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Day 7・死の中で生きること
ふと気づいたとき、窓の外は明るくなっていた。眠るつもりはなかったはずなのに、いつの間にか寝入っていたようだ。
腕の中には恵の腕枕で横たわるジョンがいる。昨夜と変わらぬ体勢で時折瞬きをするだけの男は、眠るという行為もできなかったのだろう。
「……なあジョン。俺はどうしたらいい? どうしたら、お前に……報いてやれる?」
このまま、腕の中に囲っておけばジョンが恵の前から消えることはない。記憶のない恵が、ジョンを置いて先に転生することもない。
だったら何も考えずこうしていたい。そう思った瞬間に、恵は自分の取るべき正しい行動がわからなくなってしまった。
「……を、……さい」
「え?」
不意に自分以外の声が聞こえ、恵の心がざわついた。ここにいる恵以外の人間はジョンだけだ。
信じられない気持ちで男の顔を凝視すると、彼はぎこちない瞬きのたび、徐々に胸元から視線を上げて恵の顔を見た。
「なまえ……」
「――ッ」
これは夢だと言われたほうが、まだ納得できる。恵は見開いた目から涙を零し、二度目の奇跡に触れた。
「お前……どんだけ、俺のこと、好きなんだよ」
「泣かないで、今度は……まもる、から」
のろのろと持ち上がった男の手が、恵の背にまわってそこを叩く。ゼンマイの勢いを失ったオルゴールが、最後の音を絞り出すように、ゆっくりと。
「だい、すき」
「……ああ」
ジョンの頭を抱きこんで、恵は震えて詰まりそうな息を大きく吐き出した。強く目を閉じて涙を払えば視界もクリアになり、目先の安らぎを蹴り飛ばす決意ができた。
「ありがとな。もう……十分だ」
一人旅立った恵をこんな世界まで追いかけてきて、求めてくれた。一年が経ってもなお浄化されずに苦しみ続け、そばにいようとしてくれた。これ以上この健気な男に望むものなど、何もありはしない。
次は恵が、その愛情に応える番だ。
ジョンを連れて階下に降りると、カウンター席には役人が座っていた。
「やあ。待ちくたびれたよ」
男はこれから恵が何をしようとしているのか察しているのだろう。魂の生前も状態も、考えていることまで見通す概念にはほとほと隠しごとができない。
「死者統括部って暇なのかよ」
「失礼な。人間は付き合いの長い友人と別れるとき、見送りをするんだろう?」
「つくづく、お前は人間くさいよ」
予想では「心外だ」と悪態を返されるはずだったが、役人はめずらしく苦笑していた。
「実は僕も、そう思っていたところなんだ」
「へえ……本当は人だったりしてな」
「だったら説明ができるね。キミに会いたい一心で、この世界の浄化作用に抵抗するジョン君を見て……会わせてあげたい、と思ったありえない気持ちも」
「……そうかよ」
「ねえ、僕もついて行こうか?」
恵は驚いて役人の顔を凝視した。
「何言ってんだ。役人は中に入れねえんだろ」
「そう聞いているけど、試したことがないから断定できないね」
「だとしても、お前はここにいろよ。一人の帰り道は結構つらいんだ」
「僕に感情はないよ」
「そうとは思えねえな」
笑っていない役人は、まるで別人のようだ。
恵にはそれが本当に別れを惜しむ友人に思えたから、気安い仕草で片手を振った。
「気持ちだけもらっとく。……じゃあな」
ジョンの手を引いて巡り廊下の扉へ向かい、瓶から取り出した飴を口に含む。役人は何も言わなかったが、彼の権限でしか開閉できない扉は鍵が開いていた。
迷いなく、恵はジョンとともに白い空間の中へ足を踏み入れる。
するとやはり、待てど暮らせどジョンの記憶は映し出されなかった。白紙の人生という空虚な響きどおり、巡り廊下の優しい白には戸惑うようなノイズが走った。
「こわい」
隣からポツリと声が聞こえ、繋いだ左腕を抱きこまれる。ジョンは緩やかに目を伏せ、恵の肩に顔を埋めた。
咄嗟に彼の頭を空いている腕で包んだ恵は、ノイズだらけの中へ滲むように浮かび上がった映像を見て息をのむ。
「ジョン……?」
遮光カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、ジョンが呆然と立ち尽くしていた。
彼の虚ろな目は、手作りらしき木製の位牌を見つめている。その隣には写真立てがあり、幸せそうなジョンと恵が映っていた。
マグカップを満たす水、同じ銘柄の吸い殻ばかり入ったガラスの灰皿、線香立て。火を点けたばかりなのか、煙をくゆらせる線香はまだ長い。
それがジョンなりに整えてくれた、恵のための仏壇だと悟るのは簡単だった。
ポケットの中で鳴り始めた携帯を取り、電話を受けたジョンが小さな声で「はい」と言った。そして無言になる。やがて何も言わないまま電話を切って床へ落とし、位牌の前に座った。
恵は頼りなく丸まった背中を見つめ、唇を噛む。
役人は言った。白紙の人生を持つ魂は心が壊れていると。そして、巡り廊下は幸せな記憶を見つけて映し出してやれない。映し出せるのは――最も苦しんだ瞬間だけだと。
「こんなの……あんまりだろ」
声にならない不満が吐息とともに零れると、首元でジョンが身じろいだ。本能的に、見たくないものから逃げようとしているのだろう。
「いい、見るな。その分俺が見てるから」
得体の知れない恐怖が足先から這い上がってくるものの、恵はジョンの記憶から目を逸らさなかった。
その内、生気が抜けたように座りこんでいたジョンが位牌を手に取る。
『知ってますか。今日、四十九日なんです。そろそろあなたは、天国についたころですか?』
ほと、ほと。落ちていく男の涙が、位牌の木色に濃いシミを作る。
『いろんなことがありました。たくさん、あなたの思いを踏みにじらずに生きていけって、励ましてもらって……それと同じくらい、なんで、お前が生き残るんだって、……でもそう言った人は、あなたを失ったつらさに耐え難いからだって、俺もわかってて』
濡れた部分を一生懸命に袖で拭うジョンは、降り止まない涙に疲れたのか、位牌に額を押しつけた。
『俺には思い出があるから、大丈夫……そう思ってたん、ですけど』
詰まる息を吐き出したジョンの声に、嗚咽が混じり始める。く、く、としゃくり上げる子どもみたいな泣き方が憐れで、そうさせている写真立ての中の自分に憎しみが湧いた。
『あなたのお母さんが……いつも、言ってくれるんです。全部忘れて、幸せに生きなさいって。もういいのよ、あなたは悪くないのよ、って、泣きながら、何度も……』
嗚咽が不自然に止まる。静けさが漂ったかと思うと、ジョンは灰皿を掴んで壁へ打ちつけた。衝撃音と割れる音がして、ガラス片と吸い殻が仏壇の上へ散る。
恵にしがみつくジョンが、怖がって腕の力を強めた。
『そんなの、無理に決まってるのに。あなたがいないと、俺に意味なんてないのに。初めての、たった一人の、俺の家族なのに、そんな、優しくて残酷な、こと……っ』
消え入りそうな声で絶望を訴えるジョンは、位牌を元の位置に戻す。そして写真に映る恵を指先で撫でた。
『時々わからなくなるんです。本当に、あなたは俺の恋人でしたか? ここで一緒に住んでいましたか? 全部、俺の妄想ですか?』
項垂れる背中は、ノイズに混じって掻き消えてしまいそうなほど震えている。
『俺が死ねばよかったなんて、言いません。置き去りは、とてもつらいんです。だから……あなたが怒るって、きっとすごく怒るってわかってるけど』
今すぐ抱き締めてやらなければ壊れてしまうと思うのに、恵にはどうにもできない。
歯噛みしたとき、映像の中のジョンは笑った。
『見ないで』
写真立てがパタンと伏せられる。
灰で汚れたガラス片を取る手が妙に生白く、恵はゾクリと悪寒を覚えた。
『何もないまま、生きていくくらいなら』
最後まで言葉は紡がれることなく、浮かび上がっていた映像ごと途切れる。
静寂を取り戻した廊下にはジョンのすすり泣く声と、足元に張った水音だけが響いた。
「……こわい、あなたが、いない」
「ジョン」
重たそうに頭を上げたジョンが、恐る恐る先ほどまで記憶を映していた場所を振り返る。
そこに何もないことを確かめ、安堵すると同時に切なさで横顔を歪ませた。
「なまえ、よび……たかった、のになあ……おれのきおく、は、まっしろで」
ほろりと顎を伝って落ちた男の涙が、足首までを満たす水に混じる。その様を見送る恵は、以前に役人から聞いた話を思い出した。
「この水な、巡り廊下を通る魂が一生の内に流した涙と同じ量なんだぞ。お前の涙は……ふっかいなあ」
どうすれば彼の恐怖を和らげてやれるのか、考えたのは一瞬だった。
恵は口内のまだ大きな飴を、一思いに噛み砕く。ゴリゴリと奥歯で磨り潰しては喉の奥へ流しこむ作業を、ジョンはぼんやりと眺めていた。
「なんで……そんな、やさしいの」
「馬鹿。俺だって誰にでも優しかねえよ」
完全に飴が口内からなくなると、晴れやかな気分だった。恵は散歩へ出かけるように、繋いだ手を引いてジョンと歩き出す。
すると今まで白かった空間に、いくつもの記憶が浮かび始めた。
「これで白くねえよ。怖くねえよ。きっと、そのうちお前との記憶も出てくる」
「でも……そし、たら、あなたは」
「一緒に見ろよ。デートだ、デート。久し振りなんじゃねえの」
泣き腫らして真っ赤になったジョンの目尻が、溶け出しているかのように垂れ下がった。
それきり言葉を交わすことなく、恵の人生を辿って歩く。幼少期から始まり、中学高校と順を追って見せられる記憶が、その都度恵の中に戻ってくる。この記憶は、それほど経たず古いものから巡り廊下に浄化されていってしまう。恵が気づけないまま、静かに。
だが、それで構わなかった。二人で過ごした記憶を少しでも長くジョンに見せてやれるなら、恵は喜んで古い記憶を廊下に差し出す。
そう思える自分が誇らしかったから、込み上げてくるものを目頭から恥ずかしげもなく垂れ流した。
足首までだった涙の量はいつしか、ふくらはぎに達している。二人分の涙は深く、そしてほんのり温かかった。
「……ああ、ほら。ジョン、見ろよ」
恵が立ち止まるとジョンも倣う。
二人が見つめる先には、大学生の恵がいる。
恵は気だるそうに広いキャンパス内の芝生を歩いている最中、前方から歩いてくる、ふらついた男に気づいて首を傾げた。地味でもっさりとした冴えない男は苦しそうに口元へ手を置き、まるでスローモーションのように膝をつく。
恵は駆け出して、男を抱きかかえた。真っ青な顔をした男は耐えきれず吐き戻すが、恵は彼の背を撫でてはそれを促した。
「ひーろー……が、きたって、おもった」
服も、髪も、持ち物も考え方も、何もかもが垢ぬけないころの自分をながめ、ジョンが照れくさそうに笑う。
騒然とする中、何度も「ごめんなさい」と謝るジョンの声を思い出した。恵は吐しゃ物で汚れていない服の裾で男の口元を拭き、「いいから気にすんな」と笑ったのだ。
「このときは全然、人に慣れてなかったもんなあ、お前」
「ん……」
気を失ったジョンをそっと芝生へ横たえ、恵は潔く服を脱ぐ。荷物を友人に預けると、ジョンを抱いて立ち上がり、医務室へと走った。
医務室のベッドで目を覚ましたジョンが開口一番に「あなたに惚れました!」と喚くのを、懐かしく微笑ましい気持ちで見続ける。
忘れていたけれど、失くしてはいない。
これは彼と過ごした、大切な日々の記憶だ。
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