悪寒に似た疼きが首裏から腰へと伝う。
注ぎこまれた唾液を自分のそれと一緒に飲み下した。ちろりと舌先同士が絡まり、褒めるように優しくちゅっと吸われる。
「マスター、拒んで、じゃないと……マスター、嫌がったりしないで……っ」
「……どっちだよ」
「どっちも、です」
ついさっき聞いたようなやり取りに、毒気を抜かれてしまう。
薄いTシャツの裾から潜りこんでくる手に身体をまさぐられながら、彼を苦しめるものの正体が何か考えた。
叶うならば、ジョンには笑っていてほしい。
男に圧し掛かられているにも関わらず、恵の頭はそんなことでいっぱいだった。
「くすぐってえよ」
首筋へキスを降ろしていくジョンの頭に、恵はそう声をかけた。チラリと上目に恵を確認したジョンは不満そうに、指先で胸の飾りを引っ掻く。
「……っ」
「くすぐったいだけじゃ、ないでしょ?」
きゅう、と抓られると痛みに混じる僅かな快楽が恵に溜め息を吐かせた。ジョンはその反応に気をよくしたのか服をめくり上げ、抓られて赤くなった突起に舌を這わせる。
乳首を口に明け渡した手は、思わせぶりに腰を撫で、ウエストのゴムをくぐって下着の中へ突き進んだ。
この世界にやってきて一度も、そこを己で慰めたことはない。食欲と同様、性欲も皆無だからだ。擦れば勃つのか、射精は可能なのか、気にもならない。
しかしジョンの手の中で性器は少しずつ形を変え、下腹に軽い痛みが沁みた。
「……ジョン」
「拒まないで、どうか……お願い」
切実な願いを囁くジョンは、確かめるように棹を握る。決して制止しようとしたわけでない恵は、いよいよ己の性対象が異性に限定されていない可能性に確信を持ち始めていた。
大きな乾いた手で器用に扱かれると、どうしようもなく腰が浮きそうになる。裏筋と雁のつなぎ目をコリコリと親指が刺激するから、喉の奥で呻き声を殺した。
「あんま……すんな、出ちま、う、から」
「わかりました」
「……おい、なんでだよ」
ジョンは頷いたくせに、恵の下衣を脱がして再び屹立に手をかけた。恵は咄嗟に身体を起こそうとするが、縫いつけられた右腕が動作の邪魔をする。
「出ちゃう、としか言われてないですもん」
「だからっ、ぁ……うッ」
「俺はマスターが出しちゃうとこ、見たいです」
茎を握って上下する単調な動きは恵を追い立て、食いしばった歯の隙間から荒い息が零れた。
「ジョン、出、るって」
「はい。ちゃんと脱がしたので平気です」
上擦ったジョンの声に、下肢から響く先走りの水音が重なる。ニチャニチャと鼓膜を震わせる音はあまりにいかがわしく、恵は堪らず頭を横向けて片耳をシーツで塞いだ。
「平気じゃ、……っ、ん」
恵の限界を悟ったジョンが、追い打ちをかけるように乳首を口に含む。舌先で小刻みに舐められると、「あ、あ」と頼りない喘ぎが唇を突いて出る。精の放逐が迫った耐え性のない身体は、さほど間を置かずぶるりと震えた。
「い、……、く、ぅ……からッ」
「どうぞ……っマスター、マスター……!」
「はぁ、っあ……っん、ん」
人の手がもたらす快楽には抗いようがなく、駆け上がってきた射精感に身を任せる。きゅんと嚢が持ち上がるような感覚のあと、ジョンの指の輪が促すのに合わせて根本から熱い飛沫が出口へと我先にと向かっていく。
ぴゅく、と一番に飛び出した数適を皮切りに、声も出せないほど感じる恵の鈴口からは白濁が散った。
「ん……上手、です。マスター、いっぱい出ましたよ」
「う、るせ……」
出し切って大きく息を吐き出すと、ジョンは手の平で手あたり次第に精液を拾う。そして馴染ませるように握ると、白濁を恵に見せつけた。
「見て、マスター。俺に触られるの気持ちよかったでしょ」
「見せんなよ……さっさと拭け」
「ヤです。ね、俺のほうがいいでしょ。夢の中の奴より、俺のが……マスターのこと、好きだよ」
「うあ!」
出したものを指先へまとわせたジョンは、それを恵の尻へ滑らせた。窄まりを何度も指が掻くけれど、入りそうで入ってこない。
「ジョ、ジョン……んっ」
「マスター……怖いですか? ここを指で広げて、俺を挿れるのは……嫌ですか、気持ち悪い、ですか」
ジョンは怯えを滲ませ、押さえていた右腕を離す。逃げるならどうぞ、今なら許します――そう言われているようで、無性に腹が立った。
自由を取り戻した恵は迷いなく男の首に腕をかけ、抱き寄せる。
「馬っ鹿だなあ、お前……」
「マ、スター……っ?」
後ろに男を受け入れるなどという発想自体、恵の中にはなかった。しかし今この場でジョンから逃げることは、もっとありえない。
「いいよ、好きにしろ」
「……っなんで、嫌がらないんですか」
「嫌がってほしいのか?」
「だって……ちゃんと、止めてくれないと、優しいマスターに、俺ばっかり甘えて、それで……あなたばかりが、いつも損をする」
首筋に埋まるジョンの、籠った声が狼狽している。
強引にことを進めて射精までさせたくせに、土壇場になって怖がるジョンが、恵は堪らなく愛らしい生き物に思えた。
「顔上げろ」
柔らかい茶髪を両手で混ぜ、頬を挟んで見つめ合う。眼鏡のない男の瞳は不安定に揺らぎ、薄く水気を帯びて潤んでいた。
「夢の中に出てきた奴が、好きだ」
「……はい」
「でも……だけどな、俺が今、笑っててくれって思うのはお前だよ。お前だけなんだよ」
失ってもなお焦がれる記憶を、全て投げ打ってもいいとは言えない。だが恵は嘘偽りなく、ジョンに抱かれることを自然だとも感じていた。
「ここまでされても、ちっとも嫌じゃねえんだ。俺が元々そういう人間なのか、お前だからなのかは……正直わかんねえけど」
「マスター」
「こんな空っぽの俺でよけりゃ、好きなだけくれてやるから」
恵の頬に、ジョンの目頭から溢れた水滴が落ちた。それは頬骨の形に沿って緩やかに流れていき、髪の生え際をささやかに濡らす。
「元からとか、空っぽとか、そういうのは、どうでもよくて」
ジョンは震える唇を噛み、か細くしゃくり上げる。けれど次いで浮かべた表情は、幸福にとろけていた。
「あなたはずっと、あなたです」
塩辛い唇が重なって、身体の力を抜いた。
不足する記憶を埋めるように、隙間を取り払うようにキスをする。男の指が丹念に後孔をくじる間も、夢中になって舌を絡ませ合った。
「っ、マスター」
どれくらいの時間そうしていたのか、ジョンが唇を離したときには完全に息が上がっていた。同時に後ろから指が抜け、圧迫感がなくなって肩を撫で下ろす。
「も、…う、挿れるか……?」
訊ねると、ジョンは肩を抱く恵の腕に抗って身体を起こす。暗がりでもわかるほど彼の目には欲情が宿っており、ギラついていた。
「痛かったら、言ってください。すぐ止めるから……」
「馬鹿野郎、お前はそれでも男か」
甘い目元を細め、ジョンはパンツと下着を膝まで降ろす。逞しい角度を保った男性器が彼の腹を打ち、プクリと鈴口に浮かんだ先走りがその身を伝った。
「あなただけです、そうやっていつも、俺を甘やかすのは」
「そうだったか?」
「ええ……だから俺は、こんなに弱虫になってしまいました」
広げた脚の間に陣取るジョンは、無垢な笑みを零す。純朴な表情とは裏腹に、先端のぬめりを自ら擦って馴染ませる自慰姿は淫猥だった。
男の尖端が解された穴にピッチリと触れる。
そして恵が深く息を吐き切った瞬間、それはぬうっと襞を押し広げて中へと侵入を果たした。
「う……っ」
「マスター、ちゃんと息して」
「ああ……心配すんな、大丈夫だから」
短く息を吐いて異物感から意識を背ける恵に、ジョンは三歩進んで二歩下がるようなもどかしい動きを繰り返し、「口癖ですか」と問う。
どう返すのが正解かわからず、恵は途切れ途切れに「そんなわけない」と呟いた。
「痛いときも、つらいときも、俺は言うよ。隠したりしない。言わないときは、痛くもつらくもねえからだ」
「嘘吐き……」
「お前に嘘を吐いたことは一度もねえよ」
反論は無意識に唇を突いて出た。ジョンは目を瞠り、それから泣きそうな顔で笑う。
「ええ。そうですね。そうでしたね。知ってましたよ。あなたはいつだって誠実でした。俺の正しさは、あなたが教えてくれたものだけで作られてた……っ」
「ふぁ……あっ」
ぐ、と尻にジョンの睾丸が触れた。か細い呼吸で仮初の生命を繋ぐ恵は、二人の交わる場所を見下ろす。
太い幹をずっぽりと受け入れ、食いしめるふちが心なしか嬉しそうにきゅんとひくついた。
「……よくできました。偉いな、ジョン」
手を伸ばし、最奥を突いたままうつむいて動かない男の頭を撫でてやった。顔を上げたジョンは、ポロリと目尻から大粒の涙を落とす。
恵の下腹へ着地したそれは、酷く熱く思えた。
「お前、また泣いてんのか」
「だって、あなたが、あなただったから」
「意味わかんねえよ。仕方ねえな……」
ポロポロと雫を落とすジョンを見上げ、肘をついて上半身を起こす。濡れた目尻を指で拭ってやると、ジョンは幸せそうに手の平へ擦り寄ってきた。
「ああ……マスターだ」
「そうだよ」
「名前……教えてくださいよ」
セックスの最中だというのに、穏やかな声色が恵を笑わせた。振動で中が締まったのか、ジョンの眉間にしわが寄る。恵はわかりやすい男の機微を可愛がりたくなって、手の平に寄せられた頬を親指で撫でてやった。
「動いてくれ。このままは、つらい」
ジョンは頷いて、いつまでも達せなさそうな動きで恵を揺さぶる。
「痛くないですか……?」
「ああ……大丈夫、だから」
異物感と圧迫感はなくならないが、奥底から湧いてくるような僅かな快感があった。ジョンは挿入の苦しさで萎えた恵の性器に指を這わせ、律動に合わせて擦る。
「ん、う」
「これ、いいです?」
「ああ、ん、いい」
明確な気持ちよさに呻いた恵は枕へ頭を置き、シーツを鷲掴んだ。
「ジョ、ン……それ、っあ、そこ……っ」
「ここ、ですよね?」
「ふ……っ」
張り出した硬い亀頭で内壁を擦り上げられると、じっとしているのが苦しい。初めはじんわりと湧き起こっていただけの感覚が、徐々にはっきりと恵を興奮させた。
「は、はぁ……っジョン」
「はい、マスター」
「こっち、来い」
額に汗を浮かばせて、ジョンは従順に恵へ覆いかぶさった。その間も穿つ動きを止めず、荒い息を吐く。
恵は男の肩を抱き、息苦しそうに開いた唇をキスで塞いだ。限界はすぐだ。この行為をするのは初めてであるのに、身体がそう言っていた。
「いい……ジョン、イク……ッ」
「俺も、もう」
「ジョン、あッ」
二人の間で震える屹立を、男の指先が捕まえて扱く。前と後ろを刺激されると射精感が競り上がって、恵はうわ言のように限界を告げたあと、間もなく吐精した。続いて、ジョンも喉を鳴らして動きを止める。
腹の奥で自分のものではない体温を感じながら、恵は濡れた下腹部を撫でた。
「……お前には、わかるか?」
上がりきった息を整えるより先に、疑問が口を突いて出た。
のっそりと頭を起こしたジョンはTシャツを脱ぎ、それで恵の腹と手を拭う。性器を抜いた後孔も丁寧に拭き終えると、ようやく反応が返ってきた。
「何が、ですか」
「なんで、こんなに幸せなんだ……?」
死んだ日に感じた絶望感は、一体どこへ消えたのだろう。負の感情を詰め合わせた鍵のない箱を常に持っていたはずなのに、ジョンの温もりに溶かされたのだろうか。あるいは吐き出した欲情に、知らず混ざっていたのだろうか。
抽象的な思考に耽る恵は、不意に手を取られた。大切そうに男の両手で包まれ、唇を押しつけられる。
「だったら、もう」
湿った息が指の股をすり抜ける。
ジョンはゆっくりと目を閉じ、祈りを捧げるように囁いた。
「置いていかないで」
まるで引き絞られるかのように胸が痛む。
切なくて、死した自分がまた、心臓が千切れて死んでしまうのではと半ば本気で思った。
「大切にするから」
ジョンはもう泣いていなかったが、代わりに恵が静かに泣いた。一体どこにこれほどの量を溜めていたのかと驚くくらい、それは止めどなく肌を濡らし、枕を湿らせる。
「ああ。……わかってる」
まぶたを閉じると、深い闇に不鮮明な夢の光景が浮かぶ。気のない返事をする若い恵は、隣の男を憎からず思っていた。そして頭を撫でるだけで幸せそうだった男は、ジョンに似ていた気がする。
その感覚がどういう意味を持つのか、恵は考えるのを止めた。だがジョンの腕に抱かれるのは堪らなく幸せで――懐かしかった。
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