Day 5・愛しき日々

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Day 5・愛しき日々

 翌朝も眠ったままのジョンをベッドに置いて、恵一人で階下へ降りた。  主に腰付近の倦怠感はあるが、開店準備は目を瞑っていてもできるほど慣れている。つつがなく支度を終えた恵は、ジョンを起こしに上がる前に珈琲を淹れた。  そこへ、軽やかな足音が聞こえてくる。残念ながらその音は、階段からでなく店の入口からだ。  げんなりと肩を落としてすぐ、勢いよく扉が開く。度重なる無体の結果、ついにベルは留め具の寿命を迎えてウェルカムマットの上へ落ちた。 「だーかーらー、扉は静かに」 「いやだねえメグミ、朝はまず挨拶をするべきじゃないかい? いの一番にお小言とは、全くつまらない男だ」 「誰のせいだっての……」  たった数秒の会話だけで、一日忙しく働いた気分になる。恵はジョンの珈琲をカウンターへ置き、転がったベルを爪先で弄んでいる役人に向かって「やめろ」と叱った。 「で? 今日は何?」 「今日はね、メグミに用があるんだよ」 「もうプレゼントはいらねえからな」 「あれは最初で最後の贈り物だよ。期待されても困るねえ」  特に面白い話をしているわけでもないのに、役人は楽しげに小躍りしながらカウンターへやってきた。妙なステップを踏み、片手間にジョンのための珈琲を手に取る。  気づいた恵が「あ」と声を発する前に、男はそれをくいと一口飲んでしまった。  瞬間、穏和な顔立ちが別人のように歪む。 「に……ッ苦いね! これはなんだいメグミ、僕への嫌がらせかい!?」 「はあ? んなわけねえだろ……ジョンのだ。勝手に飲みやがって」 「こんなものを口にする彼が信じられないね! まさか、ジョン君への嫌がらせで濃く作ったのかい? 酷いよ、なんて男だ」 「違えって。嫌がらせじゃなくて、ジョンはこれくらい濃くないと……」  突き返されたカップを受け取る動作が止まる。目線を豆かすに向けた恵は、普段の二倍は豆を消費していることを、今、初めて知った。 「なんで」  戸惑う恵の前へ役人が腰かける。  カウンターに肘をつき、橋を架けるように組んだ手の甲で顎を支える仕草は、何かを悪巧んでいるように見えた。 「キミは、白紙の人生を知っているかい?」 「白紙……?」 「巡り廊下に走馬灯が映し出されない、憐れな魂のことさ」  役人の言う意味がわからない恵は、呆然と男の笑顔ばかり見つめる。返事がないのは面白くないのか、男はつまらなそうに口を尖らせた。 「何か言っておくれよ。独り言は楽しくないよ」 「……ありえねえだろ、何も映らないなら浄化できねえじゃねえか」 「そうだねえ」 「俺みたいな記憶のない人間ですら、映るんだぞ? それをお前……」 「実はここだけの話、浄化されてなくても生まれ変わることはできるんだよ」 「は?」  初耳の事実を聞かされた恵は素っ頓狂な声で衝撃を表す。  役人は演技がかった溜め息をはふんと吐き出し、遠い目を巡り廊下へ続く扉の方角へ向けた。 「ずーっと昔は浄化も何も関係なく、死んだ魂を始まりの扉に押しこんでいたからね」 「でもお前、浄化しないと後世に記憶が持ち越される可能性がって」 「そこが問題なんだよ。管理体勢がまだ甘い時代、人は爆発的に増えた。そしたら何故か仲違いして、あちこちで戦争をし始めてね? こっちの許容量にも限界があるから、とにかく転生させていたら、記憶を持ったまま生まれた人間が増えて、魔女だ悪魔だって大騒ぎの末に……大虐殺が起きてねえ」 「う、わー……」 「概念の僕が消滅しそうなほど忙殺されたよ。だからそのあとは、我々も魂の浄化を念頭に置くようになったのさ」 「あ、そう……」  妙にリアルな昔話のせいで鳥肌が立つ。  話題は逸れてしまったが、用件はまだ見ぬ白紙の人生を語ることではないだろう。  何かが喉奥で引っ掛かっているような不快感を覚える恵は、持ったままだったカップをシンクに置いて役人を流し見た。 「で? それを教えてどうしたいんだ」 「もう少し真剣に聞いたらどうだい?」 「俺に関係があることならな」 「あると気づいているから、そんなに怖がっているんじゃないのかい?」  虚勢を張るなら、一瞬たりとも口籠ってはいけない。恵はそれを理解しているにも関わらず、不意に図星の中心を貫かれて口を閉ざしてしまった。  役人は温度のない笑みを崩さない。 「巡り廊下はね、幸せな記憶を優先して見せるんだ。そうしないと、無数についた魂の溝には未練が残ってしまうから」 「……それで?」 「けれど、大きくて修復できない傷を持ってこの世界にやってくる魂もいる。巡り廊下は幸せな記憶を見つけられない。何故なら、心が壊れてしまっているからだよ」  なんて理不尽なシステムだろうかと、恵は役人から顔を背ける。  この世界にやってくる魂は皆、どんな形にせよ死の恐怖を味わっている。そんな魂を癒す浄化という作用は優しく、唯一の救いでなければいけない。  それなのに、二度目の死を迎える瞬間まで幸せな記憶を見せてやれないなんて、考えるだけで苦しくなった。 「本当に……何も映らないのか」 「何も、とは言っていないよ?」  キョトンと目を丸める役人は、揚げ足を取って首を傾げる。  そして人差し指を立て、笑顔にそぐわない言葉を吐いた。 「巡り廊下は壊れた心の中を必死に探す。そうしてやっと見つけた、最も苦しんだ記憶を映し出し、忘却させて、壊れた部分を慰めようとしてくれるらしいよ」  腹の中央を圧されるような息苦しさに襲われる。足元から闇の中へ引きずりこまれそうな絶望感は、この世界にやってきた日の比ではない。 「な……んだよ、それ……最も苦しんだ、記憶って、お前……」 「ああ、そんな顔をしないでメグミ。この区域に壊れた魂はいないよ。紛れこみでもしない限りはね」  恵は役人を睨み上げた。嫌な予感は空気を取りこむ風船のような傍若無人さで膨らみ、不安を煽る。 「……何が言いてえの」 「そろそろ認めたらどうだい?」 「だから、何が」 「巡り廊下は、彼の記憶を」 「っやめろ!」  腹の底から迸った怒鳴り声は、発した本人にも耳鳴りを寄越す。全速力で走ったあとのように呼吸が荒くなり、乾燥した喉がヒリつく。  言葉を遮られても感情を波立たせることのない役人は、恵の様子を興味深く観察しているようだった。 「やめて、いいのかい?」 「……ああ。帰ってくれ」  強い主張に微笑んだ役人は、目を伏せたと同時に霞んで消えた。いつ見ても不思議な存在だ。しかし今はそんなことより、与えられた情報に動揺していた。  役人は、ジョンが白紙の人生を持つ魂だと言いたいのだろう。癒せないほどの深い傷を負って心の壊れた、憐れな存在だと。  彼の腔内から飴が消えたあとも、彼の記憶は白い空間を彩らなかった。それは確かだ。恵は自分の目で見た光景を疑わない。  しかし、何故そんな話をしたのかは推測できない。恵に白紙の人生を知らせることが、どのような得に繋がるのだろう。  役人は魂を管理し、滞りなく巡らせることを存在理由とした概念だ。そのための行動しかしない彼らの、懸念事項は魂不足の一点に尽きる。個体としての感情など持ち合わせていない、とは本人が言っていた。  ならば、なんのために――?  グルグルと回転する思考回路が、ある仮定を弾き出す。その瞬間、恵は髪を掻き乱した。 「……違えよ」  瞬くたびにチラつく幸せな夢を、そこにいた人物を、重なる笑顔を必死に忘れようとする。 「ジョンじゃねえ。ジョンなわけ、ねえよ」  強く言い聞かせたそのとき、二階からガシャンと何かが割れる音が響いた。恵は思考を中断し、無意味と知りつつ天井を見上げる。 「……ジョン?」  ハッとして階段を駆け上がる。寝室の扉を蹴り開けると、音に驚いたジョンが中腰のまま振り返った。  ベッドの足元付近、床に散らばるのは灰皿のガラス片だ。彼がそれらに手を伸ばしているのを見た恵は、無我夢中で声を張り上げた。 「素手で触るなって言っただろ!」  あからさまにビクついたジョンが手を引っこめる。声もなく恵を見つめる彼の表情は、悪戯をして親に叱られることを予知している子どものようだった。  真っ先に駆け寄ってやりたくなる自分を律し、恵は寝室の隅に立て掛けてある小ぶりなほうきを取る。 「どけ」  放心しているジョンをベッドの上へ押しやり、ガラスと吸い殻を集めていく。恵は無心で手を動かしていたが、いつの間にか隣でしゃがみこんでいたジョンに手首を掴まれて箒を落とした。 「……怪我してねえか」 「してません」 「ならいい。離せよ、ちりとり持って来るから」 「嫌です」  大小様々な形に砕けた破片に、窓から差しこむ光が反射して煌めいた。いやに眩しくて目を眇め、溜め息を吐く。 「別に怒ってねえから、心配すんな」 「思い出したんですか」 「何を」 「俺は多分……あと少し、しか」  悲しげに伏せた睫毛を伝って、破片のそばに男の涙が落ちた。恵は言葉をなくし、ただ止めどない雫の行く末を見送る。  ジョンは軽く鼻を啜り、睫毛にまとわりつく涙を瞬きで振り落とした。  そして何かを決意したように、立ち上がる。 「マスター、出掛けましょう」  ぐ、と手首を引かれた恵は、足を踏ん張って拒絶を示した。 「ぃ、嫌だ」  ジョンは集めたばかりの破片を踏みしめ立ち止まる。手首を離す気はなさそうだが、恵の主張に耳を傾けていた。 「俺は外に出ねえ」 「……どうして?」 「記憶がねえから」  この世界の全てに、決まった形はない。与えられた「家」というスペースから一歩外に出れば、そこに存在しようとする魂の記憶や思いに呼応して、道も、街並みも行き先をも自由に変化する。  一度好奇心で店の外に出た恵の前に広がったのは、どこまでも続く無の空間だった。伸ばした手先が見えないほどの濁った世界は、思い出すだけで鳥肌が立つ。そのとき、もう二度と外に出ないと決めた。 「なんもない空間が怖えんだ。だから俺は」 「大丈夫です」  手首から手の平へ握る場所を変えたジョンは、ぎこちなく微笑む。心なしか昨日より冷たい彼の手は、それでも恵を安心させた。 「マスターに記憶がないなら、俺のをあげます。だから大丈夫です」  何が「だから」なのか、全くもって理解できない。根拠のない幼子の言い訳と、大して変わらないほど馬鹿馬鹿しい。  それなのに、恵は頷いていた。  手を握り返すと、ジョンは迷いなく足を踏み出す。図体ばかり大きくて頼りなく思えていた彼の背中は今、恵が歩みを止めないための指標になっていた。  階下へ戻り、入口の扉にジョンが手をかける。腹をくくった恵の目前で、少しずつ明らかになっていく景色は、想像と何もかもが違っていた。 「あ……」 「ね、大丈夫だったでしょ」  恵のこめかみに唇を押しつけ、ジョンは店外に一歩出る。そこは、少し古びた家屋が立ち並ぶ路地だった。  スプレーで悪戯書きされた細い電柱、錆びた自転車、室外機に並列されたいくつものプランター、そこに咲く色とりどりの花。屋根の低い平屋のそばを歩くときだけ、日差しが側頭部を温める。不規則な間隔でできあがった歪な形の影を、無意識に選んで踏むとノスタルジックな気分になった。  秘密基地の入口みたいな路地を抜けると、整えられた桜の並木道に合流していた。青々と茂った木々の間を進みながら、恵は風で揺れる木の葉を見上げて微笑む。  見覚えはないのに、とても懐かしい。もはや恵には、あれだけ強く言い聞かせた否定を押し通す術がなかった。 「うすうす、勘づいてはいたんだ」  返事はなかったが、繋いだ手に力がこもる。 「夢に出てきた男は、お前だろ」  あわよくば、ジョンが吹き出して笑い飛ばしてくれることを願った。しかし淡い期待は叶わず、男は鼻を啜る。  恵はそれ以上何も言えなかったし、ジョンも黙りこくったままだった。世間話ができるような精神状態でもなければ、核心を突いて真実に触れる覚悟もできていない。歩みとともにこの世界がフリーズしてくれるなら、立ち止まることを躊躇わなかっただろう。  けれどジョンは並木道の途中で曲がり角を右折し、手前から三軒目の喫茶店へ恵を導いた。店内へ入ると固く握り締められていた手が離れ、恵は一人、扉の前に取り残される。  そこは、昨夜の夢と同じ喫茶店だった。  カウンターには足の長い椅子が四脚、テーブルセットが二卓。目覚めたときには曖昧になったはずの光景が、強い既視感とともに輪郭を取り戻した。  ジョンは真っ直ぐにカウンター席の左端から二番目に腰かける。そして身体を左向け、頬をペタリとテーブルへつけて寄りかかった。 「今日こそ、名前を教えてください」  異様に小さな声だった。ジョンには似合わない気がして、恵は無理に笑い声を立ててから彼の左隣へ座る。そうするのが自然だと、心が教えてくれた。 「しつけえ」  ジョンは嗚咽を零して泣き始めた。ダークブラウンの天板へ、彼の流した涙が溜まる。  恵はその雫を飲み干したい衝動に駆られたが、手を伸ばす前に男が熱い溜め息を吐いて口火を切った。 「知ってますか。この世界では、一番大切なものから順に、浄化されていくんです」  頷くと、ジョンは下手な作り笑顔を象った。 「だから俺は、真っ先にあなたの名前を忘れてしまいました」  恵は煙草のヤニで少し黄ばんだ天井を見上げ、深く、長い息を吐く。じんわりと痛んだ目頭から想いが零れないように、忘れたままの情を、取り上げられてしまわないように。 「馬鹿だなあ……」 「はい。よく、あなたに言われます」  眠そうに微睡んだ声で言い、ジョンは恵の右腕へ触れる。 「でも、もう少し、あなたといたい」  さほど大きさの変わらないその手を握る。  競り上がってくる愛しさで、頭がおかしくなりそうだった
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