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Day 6・不誠実な真実
ジョンが恵の元へやってきて、六日目の朝を迎えた。
一週間ぶりに珈琲を飲みにやってきた朗らかな好々爺が、杖を片手に席を立つ。
「私はそろそろお暇しようかな」
「はい、じゃあまた」
「ああ、また。美味しかったよ、ありがとう」
腰の曲がった男は杖をつき、のんびりと店を出て行った。恵は彼がこのあとどこへ向かうのか、「また」と交わした約束が叶うかどうか知らない。わかるのは男の時間が、長くてもあと一月程度しかないことだけだ。
ほどなくして、少ない洗い物を片づける恵の耳に、取りつけ直したベルの音が届いた。
反射的に「いらっしゃい」と言って顔を上げ、思わず吹き出す。
「なんだ。静かに開けられるんじゃねえか」
揶揄された役人は得意げに肩を竦め、カウンターへやってくる。
「もちろんさ。そろそろ僕も、君のお小言には飽きたからね」
「もっと早い段階で飽きてほしかったよ」
「おや、てっきり褒め称えてくれるものだと思っていたのに」
「あーすごいすごい」
雑な称賛に役人は不満そうな顔をしたが、恵が出した珈琲を見て笑顔に変わる。
「おやめずらしい。メグミが僕に飲み物を出して歓迎してくれるなんて」
「たまにはいいだろ」
役人は上機嫌でカップへ口をつけ、美味しそうに飲み始める。身体の構造は人間と同じなのだろうか、と考えるのは無意味だろう。
「今日は何しに?」
「君の顔を見に、はどうだろう?」
「ああ、人っぽいわ。本当は?」
「他愛のない話をしようかと思ってね」
熱い珈琲を休憩もせずに飲み干した役人は、洗い物を再開させた恵に食器を手渡す。そしてカウンターへ肘をついた。
「今日も彼、いないのかい?」
「いるよ。今頃は上で、空でも見てんじゃねえかな」
「そうかい」
役人は言及することなく笑っただけだった。
食器を片し終わった恵は水を止め、手を拭きながら役人の隣へ行って座る。しばらくは誰も来ない気がしたから、適当な灰入れを用意して煙草に火を点けた。
「あいつは、いつからここに?」
「少なくとも、君よりはあとだね。もう知っているんだろう?」
「ただの確認だ」
いよいよ、恵の抱く確信は真実となっていく。息苦しいほどの切なさをのみこみ、なんとか煙を吐いた。
「概念は魂を管理して、巡らせるためだけの存在じゃねえの。なんで、こんなことした」
「こんなこと、とは?」
「とぼけるなって。お前らは早々に魂を浄化して輪廻させたいんだろ? なら、あいつを俺に会わせる必要はなかったはずだ。現にあいつは……ジョンは、ほとんど浄化されてたはずなのに、ここに来て自我を取り戻した」
どう考えても、きっかけは恵だ。能率をあえて低下させた役人の行動には、疑問しか浮かばない。
けれど役人は腕を組み、ううん、と唸った。
「おかしいかい? 僕は、これが一番いい方法だと思ったんだけど……ああ、君には側面しか見えていないものね」
「側面? お前がしたのは、生前の恋人同士を会わせることだろ。どう考えてもおかしいと思うぞ」
男は生白い顔の中で最も赤い唇を、にんまりと両端へ吊り上げた。
「僕は昔、もっとおかしな人間を見たことがあるよ」
意図的に答えをはぐらかされたことは知っていたが、恵は問い正さずに続きを促した。
「へえ、どんな?」
「僕がこの区域を担当するより前のことだ。ある死者だけを集めた特殊な場所があるんだけれど。そこに……とっても暴れん坊な男がやってきてね」
幼きころを懐古するような眼差しで、役人はなんの変哲もない食器棚ばかりを眺める。
「彼は言ったよ。『私は宗教を重んじてきたのに、ここには地獄も天国もない。裁かれたくて大罪を犯したのに、これでは贖えない。不公平じゃないか』……とね。平等に浄化されていく自分を責め、僕たちに当たり散らした」
特殊な場所に集められているのは、罪人なのだろうか。しかし恵は過去に見送った魂の中にも、犯罪者がいたことを思い出して首を捻る。
役人は漂う煙草の煙を、指先で混ぜながら続けた。
「少しも平等じゃないのにねえ。彼らは人より浄化に時間を要するし、巡り廊下の施しも受けられない。僕からすれば『人』に生まれたことが既に、罰を受けているようなものだ」
「酷えな。人生は罰ゲームかよ」
「違うのかい? だって、自分を殺せる生き物は人間だけだよ」
ひゅ、と息をのんだ恵を横目に、役人はオーバーな仕草で肩を竦める。
「けれどね、僕は思うんだ。そんなことはどうでもいいから、早くこの魂不足の世界に綺麗な魂を返しておくれよ、と」
「……最低だな」
「失礼な」
恵へと向けられた男の目は、少し怒っているのか軽く吊り上がっている。
「信仰心も死生観も、キミたち人間が勝手に作って勝手に信じているだけじゃないか。魂に罪はないだろう?」
「ああ……まあ、お前らしい」
「僕に個性はないよ。みんな同じ考えさ」
あっさりとした物言いに苦笑する。
しかし次に役人が発した「だからね」という前置きの、声の頼りなさに驚いた。
「これでも僕は、とてもたくさんの人間を見てきたんだ。そして人間は抑制より共感を与えた方が遥かに従順になり、扱いやすいことを知ったよ。だからね、死を贖罪だ、愛だと呼ぶ人間を理解しようと務めた」
「……理解できたか?」
「さあね。でも、自らを殺すことを罪だと言うのなら、その先の生を知らずにここへ来てしまったことは、十分な罰になるんじゃないかな」
役人が恵に何を教えたくてこんな話をしたのかは、もう明白だった。
「駄目押しすんなよ……わかってんだ」
まだ長い煙草を灰入れの底に押しつけて消し、片手で目元を覆う。直視したくない真実を言葉にされ、大きすぎる喪失感で頭がぐらついた。
そんな恵の肩を、ポンと叩く手があった。
「なら、もういいんじゃないかな。彼はあまりに長く、苦しんでいるよ」
「……ああ」
「僕が人間であるならきっと、可哀想だ、と言っただろう」
スルリと手が離れた。視界を閉ざしたままの恵には見えないが、音と気配が遠ざかる。
「早く眠らせておあげ。彼が、キミを憶えているうちに」
役人は人のように扉を開け、出て行ったようだ。
手を下ろし、息を吐く。恵の心には迷いが渦巻いていた。
「そんなこと、簡単に言うなよ……」
特殊な場所に集められている自殺者は、浄化に時間がかかり、巡り廊下の優しさを知らずに転生する。理不尽な理にリンクしたのは、昨日語られた白紙の人生だった。
「ジョン……」
あまりに彼が報われない。生前の自分たちに何が起きたのか、思い出せないことがもどかしい。先に逝ったのは恵だ。その後、何故彼は死を選んでしまったのだろう。
恵は閉店中の札を外から見えるように置き、その足で二階へ上がる。寝室に入ると朝見たままの位置でぼんやりと外を眺めるジョンの背中が見えて、目頭が熱くなった。
「ジョン」
ベッドの端に腰かけた男は振り返らない。
急速に浄化が進んでしまったのか、昨夜はポツポツとでも話せていたのに、今朝には動かなくなっていた。
隣に座り、ジョンの肩をぐっと抱き寄せる。
服越しでも手の平へ伝わる冷たさを、未だ信じたくはなかった。
「苦しいか、ジョン。つらいか。悲しいか。今、お前はどんな気持ちでいる?」
事実を知った者として、彼を愛しく思う者として、一秒でも早くジョンを苦しみから解き放ってやるべきなのだと理解している。
しかし耳の中に木霊するジョンの声が、正常な判断の邪魔をする。もう少し、といじらしく囁いた彼を思い起こすたび、固めかけた決意は誘惑の手で崩れていった。
(今夜だけ。――もう少しだけ)
その願いがジョンのものか、恵のものか判断つかない。感情の境界線がこれほど曖昧ならば、いっそ二人分まとめて溶けてしまえばいいのに、と無理な祈りを抱いた。
その夜、恵は片時もジョンのそばを離れなかった。しっかりとその身体を抱き寄せて、もう一度奇跡が起きやしないかと、完璧なまでの無表情を見つめ続けた。
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